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2016-09-14

日本画家 後藤純男先生との思い出

 今年、私の師である後藤純男先生が、「第72回 日本芸術院賞・恩賜賞」をご受賞され、授賞式は天皇・皇后の行幸啓を仰ぎ、2016年6月に挙行されました。
 また、2016年の4月からは東京藝術大学名誉教授にご就任され、9月には流山市名誉市民の第一号に選ばれたという事です。誠におめでとうございます。心より御礼申し上げます。

 後藤純男先生は、日本画団体・日本美術院(院展)の同人理事であり、東京藝術大学(日本画専攻)教授と中国の西安美術学院(大学)名誉教授を歴任され、2006年には日本国勲章「旭日小綬章」をご受章された、日本画界の重鎮です。一般の方には、ネスカフェゴールドブレンド「違いが分かる男」のコマーシャルに出演された事でも知られています。

・・・・私は、1990年の東京藝術大学 受験面接で、平山郁夫先生、加山又造先生、福井爽人先生らとともに後藤純男先生に初めてお目にかかり、1994年、東京藝術大学3年生の時に、後藤純男先生のご担当で日本画を教わったのが、先生との最初の出会いです。
 ここからしばらく、私の絵画勉強期間を振り返ります。私は大阪市立工芸高等学校 美術科日本画を始めましたが、周りの意識・技量は決して高いとは言えず、もっとハイレベルで創作に良い環境を求めていました。・・・高校1年生の時は、美術の実技はクラス中で群を抜いた高評価だったのですが、数学・英語を絵に必要ないと考えて全くやらなかったので、留年させられてしまいました。その後3年間は、一念発起して学業にも力を入れ、学科も平均点95点位となり傑出して一番を維持し、実技(日本画・油絵・彫塑・素描・製図等)も全教科一番、おまけに体育も一番でした。当時、私は工芸高校始まって以来の天才とか、宇宙人とか、変人とか、陰で言われていました。私は、ほどほどという事を知らない人間なので、これでは周囲に嫉妬されるのも当然ですね・・・。
 高校卒業後、単身上京し、新聞配達の奨学生をしながら美術予備校・立川美術学院 日本画科で学びました。そこで当時講師をしていたのが、今は現代アートの第一人者となった村上 隆さん(東京藝術大学 博士後期課程満期退学)と、日本画家の菅原健彦さん(多摩美術大学 卒業。現在、京都造形芸術大学 教授)達でした。日本画に対する考え方はこのご両人と私は大きく異なりましたが(お二人は前衛的・現代美術的な考えで、私は伝統・描写力・情感を重んじる考え)、お二人の”絵”に対する情熱やパワーは相当高いものがあり、私は今でも大きな影響を受けています。こんな人達がゴロゴロいる美術大学の最高学府・東京藝術大学とはいかなる所なのか・・・と期待は高まりました。ただ、予備校の1浪時は新聞配達・集金をしながらの予備校通いで時間がうまく調整できず、2浪時も試験に受かる事だけを考えた予備校教育に当時は反感を覚え、実質、授業の半分位しか行っていなかったと思います。それでも、最初こそ関西風の描き方を東京風の描法に変革するのに手間取りましたが、2浪の後半はグイグイと実力が伸びて、特に石膏デッサンでは私の右に出る者はいなくなっていました。
 しかし、せっかく2浪して20倍以上の狭き門を突破して入学した、東京藝術大学 日本画専攻は、私が想像していた所とは少し違っていました。私の空想では、26名全員が朝から晩まで絵に向かい、良きライバルとして切磋琢磨している姿でした。だが実際は、私以外のほとんどの人は欠席するは・遅刻するは・早退するは、部屋のあちこちで無駄なおしゃべりをしているは、絵について熱く語り描く風潮は微塵もありませんでした。常日頃、「どの先生に付いたら出世できるだろうか、誰の絵に似せて描いたら先生に評価されるだろうか・・・」といった話題ばかりが目立ちました。大学2年生になり、このような雰囲気に辟易としていた頃、「後藤はこのまま行けば出世しそうだ・・・」という噂が流れ始めました。こうなると案の定、日本画名物・足の引っ張り合いが私に集中しました。高校の時にも、あまりに成績が良過ぎた私を妬んだクラスメイトほぼ全員から、2年間近く完全無視されるという苦痛を経験している私は、今回は東京藝術大学 日本画専攻の雰囲気に完全に幻滅し、大学を離れようと決心しました。その後2年間余り、自主研究として、時々は日本画・水彩画・アクリル画を描いてみたり、詩を書いてみたり、カメラにこってみたり、旅をしたりしていました。この2年間余りが、現在までで私が最も日本画(絵)を描いていなかった期間です。この時は、日本画界が心底、嫌になっていたのです。
 ところがカッコいい事を言ってみても、所詮は親の仕送りで生活している青二才です(アルバイトは常々していましたが)。親からの心配・非難の声も大きくなり仕送りを止めるとも言われて、それ以上に親不孝な自分を恥じて、ようやく渋々大学に戻る決意を固めました。2年余りぶりに大学に戻る日、受験発表の日と並んで、いやそれ以上に今までで最も緊張した日かも知れません。私は2学年留年させられており(留年は2年間まで可能)、既に3年生の一学期に入っていたので本当なら退学処分のはずでした。
 教授室に呼ばれ、3年生の担当の後藤純男先生と手塚雄二先生が並んで座っておられました。後藤純男先生は名字が同じという事もあり、寺院を描かれるという事もあって、中学・高校時代から存じており、好きな現代日本画家のお一人だったのです。手塚先生が睥睨した目つきで、「本当ならもう退学の時期だが、何をしていたのかね・・・。日本画を続けたいかね。」とご質問されました。私は「絵を描くのは子供の頃から好きだったので、続けたいのです。」と言うと、「絵とは、日本画の事かね。」とおっしゃるので、「高校の時から日本画を描いているので、日本画を続けたいです。」と答えました。手塚先生は渋い顔をして、「最後は後藤純男先生のご判断次第だよ・・・。」と後藤純男先生にお答えを求めました。後藤先生は「そりゃあ、続けた方が良い!」と一言笑顔でお答えになられました。「後藤さん、あなたのお生まれはどこですか。」と後藤先生が質問され、私は「赤穂です。」と言うと、「ああ、四十七士の。いい所ですね~。」と笑顔でおっしゃられました。こうして私は、東京藝術大学始まって以来の問題児として藝大に戻る事になりました。その後は、2年生で取るべき実技単位を3年生で取って、元々の後輩に囲まれながらしっかりと勉学に励みました。私は1~2年生の間に、学科の卒業単位を全て秀と優で取っていたので、後は実技単位のみの取得なので楽でした。ただ、2年留年した人間は、どんなに良い絵を描いたとしても、当然ながら、大学院には進めませんね。
 今考えると、「たかが大学。世の中そんなものだ・・・。」と受け流すくらいの度量があったら良かったのにと思います。つまりは、若気の至り、堅真面目過ぎたのです。しかし、私はそんな不器用な人間なのです。いまだに、その性格の本質は変わらないので、世渡りは下手で失敗ばかりしています。ただ、この高校・大学での体験は、今大きな社会問題にもなっている、いじめ・差別・偏見を受ける側や引きこもりになる等の社会的弱者の気持ちを理解する心にもなっており、私の人間的な幅を広げる一因につながっているのではないかと良いように解釈しています。

