2021-09-09
インドネシア(ジャワ島・バリ島)写生旅行〈1995年〉その1、後藤 仁
私は”旅”を愛し、”旅での写生”を画家人生の生き甲斐にしてきました。ところが、現在のコロナ禍により、海外・国内旅行も制限され、来年以降もしばらくは難しそうです。そこで、この間に、まだブログに記していない、過去の「海外写生旅行」をぼちぼちとまとめておこうと思います。なにぶん昔の事ですので、記憶違いの事項やあいまいな箇所も多々あるかと思いますが、残された画像や資料を元に、感動の旅をできるだけ詳細に辿ってみたいと思います~。
まずは、私の一番最初の海外旅行『インドネシア(ジャワ島・バリ島)写生旅行』 (1995年3月13日~27日)です。私は26歳、東京藝術大学3年生の終わりの春期休暇に、この旅を行いました。
大学4年生を前に、私は卒業制作の題材を考察していました(当初は、「東大寺大仏殿」を描く予定でいました)。東京藝術大学 日本画専攻の同級生、中尾俊雄君がインドネシアの旅を一緒に行ってくれる人を探しているというので、前々からアジア文化に関心の高かった私は、この機会に彼と一緒に旅行する事にしました。私はそれまで、国内旅行にはよく出掛けていましたが、海外旅行は未経験でした。中尾君はヨーロッパの旅等を何回か経験しているといい、海外初旅行は経験者に同行する方が安全だろうと考えたのです。
ジャワ島にある世界三大仏教遺跡・ボロブドゥール遺跡には、かねてから、ぜひとも訪れてみたかったのです。また、バリ舞踊にも関心がありました。そして、卒業制作の題材探しも、旅の大きな目的でした。
それからパスポートを取り、その時分、インドネシアではコレラが流行しているというので、念のために品川東京検疫所と那覇検疫所でコレラワクチンを2回接種しました。2月27日~3月4日に、師である後藤純男先生に随行して「沖縄(本島)写生旅行」に行っていたので、2回目はやむなく沖縄で接種したのです。ちなみに私が初めて飛行機に乗ったのは、この沖縄旅行でした。私は結構苦学生でしたので、なかなか生活にゆとりを持てず、旅好きの割には飛行機デビュー・海外旅行デビューも、存外、遅かったのです・・・。
新宿のH.I.Sで、インドネシア行の往復航空券(日本・成田 → インドネシア・バリ島 → インドネシア・ジャワ島 → 日本・成田/9万2000円)と海外旅行保険(7610円)も購入しました。
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旅行1日目: 1995年3月13日(月)。11:00 日本・成田発 → 20:10 インドネシア・バリ島、デンパサール着。
ガルーダ・インドネシア航空の機内は落ち着いたブルー色で、食事や雰囲気も良かったです。赤道を越える頃に、かなり機体が揺れて、乗客の女性達からは悲鳴が起こったりしましたが、基本、快適な空旅でした。インドネシア上空で飛行機の窓から見下ろすと、田園や曲がりくねった川が、パッチワークのようで面白いです。インドネシア・ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港を経由して、バリ島のグラ・ライ国際空港に到着しました。
こうして、小さな不安と大きな期待を胸に、私の海外初の旅が始まりました~!!

