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2021-02-25

「芸術的天才論」 絵師(日本画家・絵本画家)後藤 仁

 テレビ等のメディアとは恐ろしい影響力を持つものである。先日も、あるテレビ番組内で、おおよそ芸術的天才ではない若者が、芸術的天才に仕立て上げられていた。私には、どうとらえても”天才”には思えなかったが、最後の彼の言葉だけは的を射ている。「世間に認められて満足している。しかし、これで自分は終わったと思う・・・。〈要約〉」
 若い芸術家が活躍をするのは結構な事である。今の時代、画家が生きていくのは本当に厳しい時代なので、なおさらである。ただ、実力の無い者をあまりに持ち上げ過ぎると、しばらくはその効果で食べていけたとしても、後に実力不足が露呈した時には、本人が一番、苦しむ事となる。現代の日本画家でも、ただ容姿が美し過ぎるとかで、テレビ・メディアが取り上げ、やたらと一時期もてはやされた画家がいたが、その作風は古典技法をなぞらえただけで、気持ち悪いものばかりを描くという特徴以外の個性は無く、彼女の実力には、私はかなり懐疑的である。
 本当の天才とは、案外、平凡な外見をしており(ほとんどの場合、衣装・容姿等の見た目ではアピールをしていない)、特に若い頃はさほど目立たないものである。インスタレーションや即興的・パフォーマンス的作画はもうすでに数十年前から、現代アーティスト系の人が数多やり尽くしており、全く目新しいものでもない~。現在では、新たな芸術的表現手段が行き詰まり、奇をてらった行為や犯罪的行為や、しまいにはテロ行為こそが最大の芸術だ・・・などと言われる始末なので、この方向性では、芸術の未来はないだろう・・・。
 私のようなちっぽけな画家は、一見普通にも見える、伝統を継承した正統的な作画技巧の中に、新たな芸術的個性や魅力を発現したい。

 私の経験上、確かに東京藝術大学には天才的な人がいる事はいると思う。東京藝術大学の入学競争率は、私のいた当時(1990年頃)、「日本画」で約20倍(520名余り受験して、26名が受かる)、「油画(西洋画)」で約30倍、「デザイン」だと50倍位であり、他の科はそれ以下である。しかし、美術系の人なら誰でもが記念的に藝大を受ける場合も多く、実質的な競争率はこの半分以下であろう。そこに入るには、デッサン・水彩画・油彩画・平面構成 等を一定以上の高度な技術レベルで描けば良い訳で、そんなに難しい事ではなく、さほど天才である必要はない。
 それでも「絵画科 日本画専攻」(当時は1学年26名)には、年によってもかなり異なるが、1学年に4~6名程の秀才的な人がおり、その中でも天才と言えそうな人は1学年に0~2名位は確かにいる。他の科には詳しくはないが、多分、天才的な芸術家はほぼ、「油画専攻」と「日本画専攻」に集中しており、まれに「彫刻科」にもいると思う。「デザイン科」は多方面への器用な適合力が問われるので、一芸に秀でた天才的芸術家は存在しにくい。「建築科」「芸術学科」は学力の高さが問われ、画力はあまり高くなくても受かるので、芸術的天才はほとんどいないだろう。
 また、他の、多摩美術大学・武蔵野美術大学・東京造形大学・女子美術大学・京都市立芸術大学・愛知県立芸術大学 等の主要美大には、各学部の各学年に秀才はわずかにいても、天才は数年に1人位しか現れないだろう。案外、中途半端に美大等の専門機関に行っている人でない作家の中に、天才が埋もれている可能性もある・・・。
 今回テレビに出ていた人は、確か、「東京藝術大学 建築科 入学」とか言っていたので、IQの高い建築系の数学的秀才・天才はわずかにいたとしても、絵画系・芸術的天才という事は、ほぼ考えられないだろう。