 この時のご恩もあり、「武士は二君にまみえず」という故郷の志士・赤穂浪士の教えを守って、日本画の師と言える方は後藤純男先生ただお一人だと考えています。(絵本界には今の所、師と言える人はいません。良き先輩方はおります。)多くの日本画家は師が力を失ったり亡くなられると別の師に付いたり、師以外の人のご機嫌を伺って団体展に入選したリしていますが、私はそんな薄情なまねはしません。義理と人情に篤い、バカ正直な男なのです。(後藤純男先生は一匹狼の性格で派閥を作りたがらないお人です。そこで院展内でも力がある割には弟子が極めて少ないのです。藝大大学院の後藤純男教室出身者で院展に受かっているのは、ほぼ平山郁夫先生派閥に組み込まれた人のみです。)
 大学卒業の前後には後藤純男先生に同行し、沖縄本島、北海道、東北等に数日がかりの取材旅行に出かけました。先生のスケッチする姿から多くの事を学びました。卒業後1996年からは、後藤純男先生門下による「翔の会日本画展」が「オンワードギャラリー日本橋」で開催され、その後、場所を「銀座松坂屋」に移して15年間開催されました。毎回欠かさず出品したのは20名近くいるメンバー中で、私を含む10名足らずです。東京藝術大学大学院・第二研究室(後藤純男教室)出身の日本画家で構成された「翔の会」でしたので、私だけが唯一の学部卒でしたが、後藤純男先生の特別推薦で参加していました。メンバーの中には学部卒で加わっている私を批判する人もいましたが、最終的には「翔の会日本画展」の後半、最も熱心で行動力のある私が「翔の会」の代表幹事を務めるようになっていました。先生の飲み会・パーティーにもできる限り出席し、時には先生のご自宅・アトリエに泊まったり、そのまま夜を明かしたりしました。この頃、東京藝術大学出身の人の中で、多分、私が最も多く先生とお会いしていたと思います。先生のお話・行動の一挙手一投足からは、”絵”に対する真摯なお考えや人生観の多くを教わりました。

 しかし、いつまでも良い時期は続かないものです。10年程前、いつものように先生にお電話をおかけすると(この頃、私から先生にご用のお電話をしたり、先生から直接お誘いのお電話がかかって来たりしていました)、「後藤さん、今日の飲み会は中止です。今から眼底出血の手術をしなければいけなくなりました。また今度にしましょう~。」というお返事でした。先生は笑いながら淡々とお話しされたのですが、私は前々から、先生には糖尿の気があり医者から酒を止められていた事を知っていましたので、とても嫌な予感がし背筋に冷たいものが走りました。
 私の予感は的中しました。それ以降、先生は体調を崩されたようで、私達元学生はもとより、ほとんどの公の場所に顔を出されなくなりました。あの時のお電話が、先生とお話しした最後になってしまったのです・・・。現在では、車椅子でのお写真を美術誌等でまれに拝見するだけで、ほとんど北海道のアトリエに親族だけに囲まれて、引きこもられてしまいました。今回の「恩賜賞」の授賞式でさえ、奥様と娘さんのみが出席されていましたから・・・。誠に残念な事ですが、人は年齢には勝てませんので仕方がない事です。私はお元気な頃の先生のお言葉を胸に抱いて、今後も制作に励みたいと思っています。そして、私は27歳の時に父の事故死を経験した事もあり、人の”ご縁”とは誠に尊く大切にしないといけないものであると感じています。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁
 

後藤純男先生と私「後藤純男先生 退官記念展」(1996年10月7日、東京藝術大学資料館) 後藤純男先生と私

後藤純男先生と私「後藤純男 画伯を囲む会」(2004年1月4日、野田 東武ホテル) 後藤純男先生、井崎義治 流山市長と私。他にも、野田市長や関宿町長等も来られていました。

東北写生旅行 後藤純男先生「東北(田沢湖・角館)写生旅行」(1996年11月20日) 駒ヶ岳 後藤純男先生スケッチ中。先生は視点が変わるからと言う理由で、常に立ってスケッチをされます。先生の絵に対する真面目さは恐るべきものがあります。 


【後藤純男先生 ご略歴】

1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に生まれる。
1946年 粕壁中学校 卒業。日本画家・山本丘人に師事。
1949年 日本画家・田中青坪に師事。
1974年 日本美術院 同人に推挙。
1976年 再興第61回 日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院(大学)名誉教授に就任。
1986年 再興第71回 日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学 美術学部絵画科日本画専攻 教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家の後藤 仁がいる。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学 教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町 名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。東京藝術大学 名誉教授に就任。流山市 名誉市民となる。



後藤純男美術館 公式ホームページ

http://www.gotosumiomuseum.com/info_pdf/geijyutuin.pdf (PDFデータ)

http://www.gotosumiomuseum.com/


〈北海道新聞 記事〉

画家・後藤純男さん、北海道・上富良野町に作品寄贈の意向 総額20億円規模か
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/dohoku/1-0247503.html

日本画の後藤純男さんに日本芸術院賞 坂東玉三郎さんら9人
http://dd.hokkaido-np.co.jp/entertainment/culture/culture/1-0249861.html


〈朝日新聞デジタル 記事〉

日本芸術院賞に坂東玉三郎さん・辻原登さんら9氏
http://www.asahi.com/articles/ASJ3K4T4ZJ3KUCVL014.html


〈流山市 公式ホームページ〉

第1号 流山市名誉市民を決定
http://www.city.nagareyama.chiba.jp/10838/10841/031587.html

「広報ながれやま」平成28年10月11日号(特集:流山市名誉市民の決定)
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/information/73/393/031821.html

「広報ながれやま」平成28年10月11日号(特集:流山市名誉市民の決定)〈PDFデータ〉
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/031/821/nagareyama20161011.pdf


〈東京新聞 記事〉

流山在住の画家・後藤さん 初の名誉市民 来年1月に作品展開催
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201609/CK2016090702000182.html


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tag : 後藤仁 後藤純男 日本芸術院賞 恩賜賞 旭日小綬章 東京藝術大学 東京芸術大学 流山市 日本画 村上隆

2016-09-06

日本文化・美術・絵画界(日本画・絵本など)の現状を憂える・・・

 私は15歳の時に大阪市立工芸高校 美術科で本格的に日本画を始め、東京藝術大学 日本画専攻を卒業した1996年から、プロの日本画家としておよそ20年間活動して来ました。勉強期間を入れると約33年の日本画歴です。師は、後藤純男 先生〔東京藝術大学名誉教授、日本芸術院賞・恩賜賞受賞者〕。
 絵本の世界では、2007年の個展に福音館書店編集者が来られて絵本制作のご依頼を受けた事がきっかけで、2013年2月に初絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)、11月に絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)を出版しました。制作期間を入れると10年弱の絵本歴になります。

絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』表紙・表絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店こどものとも)

絵本『犬になった王子(チベットの民話)』 表紙絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)


 前々から感じていた事でもあり、近年また痛感するようになった事ですが、日本における創作者・絵描きの地位のいかに低い事か、欧米や東洋各国に比較しても、文化に対する国や団体・個人レベルでの意識の薄さを嘆かわしく思います。
 ただ、日本画・洋画・彫刻・書道等は伝統的に社会的地位が高い傾向があり、特に美術団体のトップクラスの方々の社会的・経済的優位性は極めて高いものがあります。逆に、その地位・権威だけに頼ってしまう懸念さえあるのが現状です。一つの目安として挙げると、文化勲章受章者・文化功労者の大半が日本画・洋画の先生方で占められています。
 しかし、その他の美術ジャンルの社会的地位はまだまだ低過ぎる傾向が顕著です。2010年に水木しげるさんがマンガ家初、2012年に安野光雅さんが絵本作家初、宮崎 駿さんがアニメーション作家初の文化功労者になっただけです。
 日本を代表する絵本作家のお一人で東京藝術大学の先輩でもある、いわむらかずお さんが2014年にフランス芸術文化勲章シュヴァリエ章をご受章された時に、日本での報道の少なさに日本児童出版美術家連盟(童美連)監事の浜田桂子さんも疑問を呈しておられました。その童美連を創設された太田大八さんは先日、お亡くなりになられましたが、先生の多大なご功績を考えると文化功労者位になっていないとおかしいのではないかと感じます。日本を代表する絵本画家のお一人の黒井 健さんがおっしゃるには、太田大八さんは絵本作家の社会的地位の向上を常に模索されていたと言います。
 ほんの一部の「絵本読み聞かせ・朗読家・評論家」なのでしょうが(これは日本画においては「画商・絵画評論家」等に当たります)、自分達が絵本作家を宣伝してやって育ててやっていると言ったかのような錯覚をお持ちの方がおります。確かに「絵本読み聞かせ・朗読家」は作家にとっても有難い存在ですし、大切なご活動だと理解しています。ただその作家と朗読家の関係は常に対等な互恵関係であり、お互いを尊重せねばなりません。ただ、作品を最初に生み出すのは作家であり、それを後から活用するのが朗読家であるという順序や本質を忘れないでほしいと思います。

 私の伯父・後藤大秀「からくり人形師」ですが、現在、公に認められた「からくり人形師」は日本に3名しかいないと言います。伯父の手腕は私が見ても驚くほど高レベルで、創作出来る人が限られたとても重要な仕事ですが、その業界規模は小さいものなのです。伯父は1998年に大垣市の教育功労賞表彰を受け、ようやく現在、県の表彰が検討されている段階だと言います。からくり人形師が人間国宝(重要無形文化財保持者)や文化功労者等の国単位で認定される事はなかなか難しい話です。
 私は大学3年生から2006年ごろまでの約12年間、日本画の仕事のかたわらに「金唐革紙(きんからかわし)」という手作りの高級壁紙の復元製作を手掛けていました(旧岩崎邸、孫文記念館、入船山記念館 等の復元事業に参加)。日本画だけで食べて行くのは大多数の若手作家にとって、今の時代では至難の業なので、講師等の何らかの副業をしなければ生きて行けないのです。最初に金唐革紙製作所の出資・経営者がいたのですが、その人は外回りだけして滅多に製作をしないので、私達、美大出身者3~6名がほとんどの実質的な仕事をしていました。その中でも私は歴も長く、製作数もずば抜けて多かったので、常に中心的な役割を担って来ました。現在、復元された金唐革紙には、ほぼ私の手が入っており、実質的な第一人者と言えます。それにもかかわらず、世間的にはその経営者が全ての復元をしたように喧伝されており、現在、80歳位のその人だけが「国選定保存技術保持者」に認定され、旭日双光章なる国の勲章までもらっています。つまり本質的には、私が「保存技術保持者・旭日双光章」をいただいてもおかしくないという事になります。
 このように業界団体の社会的強弱や、メディア等での取り上げ頻度が、国や世間の評価にも如実に反映されているのです。


 私は日本画の世界で長年活動して来ましたが、そこではあまりに高過ぎる権威が近年になるほどマイナス効果を出している事に気が付きました。権威に頼るあまりに、さほど絵の良くもない人が人脈だけで出世していくさまを幾多見て来ました。その弊害によって現代日本画のレベルは落ちる方向にあり、愛好者・コレクターの高年齢化に伴って一般大衆からの人気は低迷の一途をたどっています。ただし私は、日本画の画材の持つ面白さや、古代(日本画という名のできる前)からの日本絵画の深い歴史に大いに憧れを持っており、未来への可能性を疑っていません。しかし、今のような日本画三大派閥(院展、日展、創画展)のみが優位性を保つような閉鎖的な風潮が続くと、かならず近い将来(15~30年後位)立ち行かなくなるでしょう。今、日本画界も大きな変革期・転換期を迎えているのです。作家が権威を欲した時から、実質的な制作力は落ちて行く・・・とも言いますので、名と実のバランスは難しいところですが、そうであってもあまりに不公平が多いのが今の世の中です。
 欧米や一部の東洋圏では「絵描き・画家」を社会が認め、ある程度の優遇措置もあり、重要で尊敬に値すべき存在として位置づけされています。私は何も、絵描きが いばりたい と言っている訳ではなく、今の絵描き仲間の現状を見る限り、一部の特別な売れっ子以外は、一般サラリーマンよりはるかに少ない収入に甘んじて、「仕事が無い、仕事が無い」を口癖のように発しているこの状態は、決して日本経済にとっても良い事ではないと思っているのです。仕事の出来る、腕の良い作家は、たくさん世の中に埋もれています。それを社会がもっと活用しない手はないのです。

 最近、国も「ものづくり日本」を掲げています。全ての物事は創作者から発せられ、それを一般の消費者・愛好者・活用者が用いて行くのです。最初の文化創作者が軽んじられるようでは、日本の文化は発展・成熟しませんし、将来、衰微していくものと考えられます。また、マンガ・アニメ・ゲームは現在最高潮に活気を呈していますが、そのようなサブカルチャー(現在では、メインカルチャーと言ってもいいほどですが)だけではなく、伝統的な絵画・芸術を含めて総合的に日本文化が向上し、一般に認識されるのが理想なのです。
 日本は(世界的にも同様の傾向でしょうが)創作者・作家・職人よりも、それを発注した資産家・経営者・団体等の中間卸的存在を重要視する傾向が強いのです。最初の創作者が・・・特に多くの若い作家が仕事だけで食べて行けない現状では、決して良い文化は華開かないでしょうし、そのような状態が続くと、ひいては日本経済全体の活力低下にもつながって行くと考えています。日本の国も公共団体も民間団体・企業も一般大衆も、もっと絵描き・創作者の重要性を知って下さい。それが一絵描きの率直なお願いです。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁

 

