2017-01-11

清貧芸術家論・・・絵描きの「清貧」なる生き方

 私はあくまでも一絵描きであり、特定の宗教や思想に傾倒している人間ではないのですが、かつて、ゴータマ・ブッダやマハトマ・ガンジー等がとなえた「無所有」という思想にひかれるところがあります。しかし、俗人であり画家でもある私には、その実践は到底不可能です。

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 私の率直過ぎる言動は、時に他者から大きな誤解を招く場合がありました。先日、大学時代の同級生から久しぶりに電話があったのですが、「仁は昔から権威志向があったから・・・。」という言葉を聞いて、「ああ、他人はそんな風にとらえるのだな・・・。」と思いました。(その電話相手は酒井田柿右衛門の奥さんなので、当人の方がよっぽど ブルジョア・権威者を志向しているじゃないか、と思いましたが・・・。ただ、学生時代の旧友は、歯に衣着せぬ発言で正直に言ってくれるので、その内容に一理ある可能性も考慮して、心に留めておきましょう。)確かに、年配者ほど肩書にこだわるので、本当は自分の価値観ではないのですが、あえて肩書や世間的評価を強調する場面が、近年の私にも度々あります。そうしないと周囲の人々から、特に年配者から低く見られる嫌な経験を何度もしているからなのです。大多数の世人は、純粋にその人の”絵”の実力や努力を見てくれないもので、その人の背景ばかりを見たがるものです。

 たまたま私は、中学生・高校生の頃は、学校で1~2位を争う位に足が早かったのですが、高校の体育祭の徒競走で1位を取ったりしているのを見たクラスのある男は、「後藤は戦争があったら、いち早く駆け付けて戦うような性格であろう。」という意見を述べました。それを聞いて、「ああ、世人はそんな風にとらえるのか・・・。」と思いました。曲解もはなはだしいですが、私が大の厭戦家・非暴力主義である事を知らないのでしょうね・・・。大阪市立工芸高校 美術科では、私は美術の実技も学科も体育も全て群を抜いた首席だったので、周囲の妬みも頂点に達していたのでしょう。卒業直前に美術科で作った小冊子があるのですが、クラス40名の中で「最も出世しそうな人ランキング」第1位には、私が選ばれていました。他人は勝手な観測をして、勝手な警戒をするものです。
 東京藝術大学 日本画専攻では、さすがに私より絵の才能のありそうな人がクラスに2~3人はいましたが(手先の器用さでは、多分私に優る人はいなかったでしょう)、誰よりも真面目にコツコツと描き続ける私に出世の脅威を感じた人もいたようで、クラスの中心的な一部の人達から、言葉と態度での攻撃を受けた事も度々あります。多くは嫉妬・恐怖心からの言動なのかも知れませんが、いずれも私の本意を突いておらず、誠に残念な事です。
 私は子供の頃から、”絵”を描く事のみに心底からの幸せを感じて来ました。ただそれだけの価値観です。ある種の異常性なのかも知れませんが、それに関する事以外には何の魅力も感じないのです。社会的な出世欲や金銭欲・物欲は、一般人に比べて極めて低い方だと思います。

 大学の時、1年生より2年生が、学部生より大学院生の人達が偉そうにしている日本画界の縦構造を目の当たりにして、大いに疑問を感じました。大した事もせず、ただ、そこにいるだけでも、人は勝手に進級して行きます。それなのに上の学年だという理由のみで、偉そうにできるのだろうか・・・。それが、講師・教授、院展作家ともなれば、雲上人の様相です。大学2年生の頃には疑問は膨らむ一方で、「自分はこんな低い実力のまま安易に出世して、下の者に威張りちらすような人間になってはいけない・・・。」と思い悩むようになりました。大学1~2年時の私への先生や先輩・同輩からの評価は、そのまま行けば後藤は必ず出世して来るだろう、という雰囲気でしたが、私もそんな周囲の視線をひしひしと感じていました。
 当時の私が、夢を抱いて入学した東京藝術大学に幻滅を感じ、2年生の終盤から2年間余りも通学を止めた理由には、切磋琢磨しあえそうな真の絵描き仲間に出会えなかった失望感の他にも、出世を遅らせたいという奇妙な思考もあったのです。大学を2年間も留年する事で、私が落第生の烙印を押されたなら、誰も私が「出世を狙っている、権力を欲する」等という根も葉もない噂を流さぬだろうと・・・。また、そのような重い足かせを自分に着せる事で、私自身が「慢心」から遠ざかり、茨の路を歩めるだろうと。それでこそ、本当の芸術家になれるだろうと・・・・。
 私はやはり、かなりの変わり者なのでしょうが、当時は若気の至りも強く、今以上にバランスの悪い人間だったようです。

