2013-04-11
「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その9

「入船山記念館」金唐革紙講習会 (2001年8月3日) 後藤 仁 © GOTO JIN
「旧岩崎邸」の仕事の後は、2001年8月の「入船山記念館」の講習会などのイベントや、小さな雑用仕事がたまにあるくらいでした。
2003年に入り、『金唐革紙展』をするから作品製作と展覧会準備に来てくれとの打診がありました。「紙の博物館」という金唐革紙や版木棒の収蔵もしている紙関係専門の博物館で開催すると言います。
私とI君とで、展覧会出品作品の金唐革紙衝立・屏風などを製作しました。その他、備品の調達や作品題名の整理まで全ての展示準備をしました。準備が整うと、「紙の博物館」に作品搬入をして展示作業までかかわりました。

金唐革紙 衝立製作 (2003年3月) 後藤 仁 © GOTO JIN

「洋館を彩った金唐革紙展」紙の博物館 (2003年5月4日) 後藤 仁 © GOTO JIN

「洋館を彩った金唐革紙展」紙の博物館 製作実演会 (2003年4月6日) 後藤 仁 © GOTO JIN
2003年3月18日~5月25日「洋館を彩った金唐革紙展」(紙の博物館・東京都北区王子)が開催されました。紙の博物館の新館開館5周年記念展でもあり多くの来館者が訪れました。
途中、テレビの取材もありました。テレビ東京「世の中ガブッと!」(2003年5月4日放送)という番組で、司会は女優の高木美保さんとお笑いコンビのエネルギーです。私とI君が実演製作をしてエネルギーの2人が製作体験をするという内容でした。
その後も、NHK「首都圏ネットワーク」の取材が入り、2003年7月1日と2005年5月26日放送分で金唐革紙の製作実演を披露しました。番組では経営者が製作している場面が放映されましたが、実際は私が製作した後、放送部分のみ経営者が打ち込みをして撮影しています。
『金唐革紙展』も私がいた時だけで、「フェルケール博物館」(静岡県静岡市)、「旧岩崎邸庭園」「呉市立美術館」「入船山記念館」「小津和紙博物舗」「OZONE新宿」「銀座一穂堂」などの各地で開催され、私が中心となって作品製作・搬入展示・製作実演をしました。
この様にして、『金唐革紙』の世間での認知度も上がっていきました。