犬になった王子――チベットの民話/岩波書店

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2016-04-28

熊本地震に思う・・・絵描きとして

 熊本地震が起き、私も少なからず衝撃を受けています。私の義理の両親は福岡県南部(大牟田市)に住んでおり、義理の弟夫婦とその子は熊本市内に在住しているので、なおさら心配です。震災後3日間、義理の弟一家は車の中で一夜を過ごしたと聞きました。子供は学校にも通えない状態だと言います。
 私はそんなご縁もあり、九州には20代の頃より幾度となく写生旅行に訪れており、風景良し・食べ物良し・人良しという、日本で最も好きな地域の一つでもあります。かなり前ですが、義弟の結婚式は熊本城の麓のホテルで開催され、私も出席しました。
 そのような訳も重なり、いつかは来るとは予感しているとは言え、今回の地震には誠に悲しい思いがつのります。

 今までに、阿蘇山をテーマに何度も大作を描いていますが、熊本城もスケッチしたり小品に描いています。今思えば、ネパール大震災で被害を受けた人々と風景もそうでしたが、美しいものを美しい時に描いておく事の重要さが切に感じられます。

熊本城「熊本城 天守閣」(1997年3月30日) 私は、日本のお城の中では、故郷・兵庫の姫路城(白鷺城)の次に、この熊本城が好きです。

熊本城「熊本城 天守閣」(1997年3月30日) ピクニックをする親子の平穏な姿がほほえましいです。


熊本城スケッチ「熊本城のスケッチ ─ 櫓群(国重要文化財)」 後藤 仁(1997年3月30日)

熊本城スケッチ「熊本城のスケッチ ─ 天守閣」 後藤 仁(1997年3月30日) 後にこのスケッチを元に日本画小品を描いています。


 今年は「スリランカ写生旅行」を計画しています。2011年4月の「タイ北部・ラオス北部写生旅行」は、折しも2011年3月に起こった未曽有の大地震、東日本・東北大震災の直後でした。祈りの地を巡るその旅は、まさに震災被害者への追悼の旅ともなり、旅の先々では人知れず涙を流す事になりました。
 奇しくも、今回のスリランカの旅も、熊本地震の直後です。スリランカは、最も初期にインドから仏教が伝来した土地であり、タイ王国・東南アジア諸国に広まる上座部仏教(南伝仏教)の発祥の地です。今回のスリランカの旅も、熊本地震被害者への追悼の旅ともなりそうです。


 地震は天災なので人の力ではどうする事も出来ないものでもあり、それが自然の摂理でもあります。インドの古代ヒンズー教神話では、この世の中は「踊るシバ(シヴァ)神」そのものであり、シバが激しく踊る時に大地が震動すると考えられてきたそうです。シバは破壊の神であるが故に、インドでは最も信仰されていると言います。
 日本でも、地震は大ナマズが暴れて起こるなどという発想がありますが、自然の前では人は実に無力なものです。古来から日本人は、自然を征服するのではなく、自然と融合して生きていく道を選んで来ました。それが今日、西洋型合理主義の影響なのか、自然を征服しようとしています。このような生き方が進めば、決して良い結果を生みません。今まさに、人類の進むべき本当の道を、真剣に考える時に来ているのではないでしょうか・・・。

  日本画家・絵本画家  後藤 仁

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2016-03-14

日本画・絵本界の著作権問題について考える

 最近、オリンピックのエンブレム問題や、理研のSTAP細胞問題など、著作権文章・画像コピーについて世間で話題となるケースが増えました。  
 私も、絵本の世界に入って「著作権」について考える機会が多くなりましたが、「日本画」の世界で長年描いてきて、避けて通れない一つの大きな著作権問題があります。日本画家で知らない人はいないくらい有名な話ですが、現在でも日本画界では(特に院展では)タブー視されていて、公で話すのをためらう話です。この事件は、作家が著作権侵害されたのではなく、作家が著作権侵害をおかしてしまった代表例です。

               *

 時は、私がまだ美術高校に通っていた頃です(30年くらい前)。当時、日本画壇は、日展の東山魁夷先生、院展(日本美術院展)の平山郁夫先生などの人気作家を輩出し、一般大衆の一定の支持もありました。しかし、時代の流れの中、じょじょに日本画界の勢いは弱まり、世間では日本画・油彩画などの純粋美術から、現代アートや、マンガ・アニメ・ゲームといったサブカルチャーに文化の中心が移りつつありました。
 そんな中、久しぶりに世間を賑わした日本画の話題が、その著作権問題でした。
 当時、平山郁夫先生の後継者として最も有力視され、実力・人気ともに絶頂にあったS先生が、テレビや新聞で一斉に報道されました。久々に世間の話題に上った日本画の話題は、事もあろうにマイナスの話題・・・「著名日本画家が、外国の写真家の作品をまるまるそのままコピーして、作品に描いていた」・・・という衝撃的なものでした。これが今のネット時代でなくて良かったと思います。もし今なら、どれくらいネット上でバッシングされた事でしょうか。
 これによってS先生は東京藝術大学の教授を辞し、平山郁夫先生が弟子の不始末をテレビや新聞でお詫びするという事態になり、周囲に様々な禍根を残しました。S先生自体は相当の売れっ子だったので、その後もご活躍されていますが、一時の勢いはそがれ、代わりに院展・東京藝術大学では、T・T先生、M先生、F先生、T・Y先生などが、最有力でご活躍されるきっかけになったと思います。

 私が思うには、その個人問題よりも深刻なのは、それ以降、「日本画はそんな世界なのか・・・」という認識が世間に浸透したという事実です。それでなくても、以前から日展・院展などの審査の不透明性(審査結果が前もって決まっているのではないか、など)が噂されてきましたから、この事件がとどめを刺したように思います。
 その後も日本画壇では売れっ子もいますし著名作家もいますが、世間の「日本画」の認知度・人気は低迷し、閉塞的に業界内だけで世界が完結してしまう感がぬぐえません。唯一、現代アート的に活動する千住 博先生が、傑出して目立っていますが・・・。
 時代の流れの必然もありますが、この事件が日本画界の今日の不振を助長した事は確かでしょう。

 その後も、平山郁夫先生ご自身のトンボを描いた絵は、岩橋英遠先生のまねではないか等の憶測が美術界で飛び交いました。私は、その作品より、平山先生の代表テーマのラクダの絵は、岩橋英遠先生のエジプト・ファラオの絵のラクダにそっくりだなと思っていました。しかし、これらの平山先生の絵は独自に十分アレンジされており、オマージュの範囲内だと思います。
 近年でも、院展のU先生が、有名な写真家の竹内敏信氏の作品をまるまるコピーして描いているのを私の友人が発見して、「これってまずいんじゃない・・・。」となった事があります。ただ、この件は公にはなっていません。

               *

 作家が著作権侵害されるケースも多々あり、私も最近、「絵本」を出すようになり、その対応に苦慮する事が多くなりましたが、逆に作家側が著作権侵害をする場合もあり、それをきっかけに業界全体にダメージを与える可能性もあるので、私達作り手も肝に銘じて、愚直に制作に望まなくてはいけないという事です。
 取材には自分の足を使い、制作の基本として自分がスケッチし写真に撮ったものを用い、もし他人の写真などを使う場合、あくまで参考の範囲内にとどめるという心がけが必須です。楽をして制作しようなどと考えていたら、決して良い作品は描けませんし、文化は退廃していくばかりなのです。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