 実はそのような逆行行動は、高校・予備校・大学と度々取って来ています。美術予備校・立川美術学院 時代にも、あえてふざけたバカ生徒のふりをして授業にほとんど出ないという奇行を取っていました。そんな私の有様を見た予備校の時のほとんどの知人は、未だに私の事をバカな男だと思い込んでいるようですね。彼ら彼女らは、私の人生を通した演技に、まんまとだまされたのです。大学時代の知人にも、「後藤はいい加減な人間だ、何を考えているか分からない・・・」とか、だいたい評判が悪いようです。その反面、中学校・高校時代の先生や後輩の多くは、私の事を「天才」「超人」「宇宙人」等と言って、過大評価してくれていました(同輩からは大抵嫌われますがね)。ここに、私にも理解しがたい不思議な二律背反が起こっています。自分の事は案外よく分からないものですが、実際の私は、その評価のどちらでもなく、ただの「絵を描く事が好きな変わり者」なのではないかと考えています。
 確かに私は人並み外れてバランスの悪い変わり者である事は間違いないでしょう。自意識過剰の部分もあるのでしょう。そこが悟りを開けない一番の要因なのだと理解しています。ただ、懸命に制作に没頭する姿や自信過剰とも取られる言動からなのか、あらぬ疑い・・・「権力を志向している」「自分だけの利得を考えている」だのといった憶測が未だに生きている事に驚くのです。
 そのような憶測の要因があるとすれば、ひたすら自己の制作に打ち込む姿勢が自分本位ととらえられる可能性や、「権力への反抗心」が他人からは「権力への志向」としてとらえられる可能性が考えられます・・・。私は間違った権力者が世間に幅をきかす事に、大きな危惧を抱いています。元来、社会の歪みや矛盾には、かなり敏感な方で、特に弱き者が強き者に抑圧される事象が許せないという根っからの性質があるのです。間違った思想を持った人物が世間から評価され、権限を行使して、弱き者達を駆逐していく構造には許せない憤りを感じます。私は、偏った権威権力を毛嫌いしている人間なのです。それは、美術界もその他の一般社会においても同じです。もし世の中にそのような傾向が強まって来るのなら、私の小さな力ですが出来る範囲で一絵描きとして、作品表現上で抵抗していかなければならないとの信念は持っています。

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 「茨の路を行く・・・」口で言うのは簡単ですが実践するのは至難の路です。私は日本画界での安直な出世から、あえて遠ざかり、無所属の不安定な路を歩みました。豊かな家柄でもなく地方出身の私が、絵の世界で生きていくのは、至難の業です。

 私は高校3年生で初めてアルバイトをしましたが、民芸品店の販売員で時給は確か560円位でした。その後、高校3年の終盤、実家を離れ大阪の鶴橋の ぼろアパートに住み込み、新聞配達とファストフード店員を掛け持ちしながら2か月間ほど高校に通いました。当時の私は親との折り合いも悪くて、早く家を出たかったのです。高校卒業後は上京して、新聞奨学生として新聞配達・集金をしながら1年間、美術予備校に通いました。私の独り立ちは、のっけから波乱含みの船出だったのです・・・。

 大学3年生から2005年末までの約12年間、強欲な経営者の元で「金唐革紙(きんからかわし)」という手製壁紙の復元製作を手掛けたりしました。このブログにも書いていますが、その金唐革紙製作の重労働と自身の日本画制作を両立させるのは、かなり過酷な路でした。ただその頃は、大学卒業後、金銭的には最も安定していた時期で、その点だけは経営者には感謝の念を忘れてはいません。(とは言っても、金唐革紙の賃金と日本画の収入は、合わせても高校卒の初任給程の微々たるものです。)
 大学卒業後、しばらく金唐革紙の仕事が無かったので、1年余り、取手市にある居酒屋のパントリー(飲み物担当)の仕事もやりました。私は誰よりも早く正確に飲み物を作れると評判になり、「パントリスト」という称号で呼ばれました。あまりうれしくはないですがね・・・。
 金唐革紙 製作研究所の経営者の脱税も発覚し、その独善的な振る舞いにも我慢の限界が来て、2005年末、製作研究所を完全に離れました。しかし、それからがまた大変でした。今の私の日本画作品評価額(号3~4万円)で売り絵だけで食べて行くには、1か月間に、F30号位の中品なら1枚、F6号位の小品なら4~5枚をコンスタントに売っていかないと不可能です。何故なら、日本では画商の権限が強くて、百貨店・デパートで画商を通して絵を販売すると、画料(下代)は売値(上代)の20%にも満たない場合がほとんどなのです。バブル期以降、若手作家が絵だけで食べて行くのは奇跡に近い事です。

