2013-04-06
「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その6

江戸東京自由大学「金唐革紙講座」(1998年10月4日 江戸東京博物館)後藤 仁 © GOTO JIN
『移情閣』(孫中山記念館、現在は、孫文記念館と改名。当時、兵庫県有形文化財、復元後、国重要文化財に指定。)の金唐革紙のシルクスクリーン彩色が始まりました。
彩色には、主にカシューという西洋漆が用いられるのですが、揮発油の強烈な臭いがします。シルクスクリーン彩色では、一か所の彩色の度シルクスクリーンを揮発油で洗わなければいけないので、部屋中が異臭に包まれ呼吸困難になります。そこで、簡易ガスマスクを付けての苦しい作業となりました。一人がシルクの枠をあてがい、一人がヘラで押さえ、2人位がシルクを洗います。4~5人で交代しながら一日中この作業ですが、長時間やっていると気分が悪くなります。マスクをしていても臭いは入って来る様で、鼻の奥にこびりついた異臭は何時間も取れません。
シルクスクリーン彩色は、結構速く終わりました。確か2か月位でしょうか。こうして、1999年末頃に完成した金唐革紙は、「移情閣」に送られました。
一旦仕事は終了になりましたので、次の仕事をすぐに探さないといけないK君とN君は研究所を離れました。K君は沖縄へ陶芸の修行に行くと言い、N君はデザインの仕事などをしていた様です。M君は実家暮らしなのでゆとりがある様でしたが、自分の作品制作などをしていました。その後、研究所に残った私とI君は、時々小さな雑用的仕事をこなしていました。
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研究所の私達は、学生時代から全く変わらない時給制で働いていました。東京のコンビニの夜間バイト代位ですが、学生の頃はそれでも随分助かりました。しかし、仕事の役割は重くなる一方なのに、時給は最後まで一向に上がりませんでした。私達の時給は、生活費・日本画制作費で全て消えていきました・・。
「入船山記念館」の復元事業で研究所に支払われた呉市からの報酬(元は税金です。)は、正式報告書によると金唐革紙新調代のみで、3163万9933円です。版下・版木棒作成料などを入れると5000万円あまりになります。金唐革紙の値段は、一平方メートルで20万円の設定でしたが、研究所の運営・経理は完全に経営者のみ知るところで他人は誰も分かりませんでした。
この後、今回の「移情閣」や「旧岩崎邸」という巨大公共事業が続く事になります。
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「移情閣」下貼り紙の貼り込み(2000年2月)後藤 仁 © GOTO JIN

「移情閣」貼り込み(2000年3月)後藤 仁 © GOTO JIN

「移情閣」貼り込み(2000年4月)後藤 仁 © GOTO JIN
通常、「貼り込み」は専門業者がやるのですが、今回は「貼り込み」まで経験してみようという事になりました。2000年2月、兵庫県神戸市の現場へおもむきました。
「移情閣」の貼り込みでは、私とI君が脚立にのぼって壁に金唐革紙を貼り込んでいきました。下で経営者がのりを付けて私達に渡します。2か月位の間、ホテルや私の赤穂市の実家から通いました。途中、金唐革紙が足りなくなり急きょ私だけが東京へ戻り、一週間ほど研究所で寝泊まりしながら、一人夜中まで追加製作した事もあります。
こうした大変な製作過程を経て、ようやく「移情閣」の金唐革紙の復元が完了しました。

「移情閣オープニングセレモニー」(2000年春)朱鎔基 中国首相夫妻、兵庫県知事 ほか。贈呈しているのは、私達が製作した「金唐革紙」。(主催者から復元関係者に配られた写真。)

復元後の「移情閣」(2001年8月)後藤 仁 © GOTO JIN

復元後の「移情閣」内装(2001年8月)後藤 仁 © GOTO JIN
「移情閣」のオープニングセレモニーでは、中国の朱鎔基首相夫妻や兵庫県知事も出席されましたが、当然、製作者の私達が呼ばれる事はありませんでした。それは良いとしても私が残念だったのは、今度は正式報告書にも何の説明文にも私達、実際の製作者の名前が記されなかった事です。
この続きは、また次回とします。 後藤 仁
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