2016-03-08

絵本・日本画作品の世界への波及(著作権問題とともに)

 私は3年位前からパソコンを使いだしたばかりで、それ以前の状況をよく把握している訳ではないのですが、日本画家として活動していた頃から様々なネットサイトに、作品・作家紹介が掲載される事は度々あったようです。
 初絵本を出版した約3年前からその頻度が急速に増したようで、絵本の持つ広汎性・普及力には驚かされます。私は、日本画の世界では中堅と言える画歴になりましたが、絵本の世界ではまだまだ駆け出しにしか過ぎず、絵本・挿絵本はようやく3冊出版しただけのヒヨコ状態です。
 それにもかかわらず、テレビ・新聞・雑誌・機関誌 等への出演・掲載も多くなりましたが、それ以上にインターネット上での拙作の掲載数は、私が把握できるだけでも、大規模な法人サイトから、個人サイト、いい加減なサイトまで入れると、数千件は超えてくるでしょう。

 自身の作品がどのように世間にとらえられているかの調査・把握の為でもあるのですが、日本児童出版美術家連盟(童美連)に入会した事で著作権擁護の意識も高まり、その確認という意味もあり、ネット上での自身の作品の掲載を度々検索する事になっています。
 絵本の出版当初は、ネットニュースサイト・絵本関係法人サイト等に多く掲載され、次第に個人のブログ等で取り上げられる機会が増えました。最近では、インスタグラムやピンタレストといった新たな画像掲載サイトに掲載する人も出てきています。作品の名前と画像が知られるにつれ、その認知度に便乗した少々悪質な掲載が増えてきたのも事実です。
 著作権的には、かなりすれすれであったり、完全に違反しているサイトが多いのも現状です。絵本 等をネットや印刷物に掲載する場合、「表紙画像」のみは無許諾でも掲載可能ですが、その場合に必ず「作品名・作者名(文章・画家)・出版社名」を明示するのが基本です。それ以上の掲載には必ず著作権者(作者)の許諾が必要です。また、絵本の紹介以外の目的で絵本画像を流用するのは、禁止されていると思います。
 絵本を元に、または、イメージの源泉にして、演劇や音楽に仕立てて、絵本名と共に紹介する場合でも、著作権者の許諾が必要で、入場料を取る公演の場合、時には著作権者への使用料の支払いも生じる場合もあるでしょう。
 私の作品も、上記のような様々な形態での著作権侵害のある作品使用を確認していますが、できる限り穏便に、事後承認という形で納めてきました。ただ一度だけ、ユーチューブに絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店こどものとも)の場面全体が朗読付きの動画で明瞭に掲載された案件では、当初は容認しておこうと考えていたのですが、童美連でも問題として取り上げられた経緯もあり、出版社を通して掲載削除に至ったケースがあります。

 国内での事案は、著作権法の適用で対処のしようもあるのですが、最近では海外のサイトでも拙作が度々取り上げられるようになってきました。それだけ作品・作家が世に知られるようになったのかな・・・と喜ぶべき事なのでしょうが、それに伴い著作権侵害も頻度を増しているという、難しい事態に直面しています。ベルヌ条約という国際的な著作権保護の枠組みもあるのですが、条約を批准していない国もあると言いますし、海外の人々との交渉は言葉の壁もありますし、遠い異国の事なので対応の実効性があまり期待できません。
 しかも実際の所、少々中身を掲載されても宣伝になった方が良いのではないかという考えを多くの作家が持っており、私も例外では無く、作品の宣伝・広報と著作権の保護とのはざまで作家は常に問答する事になります。

 日本画・絵本に限らず画家が「絵」だけで食べて行くのは容易な事ではありません。多分、日本画だけで生涯生活できる日本画家は日本中に数十人もいないでしょう。絵本の世界でも若手作家ほど厳しいのが現状で、元々狭き門なのに、その上出版不況のあおりをまともに受けているのです。
 それに反して、子供の養育に力を入れようという傾向の一環として、絵本を取り巻く環境だけは活気をおびています。あちこちで絵本朗読会・絵本イベントが開催され、ほんの一部の有名作家はそこに招待されるのですが、その他は絵本朗読家・絵本活動家・絵本イベンター等と称する人が多く活動しています。中にはフェイスブック等を活用してかなり大々的な活動を行い、ある種の権威付けをしている人も見受けられます。ただ、そこでは現在の絵本作家はほとんど蚊帳の外の状態です。絵本の世界では過去の名作絵本が多数存在するので、現代作家に気を使わなくても幾らでも良い題材が見付かるのです。おまけに本を図書館で借りれば元手もかからなくて済みます。
 しかし、こんな状態が長年続くと現代作家がますます食べて行けなくなり、作家として育たないので、絵本のレベルが段々落ちて行き、将来的には日本の絵本文化水準の低下にもつながっていくと考えられます。これは、日本画・絵本画に限らず文化全般に言える事です。
 どなたか、ネット上で作品画像が使用される度に、著作権者に著作権使用料が入る仕組みでも考えていただけないでしょうか・・・。そうしたら、かなり作家は助かりますし、多少の著作権侵害なら黙認するのですが・・・。しかし、これができたらノーベル賞ものですな。 ( `ー´)ノ

 絵本界だけを考えてみると、絵本を取り巻く環境の中心には、やはり作品を生み出す「絵本作家・絵本画家」がいるべきです。これは作家の傲慢ではありません。常に発信者(作家・画家)から事は始まり、それが仲介者(出版社・書店・図書館・絵本評論家・絵本朗読家 等)をへて、一般の読者(親と子)に届くのです。その本質を見失っては本末転倒です。
 ある絵本朗読家・活動家(大人を対象とする絵本朗読を広める活動を、フェイスブック等を活用して行っている人らしい)が私に言いました。「あなたの絵本を見てほしいと言うなら見てあげてもいいよ。ただ今回は、私のフェイスブックページに勝手に作品を載せられたので見る気が失せましたね・・・。」
 作品は作者そのものです。私達作家は常に自分の作品のみで一生をかけて勝負しています。それ故、私の自己紹介には必ず作品画像一枚を添付する事を常にしています。この様な、作家以上に絵本朗読家が偉いといった高慢な姿勢が蔓延していったら、良い作品は今後一切生み出されなくなるでしょう。作家と絵本朗読家・絵本活動家は常に対等な立場であるべきですが、最初に発信するのは、あくまでも作家である事を、上記のような類の人は忘れないでいただきたいと思います。
 また、著作権侵害問題 等、何かトラブルがあった時には、その作家と普段から仲良くしておくと、下記の台湾の方のケースのように、大目に見てくれる場合もありますよ。逆に、作家の反感をかっている人が、著作権侵害をした時にはどうなるのでしょうね・・・。

絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』表紙・表絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店こどものとも) 表紙