 金唐革紙を辞めて1年半位は貯金を取り崩しながら、絵の制作だけに集中して生活していましたが、段々厳しくなって来たので、2007年の7月末、とりあえず日雇い派遣労働(時給は800~1100円位)をするしか方法がなくなりました。すぐにできる美術関係の仕事など無いのです。今は倒産した悪名高い グッドウィルという派遣会社に登録して、ソフトバンク・セブンイレブン等のピッキング(荷物仕分け)、クリーニング会社の作業、アウトレット家具店の清掃・販売、引っ越しの手伝い等、単調で過酷な労働ばかりをやりました。ピッキング作業では単調な荷物仕分けを一日中やらされ、松戸の大型クリーニング会社ではガラの悪い年下の社員に罵倒されながら悪臭のする服を大量に洗い、千葉の有名なアウトレット家具店 メガ・・・何とかでは短気な副店長や社員に怒られまくりながらこき使われ、有名な アート・・・何とかいう引っ越し屋では行った先で初めて制服を着させられ、年下の無愛想な社員に怒鳴り散らされながら、重たい荷物運びを延々とやりました。超有名な ヤマ・・・何とかいうパン屋の松戸工場は、焦げ落とし等の作業が過酷で、社員がガラが悪い事で派遣仲間では悪名高かったので、私もここだけは行くのを避けました。その他にも数か所の派遣先を体験しましたが、いずれも単調で過酷な作業が続くだけではなく、社員からは「そこの派遣!」と名前さえ呼んでもらえず、こき使われるさまは、まさに新しい形の「奴隷制度」だと感じました。
 まれに個人経営の社長さん等で良い人もいましたがね・・・。今は、多少改正されて日雇い派遣は廃止されたと言いますが、何らかの形でそれらは存続しているのは間違いないでしょう。そしてその頃、一緒に働いていた社会的弱者の人々・・・ほとんどの人は少しおとなしいが真面目ないい人ばかりでした・・・は、今もそのような実りの薄い仕事を続けているのでしょうか。悲しい格差社会の実態を体感しましたが、なかなか普通の絵描きが知りえない、様々な仕事の裏の部分を知れたという意味では、今後の絵本制作等にもプラスになる点があるのではないかと、今ではポジティブにとらえています。

 2007年末まで、そんな派遣労働生活をしていたのですが、その終盤の2007年12月から松戸市みのり台の、とある個別指導塾の講師をやり出しました。私も美術大学卒とはいえ小中学生になら多少は学科を教えられます。しかし、今必要とされるのは私の比較的苦手な数学や英語ばかりです。やる気のない生意気な生徒に好きでもない学科を教えるのは、全く性に合っていません。おまけに大学卒業したての20歳代前半の若い塾長まで世間知らずで生意気ときていますので、2009年8月でそこを辞めました。ただ、そこの塾生に、学科は全くできないが結構 絵の上手いオタク系の中学生が一人いて、「個性的な彼らの才能を伸ばせる世の中ならいいのだが、良い指導者に巡り合えず一歩間違えば、悪い方向に進んでしまうだろうな・・・」と心残りもありました。
 2007年10月以降、派遣労働、塾と並行して、カルチャースクール/読売・日本テレビ文化センター柏・金町の「日本画・水彩画・デッサン」絵画講師を始めました。その後、NHK文化センター柏やコープみらいカルチャー春日部と、少しずつ講座数を増やして行き、何とかギリギリ生活できる体制を整えて行きました。今は5つの講座を受け持っています。ただ、カルチャースクールの受講者は3か月単位で増減するので収入も安定しませんし、人数に応じて講師料が定まっているので、よほど大人数の教室でもない限り、収入は微々たるものです。

