2013-04-02
「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その4

『移情閣の版木棒』 (版木棒の旧来品が残っていなかったので、過去に貼られていた『金唐革紙』の断片より図柄を描き起こして、新しく製作した版木棒。「移情閣」はこの一種類しか使用されていない。)©GOTO JIN
入船山記念館の『金唐革紙』の製作を終えた私は、2~3か月位は手の違和感が消えませんでした。全ての指の関節が痛み、手のひらが伸ばしにくい状態になります。「この仕事を長くやると絵が描けなくなるな・・・。」と考え、「もうやる事も無いだろう。」とその時は思っていました。金唐革紙の研究所も次の仕事がすぐには無く、一年間位は休止する様子でした。
1996年に東京藝術大学日本画専攻を卒業した私は、本格的に『日本画家』として活動しました。個展・グループ展を中心にプロの日本画家として精力的に描き、発表していきました。(この辺りの過去の日本画制作の話は、またいずれいたします。)しかし、現在の日本画界を取り巻く状況は厳しいものです。特に若手作家は、到底、絵の制作だけでは食べていけません。収入を安定させるには絵画講師の仕事が一番手っ取り早いのですが、大学時代に一年間、河合塾美術研究所という美術予備校で日本画科の講師をした事があるのですが、やはり私は他人に教えるより自分が描きたくなってしまうのです。また、若い頃から講師をしていると天狗になってしまう人が多いので、40歳位までは教える仕事はしない方が良いと、自分で決めていました。
私は、昼間に日本画の制作をして、夜は居酒屋のパントリーで働いたりして何とか生活していました。この時、居酒屋で一緒に働いていた若者達(大学生など)は、けっこう頑張り屋が多かったです

だが、何事にも徹底してこだわる性格の私は、何か『金唐革紙』でやり残した感覚がありましたし、やはり美術に関する仕事だけをしたかった私は、卒業して一年後位に、「もう一度、金唐革紙の仕事をしよう。」と決心して、金唐革紙の研究所に連絡しました。すると、丁度次の仕事が始まった所で、人手が足りない様でした。私は、日本画の活動と並行して、再び『金唐革紙』の仕事をする事となりました。
1998年の夏頃、久しぶりに研究所へ行ってみると、大学時代の同級生のK君と後輩のN君の2人がいました。話によると陶芸家のご子息のE君の紹介で、少し前から働いているそうです。それ以来、K君とN君と私の3人が中心となり、金唐革紙製作をする体制となりました。前にやっていたI君は「箔押し」「打ち込み」などには参加せず、後ほど、最後の彩色の工程の頃から加わります。
その、金唐革紙製作が、『移情閣(孫中山記念館、のちの孫文記念館)』の壁紙復元事業でした。
実際の製作は、「入船山記念館」以上に、ほとんど3人での作業となりました。人手がまだ足りないので、私の予備校講師時代の教え子で多摩美術大学日本画科を卒業したM君も、時々製作に参加しました。
製作の詳細は、また次回としましょう。 後藤 仁
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