 私の絵本作品が国内と中国(中華人民共和国)のニュースサイト・ホームページ・ブログ等に取り上げられたケースを、何度かこのブログでも紹介してきたので、今回、その他の海外のサイトに拙作(絵本・日本画)が取り上げられたケースを幾つかご紹介いたします。
 最初に記したように、多くのケースでかなり著作権法を侵していますので、その部分はマネしないようにお願いしたいのですが、このように世界中で拙作が取り上げられるのは、作品に何かしらの魅力や意味合いがある証とも取れますので、嬉しい反響だとも言えるのです。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁

                    *

日本画作品 『トン族琵琶歌~チャンファメイ(中国貴州省)』( P25号)の部分が、日本の美意識「卵型の顔」の例として、ポルトガル語のサイトに挙げられています。(同じ内容が、別の2つのサイトに載っています。)

http://www.diariodasaude.com.br/news.php?article=linguagem-amor-apelidos-amorosos&id=8928

http://fgrurbanismo.blogspot.jp/2013/06/voce-conhece-as-palavras-de-amor-mais.html


日本画作品 『クマリ -The Living Goddess-(ネパール)』( F50号)の部分が、クマリ(ネパールの生き神)の画像例として、ポーランド語のサイトに掲載されています。

http://dworzecwschodni.natemat.pl/36947,barbarzynca-w-azji


日本画作品 『クマリ -The Living Goddess-(ネパール)』( F50号)の部分が、クマリ(ネパールの生き神)の画像例として、韓国(ハングル文字)のサイトに掲載されています。

http://blog.socuri.net/540


絵本作品 『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店こどものとも)の全場面が、英語のサイトで紹介されています。個人のサイトのようですが、拙作以外はほとんど海外の絵本ばかりで、表紙を見る限りでもかなり優れた世界中の絵本を入念にセレクトした本格的なサイトです。よく私の絵本を見付け出したものだなと感心しますが、著作権的にはもちろん反しています。ただ、これだけの思い入れと真面目さを考えると、世界に向けて拙作絵本を紹介していただいているのだと、有難くとらえた方が良いように思えます。

https://bookillustrations.quora.com/Illustrations-for-Changfamei


絵本作品 『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店こどものとも)の主要場面が、類似絵本と共に、台湾(繁体字中国語)のサイトで紹介されています。実は、このサイトを運営している台湾の絵本活動家と私とは面識があります。台湾に日本 等の良い絵本を紹介したいと積極的に活動されている方で、素晴らしい事だと思います。ただ、台湾はベルヌ条約に加盟していないという事もあり著作権の意識が薄いのが現状です。かなりの著作権侵害が行われていますが、私の作画絵本を丁寧に研究・紹介していただき、私も彼女らの熱意に免じて、当面は黙認しておこうと考えています。台湾の今後の著作権意識向上に期待したい所です。

http://childrenbookmap.blogspot.jp/2015/08/long-hair-girl.html


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2015-07-15

私の伯父、からくり人形師 後藤大秀

 私が「絵画」の道を志したのは古今東西の多くの絵描きの影響があるが、身近な人では父が絵を鑑賞するのが好きだった事とともに、やはり伯父 後藤大秀の影響が最も大きいでしょう。伯父(父の兄)は、若い頃の御堂大工(宮大工)に始まり茶室設計・施工時代から面打ち師(能面打ち)、からくり人形師という道を歩んできた人です。現在、86歳という高齢ですが、今でも日本を代表する からくり人形師として第一線で活躍している事実は、私としても驚愕すべきであり尊敬にあたいする事です。
 私が物心がついた頃には、夏休み・冬休み毎に大垣の伯父の家へ伺っていました。私が中学生になると美術に対する関心も増してきて、当時、伯父が始めた「能面打ち」の話を聞くのが楽しみになりました。私が美術高校(大阪市立工芸高校 美術科)に行く頃には、伯父は宮大工と能面の高い技術を評価され、「からくり人形」の復元依頼を受ける様になり、私にとって未知の世界の話に聞き入っていました。
 中学・高校の頃、一時は私も能面打ち・からくり人形師になりたいと考えた時期もありましたが、最初の目標通り「絵画」の道を進む事になりました。しかし伯父の創作に対する熱意や高い技術力は、私に大きな影響を与えている事でしょう。また、祖父は指物大工(家具職人)で伯父は からくり人形師という職人家系に生まれ(次男の父は普通のサラリーマンになりましたが)、私も創作を極めて好み手先が異様に器用だという所はやはり遺伝なのでしょう。(ちなみに私の兄は現役の歯科技工士で、母はかつて編み物の先生をしていました。皆、手先は器用です。)

 昨年、常滑市大野橋詰町の「尾張大野祭」紅葉車(こうようしゃ)の からくり人形「逆立ち唐子」「采振り童子」復元制作が完了したという事です。まだまだ若輩者の私も、伯父を見習って創作に一生を捧げたいと、改めて思いを強くしました。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁


岐阜新聞 後藤大秀 記事岐阜新聞 (1996年8月23日号)で大きく掲載された後藤大秀の記事

後藤大秀大津祭 龍門滝山 鯉山「鯉」 (2002年9月) 後藤大秀

後藤大秀 からくり人形・能面展「後藤大秀 からくり人形・能面展」 (2007年8月 名古屋市博物館) 後藤大秀、後藤 仁


●私の公式ホームページ「後藤 仁(GOTO JIN)のアトリエ」(からくり人形師 後藤大秀)にも、からくり人形の画像を多数掲載しています。
http://gotojin.web.fc2.com/gotodaisyuu.html

               *

【からくり人形師 後藤大秀】

 後藤 大秀(ごとう  だいしゅう、1929年~  、本名は後藤 秀美 )は、名古屋を中心に活躍する著名な「からくり人形師」であり、後藤 仁の伯父でもある。

〔概要〕

 現在、日本で本格的な「からくり人形師」として活動しているのは数名しかおらず、後藤大秀は日本を代表するからくり人形師の一人である。 全国的にも有名な大垣祭、大津祭といった祭りの、「山車からくり(だしからくり)」の完全復元や修復を多く手がける。(この場合の復元とは、昔の人形を基に全く同じ姿形の人形を新しく制作する事。修復とは、昔の人形の破損した箇所だけを作り直す事。)
 なかでも、大垣祭の相生山「神主友成」復元制作では、昔の人形は過去に紛失していた為、古い写真一枚と古老の証言のみを基に制作をしたので、この場合はほぼ完全創作と言える。

 「からくり人形」は頭・首・手・足・胴・胴串等から出来ており、頭・首・手・足には木曽檜、胴には桜、軸は樫、ピンは竹、滑車類はツゲといった木材を、バネには鯨のヒゲを使用する。昔と変わらぬ道具や材料を使用して、人形一体を制作するのに一年はかかる。
 後藤大秀の作品は、「能面打ち」修行でつちかった髪や目の繊細な線描きと、深い色合いの彩色や、「宮大工」時代につちかった高度な木工技術による、複雑なからくり仕掛けが特長である。