 ついでに今までに経験した、その他の主な仕事を挙げてみましょうか。大学時代には、福岡美術研究所 夏期・冬期講習 講師(数週間)、河合塾美術研究所(東京校)日本画科講師(1年間)、区立児童館 図工教室講師(1年間) 等の美術関係の仕事の他、美術館監視員(1週間)、会場設営・大工(3か月間)、花市場・仕分け(3か月間)、郵便局・仕分け(2週間)、明治神宮の正月のしるこ屋(数日)、百貨店警備員(2か月間)、大学卒業後に NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作(2か月間)、結婚式ビデオカメラマン(1か月間) 等、今までに30種類位の様々な職種のお仕事を経験しています。これほど多くの職業を体験している人は世の中にほとんどいないと思いますので、この知識を絵本制作等に活かせないかと思案しています。
 こう書いて来ると、常にバイトばかりしていたと誤解されそうですが、実際には、在学中は放課後や春期・夏期・冬期休暇中にバイトを入れ、大学卒業後は週に平均3日間位の仕事を入れ、残りの日や夜間に日本画制作をコツコツとしていたのです。大学卒業後から2008年頃まで、1~2年に一度の「個展」と、1年間に4~5回は「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)等のグループ展をコンスタントに開催していたのですから、20歳代後半~40歳頃の自分を、よく頑張っていたなと自ら回想します。最近はグループ展の回数は減っていますが、絵本出版後に「絵本原画展」を集中して開催しています。
 藝大・美大を卒業した友人・先輩は、すぐに美術予備校や小中学校で教えたり、大学の助手に残ったり、カルチャースクールで講師をする人がほとんどでした。絵を教える仕事をしながら絵を描くのが、一番、楽なのは当然分かっています。私も大学時代に1年間、美術予備校・河合塾美術研究所(東京校)で日本画科講師を体験しましたが、あまりに若くから人に指導する仕事をすると、自分に実力も無いのに勘違いして、口だけ達者な「天狗」になってしまう人を多く見て来た経験もあり、私はたとえ苦労をしても40歳近くまでは絵を教える仕事はせずに、自分が制作する立場に専念したい、という自戒の思考も持っていました。


 今までに私は、このような厳しい絵描きの茨の路を歩んで来たのです。多分、ほとんどの同世代の絵描きより苦労して来たと言って良いでしょうね。私は自らを低い地位に置く事で、徹底した茨の路を自分の人生に敷いて、「真の芸術家」を目指そうと願ったのです。 
 近年は40歳を越えて、さすがに私も少しは性格が落ち着いて来ました。もう少し自然体で生きて行っても良いのではないかと、最近は思うようにしています。

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 ここ10年弱は、日本画・絵本の収益と、カルチャースクールの講師料とで何とか食いつないでいますが、まれに大きな展覧会や絵本制作で少しまとまった臨時収入はあるものの、基本的には一般的なサラリーマンの収入の何分の1かのわずかな収入で、何とか生きています。まさに、絵に描いたような貧乏絵描きの生き様です。それは、今ではほとんど聞く事もなくなった美徳の一つである「清貧」と言い換えても良いでしょう。
 清貧生活の中でも、たまに絵本の収益等があると、すぐに日本や世界中の子供達に絵本寄贈をしてしまうので、ますます貧相な生活になるのですが、子供達に笑顔を広めたい性分なので仕方ありません。
 何故、こんなみっともない話をするのかと思われるでしょうが、実体験を赤裸々に示す事によって、私が出世権力志向で動いていない事を証明すると共に、世の人々のお金というものに対する価値観の再検証を試みてみたかったのです。(私は画家なので、「文章」は趣味みたいなものです。故に、原稿料をいただかなくても良いのです。しかし、今後機会があれば、仕事として文章も手掛けてみたいと考えています。)

 日本も世界もお金持ちが偉いという考えが一般的ですが、私の理論ではお金持ちは多くの貧乏人からお金をせしめて生きている分、実は多くの貧乏人に感謝せねばならぬ立場にあると考えています。ただ配分バランスが偏っているだけで、億万長者は何も威張れる根拠は持っていないのです。お金持ちの多くはそれを実力・能力と考えがちですが、時の運や強引な性格がもたらした一過性のものであるケースが大部分でしょう。 
 現在も過去も、人間はお金という幻想に執着して来ました。資本主義というシステムはその最たるものですが、ようやく今頃、その限界説がささやかれ始めました。私はお金のみに価値観を求める多くのビジネスマンの拝金主義的嗜好に、前々からあきれています。人は生きていければ良いのです。何が本当の幸せなのかを熟慮し、最も大切なものは何かを知るべきです。それこそ、無知の知です。
 私の極論では、生活に必要な資産以上の収益のある人は最大99%位まで、世界中のより貧しい人々の福祉や子供の教育等に配分していく位の、大胆な国際的大改革があって良いと考えています。何故なら、世の中に100倍、1000倍以上もの格差を生むほど、他者より能力の高い人や努力している人はありえないからです。わずかな能力や努力の差と大部分の運が、現在の異様なまでの格差をもたらしているのです。資本主義の最も間違っている点がそこにあります。動物の場合は、せいぜい多く食べれるか食べれないか、子孫を多く残せるか残せないかの差しか生じません。それが自然の摂理なのです。
 私は資本主義や機械文明・コンピュータ社会を信じてはいません。ただ当然ながら、それに代わる良いシステムを知っている訳ではないのですが、人類がここらで一度立ち止まって、たとえ不便であろうとも、自然と共に生き、完全なリサイクルが行われて来た、少し昔の永久的に継続可能な生き方を見直すべきではないかと考えています。