「江戸東京自由大学 金唐革紙講座」江戸東京博物館 (1998年10月4日) 後藤 仁 © GOTO JIN

「旧岩崎邸の華そのデザイン展」旧岩崎邸庭園 製作実演会 (2003年11月15日) 後藤 仁 © GOTO JIN


「旧岩崎邸庭園と金唐革紙の世界展」旧岩崎邸庭園 製作実演会 (2004年11月13日) 後藤 仁 © GOTO JIN

「金唐革紙展」小津和紙博物舗 (2004年3月27日) 後藤 仁 © GOTO JIN

「金唐革紙展」リビングデザインセンターOZONE新宿 (2004年11月30日) 後藤 仁 © GOTO JIN

「明治の洋館を飾った金唐革紙展」フェルケール博物館 (2005年9月23日) 後藤 仁 © GOTO JIN
これらの功績が認められ、2005年には研究所を代表して経営者のみが「国選定 保存技術保持者」に選定されました。これは、人間国宝(重要無形文化財保持者)の近代製品版の様なもので、社会的には結構な権威のあるものです。申請すれば、毎年108万円位までの補助金が国から支給されます。ただし、この支給目的は後継者の育成であって、私的に用いる事は本来禁止されています。
この選定式・セレモニーにも私達は呼ばれず、もちろん金唐革紙の何の肩書も無く、金唐革紙製作者としての名前は抹消されたままでしたが、『金唐革紙』を製作したのは本当は私達だという自負だけがありました。(元々、私はあまり肩書にはとらわれない人間ですが・・・この極端さは、理解しかねます。)
*
多くの研究所の問題点を見てきた私は、2006年とうとう限界に達して研究所を離れました。『金唐革紙』の製作自体には面白味も感じ、自分がやらなければ他にやる人がいないという責任感も強かったのですが、今後は自分の日本画制作のみに打ち込もうと決心しました。そうすると、不思議と気分が軽くなりました。今まで何か相当重く暗い物が私にのしかかっていた様です。
私が研究所をやめた後も私が当時製作した作品を使用して、「大英博物館」「ヴィクトリア&アルバート美術館」(イギリス)や、「紙の博物館」などで度々『金唐革紙展』が開催されましたし、テレビ・新聞・雑誌出演も多くあった様です。研究所には唯一経営者に合わせる事ができたI君が残り、しばらくは多少の復元製作はやっていた様ですが、私が抜けた研究所はもはや中心を欠いた抜け殻の様なもので、実質的な製作体制・活動は終了していました。現在では、私達の残した作品を使って講習会などのイベントを時々やっている様です。
近年になって経営者は春の叙勲で旭日双光章を受章したそうです。それらの輝かしい建て前の名誉の裏には、私達若者の努力があった事を世間の人々には忘れないでいて欲しいのです。
〔後書〕
私が金唐革紙の研究所を離れた大きな理由は3つあります。まずは、本業の日本画の制作に専念したかった事。2つめは、実質的にはほとんど私達若い者2~6名位が金唐革紙製作をしていたにもかかわらず、外部には経営者が一人で全てを製作しているという形で喧伝されていたという不条理。3つめは、経理・運営を一人で手掛けていた経営者が、「研究所発足当時から長年不正経理を継続しており、巨額の脱税をしている。」という経営上の法的不備の告白をした事によります。
現在でも、金唐革紙の現存する各施設では、『金唐革紙』の製作者は研究所経営者のただ一人のみとされていますが、一人で出来る規模の仕事ではありません。当時、研究所の経営者は実質的製作にはほとんど参加せずに、企画・経理等の研究所経営のみを行っていました。 「旧岩崎邸庭園サービスセンター」や、その監督所の「東京都公園協会」、「孫文記念館」、「入船山記念館」、「紙の博物館」などのいずれも私達数名が実質的な製作をした事を把握していますが、現在の日本では経営者(出資者)と発注者の権限が強く、実際苦労して製作にたずさわった人の権利はまだまだ低いのが現状です。
それぞれの施設で、製作者の名前を全て正確に記載していただける日が来る事を願っています。その様な公平な日が来る事が、製作者側の唯一の望みです。
私にとって『金唐革紙』は、良き仲間と製作に打ち込んだ若い頃の思い出ですが、また、美術界の色々な矛盾や疑問を感じた場所でもあります。
詳しい問題点を最初はこのブログにも書いていたのですが、挙げていけばきりが無いほどの研究所経営の不祥事が出て来てしまいます。(私をはじめとする当時の若者達は、経営には一切関与していません。純粋に製作のみ行っていました。)個人のプライバシーを考えると例え違法行為であっても、伏せておいた方が良いのだろうと判断しました。そこで、過去の事をとやかく言うより未来へ向けて頑張っていこうと考え、あまり個人的な問題点は削除しました。
私達若者が奮闘する事無しには現在復元されて残っている『金唐革紙』も一切存在しなかったという事実を知っていただき、将来は今よりもっと公平な形で『金唐革紙』の公開がなされる事を望みます。今後は各施設でも製作者の名前を正確に公表する・・・作家としては、今はただそれだけの簡単な事をお願いしているだけです。そして将来のより良い日本文化の発展へとつながっていく事を切に願っています。
現在の私は日本画・絵本原画制作で忙しいのですが、将来もし『金唐革紙』の復元製作の必要が生じた時には、次の若者達に正確な製作技術を伝える為に『金唐革紙』の技術保存などを心掛けています。(今の研究所が将来存続していたとしても、更に形骸化している事は目に見えています。)ただし、その時にはかつての研究所の様な間違いを繰り返さないように努めなければいけません。
このブログを見られた方でご賛同下さった方がおられましたら、今後ともご支援の程よろしくお願い申し上げます。
(※最近、かなり多くの私の支援者やファンの方が、「旧岩崎邸庭園」「入船山記念館」等の販売コーナーの金唐革紙しおりや金唐革紙の本を、私の為になると思われて購入されている様です。お気持ちは有難いのですが、現在私は金唐革紙の研究所を完全に離れており、購入された収益は全て研究所の経営者のものとなっています。もし、私の為のご購入でしたら、金唐革紙グッズではなく、私の『絵本』作品などをお求め下さいましたら有難いですので、よろしくお願い申し上げます。)
2013年4月
絵師(日本画家・絵本画家、金唐革紙 製作技術保持者) 後藤 仁
- 関連記事
-
- 金唐革紙(金唐紙)製作の思い出 (2014/05/12)
- 「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その9 (2013/04/11)
- 「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その8 (2013/04/08)