〔略歴〕

• 1929年 愛知県一宮市に生まれる。〔本名、秀美(ひでみ)。父は指物大工である。甥は日本画家の後藤 仁。〕その後、岐阜県大垣市に移る。
• 1948年 工匠の小寺浅之助に堂宮建築(宮大工)を学び、のち数寄屋建築(茶室)を手がける。
• 1980年 能面打ち師の東 安春に師事し、能面打ち修行をする。
• 1984年より、「からくり人形」復元制作を始める。名古屋市 戸田まつりの四之割「宙吊り小唐子」「肩車大唐子」「采振り童子(ざいふりどうじ)」復元制作。
• 1988年 大垣市市展賞受賞。
• 1991年より、名古屋市筒井町 天王祭の神皇車(じんこうしゃ)「神功皇后(じんぐうこうごう)」「武内宿禰(たけのうちのすくね)」「面かぶり巫女」「采振り童子」復元制作。
• 1992年 大垣市東地区センター能面の会 講師。
• 1994年より、大垣祭の相生山「神主友成」「住吉明神」「尉」「姥」復元制作。
• 1998年 大垣市教育功労賞受賞。
• 1999年 大垣市美術家協会理事。第14回国民文化祭(岐阜県高山市)で、からくり人形の制作実演。
• 2000年 大垣市市展審査員。
• 2001年 大津祭の龍門滝山「鯉」復元制作。
• 2003年より、名古屋市 広井神明社祭の二福神車(にふくじんしゃ)「恵比寿人形」「大黒人形」「采振り童子」復元制作。
• 2005年 岐阜県神戸町町展 審査員。
• 2007年 大垣祭り出軕運営委員会 功労賞受賞。「後藤大秀 からくり人形・能面展」(名古屋市博物館)
• 2014年 常滑市大野橋詰町 尾張大野祭の紅葉車(こうようしゃ)「逆立ち唐子」「采振り童子」復元制作。

〔その他〕

• 後藤大秀が修復した「からくり人形」が使用されている山車。
  大垣祭の菅原山、榊山、愛宕山
  大津祭の郭巨山
  名古屋市 戸田まつりの一之割、三之割、五之割
  羽島市 竹鼻まつりの福江町・上町の山車
  大垣市 綾野祭の猩々山
  半田市 亀崎潮干祭の東組宮本車
  津島市 津島秋祭の麩屋町車、池町車  等

• 「名古屋まつり」には、筒井町 天王祭の神皇車と広井神明社祭の二福神車が登場する。
• 後藤大秀の「からくり人形作品」は、名古屋市博物館、神皇車保存会、産業技術記念館(名古屋市)等に収蔵されている。

〔参考文献〕

• 千田靖子「図説からくり人形の世界」2005年11月1日 法政大学出版局
• 「第14回国民文化祭・ぎふ99 からくり文化フェスティバル─からくり今むかし─」1999年10月 第14回国民文化祭岐阜県実行委員会
• 「月刊西美濃わが街」1985年10月1日号 p.6(後藤秀美特集) 月刊西美濃わが街社
• 「月刊西美濃わが街」1986年3月1日号 p.56-59(後藤秀美特集) 月刊西美濃わが街社  
• 「岐阜新聞」1996年8月23日朝刊(美濃・飛騨のワザ人たち、後藤大秀特集)
• 特別展「からくり─見る・作る・遊ぶ─」図録 2007年7月28日 名古屋市博物館
• 「後藤大秀能面展(名古屋市博物館)」パンフレット 2007年8月 後藤大秀後援会  他

〔外部リンク先〕

尾張の山車館 : 筒井町天王祭 神皇車 からくり人形1 (尾張の山車まつり内のページ)
http://dashi-matsuri.com/dashikan/owari/tutui/jinkou_k.htm

尾張の山車館 : 筒井町天王祭 神皇車 からくり人形2 (尾張の山車まつり内のページ)
http://dashi-matsuri.com/dashikan/owari/tutui/jinkou_k2.htm

尾張の山車館 : 花車神明社祭 二福神車 からくり人形 (尾張の山車まつり内のページ)
http://dashi-matsuri.com/dashikan/owari/hiroi/nifu_k.htm

張州雑記 : 花車神明社祭 二福神車 からくり人形 (尾張の山車まつり内のページ)
http://dashi-matsuri.com/main/topics/tp2005/051002.htm

まつり紀行2014 : 尾張大野まつり 紅葉車 からくり人形 (尾張の山車まつり内のページ)
http://kikou.dashi-matsuri.com/sk14/140330.htm

大野谷文化圏のブログ 「からくり人形を修理する後藤氏と人形の仕様について」
http://ameblo.jp/ohnodani/entry-11579167922.html

大野谷文化圏のブログ 「25年度紅葉車からくり人形継承事業報告」
http://ameblo.jp/ohnodani/entry-11821019939.html

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2015-01-21

或る絵描きの独白

 私は永年、絵を描いて来て、つくづく運の無い絵描きだな~と思い知らされます。ただ、私自身がその様な運命の元に、半ば自発的に生きているのだとも言えるかも知れません。

 元来、センスの良さで絵を描くタイプではなく、色感・構成力なども傑出したものは無いと自認していますが、絵を描く事がとにかく好きだった私は、その分努力して、描写力・洞察力・絵画力を深めて行きコツコツと積み上げて来ました。
 幼少期から常に水彩やアクリル絵具で絵を描いていましたが、大阪市立工芸高校美術科で日本画を始めて30年余り、ようやく思う雰囲気に少しは近い絵が描ける様になって来ました。

 しかし、根っから天邪鬼で頑固な職人・芸術家気質な故、世渡りは上手くはありません。中学から高校1年までは絵だけに力を入れ、興味の無かった英語・数学を全くやらなかったので、高校1年で留年をさせられました。絵を描きたくて美術高校に進学したので、それ以外はやる必要は無いと考えていました。
 留年に憤慨した私は、学科も実技(日本画・油絵・彫塑・デザイン・製図・水彩画・デッサンなど)も体育も一生懸命やり過ぎて、あまりに飛び抜けて傑出し過ぎ、全ての教科でトップになった為、周囲の人から随分疎まれました。
 美術予備校の立川美術学院では、大学進学の為だけの美術教育に対しての反感もあり、1浪時は新聞奨学生として朝夕の新聞配達・集金をしながらの予備校通いだった事もあり、年間の半分位しか予備校に行きませんでした。高校でクラスの連中からのバッシングにあった痛い経験から、本当の能力を出し過ぎるとたたかれるという考えもあり、予備校では出来の悪いバカな生徒のふりをしていたという事実もありました。
 ただ、出席率の悪い出来の良くない生徒だったのですが、描くべき時には必死に描いていました。関西風のデッサンを関東風のデッサンに修正する事にも手間取りましたが、2浪の後半、メキメキとデッサン・着彩が伸びて来て、気が付くと20人余りの生徒の中で常にトップを争う様になり、特に石膏デッサンにおいて私の右に出る者はいなくなっていました。
 そうして東京藝術大学日本画専攻に入学したのですが、ここらで気持ちを入れ替えて素直に絵を学ぼうと、高校の時の様に誰よりも早く学校に行き、誰よりも多く絵を描きました。さすがに東京藝大には絵の上手い学生がちらほらいて、元来突出した絵画センスの無い私は、特に目立った作品を描く事も出来ませんでしたが、絵に対する情熱と学習では誰にも負けていなかったでしょう。その真面目な様子を大学の先生方も歓迎してくれて、何となく「後藤は将来出世するのではないか・・・」という様相が出て来たら、また周囲の一部からのバッシングが始まりました。絵を真摯に学ぶより、どの先生に付いてどう歩めば出世出来るかばかりを考えている学生の雰囲気に嫌気もさしていましたし、どんなに適当な作品を出品していても上の学年に進めて、上の学年ほど大きな顔をしている縦社会の雰囲気も疑問でしたので、期待して入った藝大に幻滅してしまいました。2年の終盤から学校に行くのを止めて、家で自由に独自研究をしていました。2年余りそんな事をしている内に2年留年させられており、親の気苦労も考えてやむなく大学に戻りました。