 私はブッダやガンジー等の「無所有」の思想に憧れます。また、「不殺生」「非暴力・不服従」の思想にも大いに共感します。ガンジーが亡くなった時に所有していたのは、着ている服と糸車と一冊の本だけだったという逸話を記憶しています。それでも、世界中の多くの人々はガンジーを侮蔑したりはしないはずです。その思想と行動こそが最も尊くて崇高だからです。
 私のような俗人は聖人のようには到底生きられませんし、絵を描くのには画材や資料が必要となります。しかし、絵描きの必要とする物以外への余計な物欲はなるべく控えねばならないと考えています。私は画材がそろえられ、取材旅行ができればそれでいいのです。しかし、そんな純粋な生き方ができれば、それこそ贅沢というものかも知れません。世界中の平均から比較すると、貧乏絵描きと言えど、日本人はほとんどの人が贅沢過ぎるのですから。(ただ、諸々の生活基本料金が高過ぎて、生きていくのは決して楽と言えないのが日本の実情ですが・・・。)
 しかしながら一つ懸念されるのは、本当に志があり実力もあるのに「絵」だけで食べて行けない作家がこんなにも多い日本の現状では、将来、優れた作家は全く育って行かないでしょうし、日本の文化は衰退して行く事でしょう。私の場合は、学生時代の意図的な2年間の留年により、日本画界において少なくとも30~50年分位(半生分)はマイナスのハンデを負ったとは言え(東京藝大・難関美大卒以外の作家より、日本画壇・藝大学閥の有力者に知られている分、余計に出世の妨げになる可能性が高いです)、小中高校時代に「天才絵描き少年・青年」とまで称賛された私でさえ、こんなに辛酸をなめる絵描き人生になるのです。私は人並み以上に極めてタフな精神・肉体なので、こうして今も絵を描けていますが、常人ならば、とっくの昔に絵の路を断念している事でしょう。世間一般の美術文化への関心の向上と、作家をサポートしていける社会体制の構築は不可欠です。私も、もう少し取材を増やせて、画材が豊富に使えるようになりたいものですね・・・。

 今回、色々と思うところが多くて、いつもながらまとまらない文章になってしまいましたが、今の率直な気持ちを文章に書き記しておこうと思いました。かなりの長文になりましたが、偏屈な一絵描きの戯言とお聞き流し下さい。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁




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プロフィール

後藤 仁(GOTO JIN)

Author:後藤 仁(GOTO JIN)
 ~後藤 仁 公式ブログ1~
日本画家・絵本画家 後藤 仁(GOTO JIN)の日本画制作、絵本原画制作、写生旅行、展覧会などのご案内を日誌につづります。

  〔後藤 仁 略歴〕
1968年兵庫県赤穂市生まれ。15歳、大阪市立工芸高校美術科で日本画を始める。東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男先生(恩賜賞受賞者)に師事。在学中より約12年間、旧岩崎邸、入船山記念館、孫文記念館(移情閣)等の金唐革紙(手製高級壁紙)の全復元を行う。卒業以降は日本画家として活動し、中国・インドをはじめ世界各地に取材した「アジアの美人画」をテーマとする作品を描き、国内外で展覧会を開催する。近年は絵本の原画制作に力を入れる。絵本作品に『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店)、『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)、挿絵作品に『おしゃかさま物語』(佼成出版社)。『犬になった王子 チベットの民話』は、Internationale Jugendbibliothek München ミュンヘン国際児童図書館(ドイツ)の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。NHK日曜美術館の取材協力他、テレビ・新聞等への出演・掲載も多い。東京造形大学・絵本講師。金唐革紙保存会 主宰。日本児童出版美術家連盟(童美連)(太田大八先生、赤羽末吉先生、いわさきちひろ先生らが創設)会員・理事。絵本学会(太田大八先生らが創設、現会長:松本 猛先生)会員。日本中国文化交流協会(井上 靖先生らが創設)会員。この本だいすきの会(代表:小松崎 進先生)会員。千葉県松戸市在住。

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