インドネシア・ジャカルタ 「スカルノ・ハッタ国際空港」 ガルーダ・インドネシア航空、マークのガルーダがカッコイイ~❣
空港で両替をすると、1万円→22万5000ルピアでした(1ルピア≒約0.044円/ウブドの両替所では、1万円→24万ルピアの所もありましたが、その他はだいたいこのレートでした。当時のインドネシアの物価は、日本の6~7分の1くらいでした)。空港からタクシー(1万1000ルピア)でデンパサール市内へ。タクシー運転手の案内で安めの宿を探し、ダブル部屋で二人で1万6500ルピアのホテル(ホテル名称、未記録)に泊まりました。
チェックイン時、宿に、私らより少し年上のあんちゃんが来て、車でバリ島を案内するといいます。バリ島は交通網が発達しておらず、どのみち右も左も分からぬ土地ですし、人相から悪い人ではなさそうだと中尾君と相談し、その人に運転・案内してもらう事にしました。一日(確か二人で)7万5000ルピアだといいます。インドネシアの物価からすると高めのような気もしましたが、後で分かったのですが、その人はレンタカーを借りて一日中、運転をしてくれるので、そのレンタカー代にかなり持っていかれるそうで、比較的良心的な価格だったようです。
【バリ島ホテルあるある~⁉】
①インドネシア、特にバリ島のホテルでは、何人もの物売りやあっせん屋が部屋の前までおしかけてきます。今回の運転手のあんちゃんは正解でしたが、中には偽物・まがい物を売りつけたり、麻薬等の違法物をそそのかす輩もいるので、注意が必要です。いらない時は、ハッキリと「NO!」と拒否しましょう。警察官の服装を着た犯人にホテル従業員までだまされて、宿泊客が強盗にあったケースもあると言いますので、個人では回避しようがない事案もありますが・・・。
②インドネシア等のアジア圏のホテルでは、夜中に、「カックー、カックー・・・」といったような奇妙な音が聞こえてくる事があります。特にバリ島のホテルでは多く聞かれましたが、これは、トッケイヤモリ(「トッケイ」とは鳴き声に由来する)の声なのです。体長20㎝程の爬虫類です。私が電気を付けると、10数匹ものトッケイヤモリが天井や壁を行き来し、天井の巨大扇風機の配線の隙間の穴から出入りしているのを見ました。何も悪さはしないですし、よく見ると可愛らしい生き物ですが、爬虫類が苦手な人は、バリ島のホテルではご覚悟下さいね~。 (@_@)
旅行2日目: 3月14日(火)。この日は、バリ島の有名なヒンズー(ヒンドゥー)教寺院・ブサキ寺院方面を巡ります。
金銀細工の村・チュルク(チュルッ)の銀細工工房を見物し、バドゥブランで「バロンダンス」(入場料一人6000ルピア)を鑑賞しました。「バロンダンス」の、聖獣・バロンが登場する日本の獅子舞いのような演目や、女性達の優雅なバリ舞踊、勇猛な男達の剣の舞に、一気に魅了されました。その後、バンリのヒンズー教寺院「クヘン寺院」(入場料3000ルピア)を参拝。バリ島のヒンズー教寺院に入るには、伝統衣装のサロン(腰巻き)とサッシュ (腰帯) を着用しないといけないので、寺の前の出店で2万5000ルピアで購入。この「クヘン寺院」では、神殿を、F4スケッチブックに軽くスケッチしました。車での移動の途中、棚田が見える景色の良いレストランで昼食。
午後は、聖なる山・アグン山(3142m)の麓に建つヒンズー教寺院「ブサキ寺院」へ。広大な寺院の境内へ入るとすぐに、若い兄さんが、私と中尾君にそれぞれ一人ずつ、つきまとってきました。寺院の高台までついてきて、勝手に解説をします。一通り見終えて寺院の出口に近づいた時、脇道の人気(ひとけ)の無い草地に私達は誘導されました。すると、突然どこからか3人程の兄さんが加わり、私と中尾君を5人程で取り巻いて、「ここは大きな寺院、ガイド代も高い・・・」等と英語で話しながら、にらみつけてきました。私と中尾君の一眼レフカメラをじろじろと見回して、いかにも欲しそうな顔つきです。仕方ないので、確か1000円程のルピアを渡しました。当時、私と中尾君は若くて、筋肉質で、顔もいかつい方だったので、それ以上は要求してこなかったのでしょうが、私達がもっと弱そうだったら、確実にカメラと高額をもぎ取られていた事でしょうね。それ以来、旅先で”勝手にガイド”が現れても、すぐに強く断るようにしています。今のインドネシアはどうか分かりませんが、有名な観光地では注意しましょう~。
その後、クルンクンの「ププタン記念碑」や「クルタ・ゴサ宮廷」の天井画を見て、コウモリのいる洞穴「ゴア・ラワ」へ。
デンパサールの宿は街外れにあり雰囲気も良くないので、この夜は、ウブド(ウブッ)の宿に移動。一泊二人(ダブル部屋)2万7500ルピアの、コテージ風の快適なホテル(ホテル名称、未記録)でした。

バドゥブラン 「バロンダンス」 バリ舞踊

バドゥブラン 「バロンダンス」 聖獣・バロンと、男達の剣の舞

バンリ 「クヘン寺院」 バリ島のサロン(腰巻き)、サッシュ (腰帯) をつけた私

「ブサキ寺院」 中尾俊雄君と私

ウブドのコテージ風のホテルにて(ホテル名称、未記録)
旅行3日目: 3月15日(水)。この日もあんちゃんに車を運転してもらい、バリ島観光。その日のおおよその行き先を指示すると、その方角の見所に車で連れていってくれるので、大助かりです。私達が寺院等を見物している間、運転手のあんちゃんは、いつも駐車場の車中でじっと待っていました。
バリ彫刻で知られるマスを経て、「ブキッ・サリ寺院(サゲー寺院)」ではサル(猿)に遭遇。パチュンの棚田を見て、ブドゥグル(ブラタン湖)のウルン・ダヌ寺院を見物。今日はかなりの距離を車で走りましたが、サルに出会い、棚田やブラタン湖の爽快な景色も見れて、満足しました。

「ブキッ・サリ寺院(サゲー寺院)」 サルと私。眼鏡をサルに取られないように、はずします。

「ブキッ・サリ寺院(サゲー寺院)」 サルと私
この頃は、私の手帳や写真資料の記述があいまいで、判別しにくい箇所もあるのですが(例えば、料金が、一人分なのか二人分なのかが分かりにくい部分があり)、おおよそこの内容で大きな間違いはないと思います。この続きは、バリ島観光の続編になります。お楽しみに~💖
絵師(日本画家・絵本画家)後藤 仁