 大学卒業後も、そんな私の性格故なかなか順風満帆には行かず、それなりの苦労は絶えませんでした。今の私の画力と探求心で、もう少し世渡りが上手ければ、今頃、院展などの団体展に入り、どこかの美術大学で講師か准教授位していたでしょうか・・・しかし、ひねくれ者でもあり安易な出世街道を良しとしない私は、どこかしら、あえて”いばらの道”を行く感があり、とことん在野で雑草の生き方を貫いて来ました。そうでなくても絵が売れない時代と言われるのに、団体に所属しない私は、到底、絵だけでは食べて行けません。
 日本画の制作・活動と並行して、金唐革紙(手製高級壁紙)の製作をしたり、一時は警備員、居酒屋パントリー係、個別学習塾講師・・・どうしようも無い時には、派遣労働でクリーニング屋、引っ越し屋、ピッキングなどなど、時には年下に罵倒されながら、今までに20種類以上のお仕事を経験して来ました。しかし、考え様によっては、経験が豊富なほど絵の制作にも役立つのではないかと自分に言い聞かせて、踏ん張って来ました。表面上の華々しい部分だけを見ていると分からないのですが、その裏には涙ぐましい努力が隠れているものなのです。今でも、日本画と絵本の微々たる収入と、絵画教室で一般の方々に絵を教えながら、何とかギリギリ生きております。

                  *

 詩人リルケの文学作品『ロダン』の中に、こんな一文があります。
「世間の人々が彼を疑いはじめたときには、彼はもう自分自身に対して何らの疑惑も持たなかった。・・・」 (「ロダン」 リルケ 著、高安国世 訳、岩波文庫)
 私はロダンやリルケほどの崇高な芸術家では無いでしょうが、気持ちだけは同じ様なものです。常に芸術の高みを目指して来た私は、独自の絵画論と制作技術を身に付けて来ました。
 日本画界にもありますが、特に絵本では「ヘタウマ(下手上手)」という人気ジャンル(傾向)があります。一説には、子供の様な絵を描いた方が、子供が受け入れやすいと言うのです。しかし、私は絵描きである以上、上手いのが当たり前だと考えています。やはりプロと言われる以上、どこまでも上手くないといけないと考えています。確かに上手くてもつまらない絵がたくさんあるので、それならば下手でも面白い方が良いとなるのでしょうが、上手くて面白いのが、やはり一番良いと信じています。「ピカソは下手ではないか」と今でもよく引き合いに出されますが、ピカソは実際の所は相当上手いのです。本当に上手くないと絵を崩す事も出来ません。
 私が憧憬する、長谷川等伯も伊藤若冲も鏑木清方もダビンチもミケランジェロもアーサーラッカムも宮崎駿氏も、皆極めて上手い上に面白いのです。大人達には当然ながら、子供達にこそ本当に上手くて優れた作品を提供するべきなのです。

 私の技量はまだまだ半端なのでしょう、「ただ上手いだけではダメだ。」と、かたずけられる事も間々あります。特に絵画公募展では大抵受けが悪いので、めったに出品もしないのですが・・・、平凡で面白くない作品と解される様です。一見平凡に見える中に、実は尋常では無い非凡なものが宿っている事に気が付かない批評家・審査員・専門家も多いでしょう。そこで、一見派手で奇をてらった様な作品が受ける事になるのです。しかし、つくづく観察してみると、時代を超えて行く”画力”に欠けた作品がほとんどな事にいずれ人々は気が付く事でしょう。
 今後も私は、絵の実力より、はるかに低い世間の評価に甘んじながら生きて行く事になりそうです。しかし昨今、絵の実力より、はるかに高評価を受けている作家を多く目にしますが、それが絵描きの幸せとは思いません。言い訳では無いのですが、世間の見方は勝手に周囲によって決定されて行くだけで、本質的には芸術家当人はあずかり知らぬ事なのです。厳しい”いばらの道”を行く方が、最期はきっと本物の芸術家に近付けると信じて、今後も厳しき絵画道を歩んでまいりたいと思っております。




犬になった王子――チベットの民話犬になった王子――チベットの民話
(2013/11/16)
君島 久子

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プロフィール

後藤 仁(GOTO JIN)

Author:後藤 仁(GOTO JIN)
 ~後藤 仁 公式ブログ1~
日本画家・絵本画家 後藤 仁(GOTO JIN)の日本画制作、絵本原画制作、写生旅行、展覧会などのご案内を日誌につづります。

  〔後藤 仁 略歴〕
1968年兵庫県赤穂市生まれ。15歳、大阪市立工芸高校美術科で日本画を始める。東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男先生(恩賜賞受賞者)に師事。在学中より約12年間、旧岩崎邸、入船山記念館、孫文記念館(移情閣)等の金唐革紙(手製高級壁紙)の全復元を行う。卒業以降は日本画家として活動し、中国・インドをはじめ世界各地に取材した「アジアの美人画」をテーマとする作品を描き、国内外で展覧会を開催する。近年は絵本の原画制作に力を入れる。
○絵本作品に『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店)、『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)、『わかがえりのみず』(鈴木出版)、『金色の鹿』(子供教育出版)、挿絵作品に『おしゃかさま物語』(佼成出版社)。『犬になった王子 チベットの民話』は、Internationale Jugendbibliothek München ミュンヘン国際児童図書館(ドイツ)の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。NHK日曜美術館の取材協力他、テレビ・新聞等への出演・掲載も多い。
○東京藝術大学・デザイン科非常勤講師。東京造形大学・絵本講師。金唐革紙保存会 主宰。日本美術家連盟(常任理事:中島千波先生 他)会員。日本児童出版美術家連盟(童美連)(太田大八先生、赤羽末吉先生、いわさきちひろ先生らが創設)会員・理事。絵本学会(太田大八先生らが創設、現会長:松本 猛先生)会員。日本中国文化交流協会(井上 靖先生らが創設)会員。この本だいすきの会(代表:小松崎 進先生)会員。千葉県松戸市在住。

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絵:後藤 仁 /文:君島 久子 /出版社:岩波書店絵本ナビ


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