 「アート(芸術)」「アルチザン(職人)」は行ったり来たりするもので、お互いは相関関係にあり、本来、完全には切り離せないものである。西洋的現代アート思考では、二元論的に、より「アート」を独立させようと考えたが、東洋的思想では(西洋の伝統的芸術認識でも)、「芸術家」と「職人(技術者)」は表裏一体のものであるととらえる傾向が強い。つまり、東洋・日本の芸術家の基本姿勢としては、技術・技巧の追求は生涯に渡り途絶えてはいけないのだ。どんな天才的な素養があっても、若過ぎる頃にちやほやされ過ぎると、当然ながら、その作家は向上心を失い、凡庸な作家に終わるものである。たとえ天才肌でも、長年に渡る、人並外れた努力による”画”の研鑽がなければ、その真価を発揮できないものなのだ。
 日本画家・伊東深水は、若い頃に”本の挿絵”が評判となり、売れっ子になりかけたが、師の鏑木清方が、「もう数年は挿絵から遠ざかり、地道に絵の研鑽を積むように」と諭したと言う。現代アーティスト・村上 隆さんなども、私の周囲の藝大生の中で、天才性を感じた数少ない作家の一人だが、学生時代から名をはせるに至るまでの、努力と芸術研究への執念には、並大抵ではないものがあった。
 私が在籍した、東京藝術大学の最初のクラスには(私は2年生の終盤から、藝大生の芸術的意識レベルの低さにうんざりして、丸2年間も学校に行かずに自己研究を続け、2年留年となったので、結果、2クラスに所属している)、私以外では、2~3名の秀才的画家と1名の天才性を感じた人がいたが、いずれの人も今は残念ながら、”絵”ではほぼ頭角を現していない。藝大復帰後に編入した後のクラスには、秀才的な人こそ数名いたが、天才的な人は一人もいなかった。
 作家人生には画力・感性・努力・天才性の有無の他に、多大な運と時勢等が作用し、親の経済力・社会的立場や住んでいる地域(親の代からの東京近郊在住者は何かと有利である)等にも大きく左右され、最終的には協調性やビジネスセンスの高い人が収入につなげられるので、天才・秀才というだけでは渡り切れない、誠に殺生な世界なのである。地方の庶民出身で、商売にも疎い、変わり者の私などは、最も不利な条件と言える。私も人に言えた義理ではないが、天才的な人は往々にして、社会性・協調性に欠ける場合も多く、藝大・美大生の周りを見回しても、案外、適当に要領のいい平凡な画家が現在まで生き残っているケースが大多数だ。それでも、東京藝大出身者ですら、1クラスに平均5~7名位しか、50歳代の今まで、まともに絵を続けられていないという、厳しい現状なのだ。
 いずれにしても、どんな天才でも凡才でも、その後の長きに渡る芸術的研鑽は不可欠なのである。一生、「満足した」などという事はあり得ない。どんなに世間に評価されようと・されまいと、肩書・称号を与えられようと・与えられまいと、売れようと・売れまいと、有名になろうと・なるまいと、・・・そんな世俗には全く関係なく、一生、地道に、画道に精進する事しか、画家には残された道はないのである。

水彩画ポスター「緑を守る一人一人の心と手」 中学3年生 1983年水彩画ポスター「緑を守る一人一人の心と手」 中学3年生 1983年 ─ 「第1回 全国都市緑化フェア 図画・ポスターコンクール」 大阪府知事賞(最高賞)

水彩画「21世紀は太陽利用時代(未来の都会)」 中学3年生 1984年水彩画「21世紀は太陽利用時代(未来の都会)」 中学3年生 1984年 ─ 「太陽の日記念 絵画コンクール」 (審査員長・岡本太郎) 佳作

アクリル画「大自然・・・私の夢」 高校1年生 1984年アクリル画「大自然・・・私の夢」 高校1年生 1984年 ─ 「旺文社主催 第28回 全国学芸科学コンクール」 銀賞(旺文社賞)

日本画「枯木孔雀図(マクジャク)」 高校2年生 1986年日本画「枯木孔雀図(マクジャク)」 高校2年生 1986年

石膏デッサン「ブルータス」 美術予備校 1989年石膏デッサン「ブルータス」 美術予備校 1989年 ─ 「立川美術学院、日本画・油絵 合同コンクール」で一等賞になった作品。背景の一部には、村上 隆さんの手が入っている。


東京藝術大学合格者発表1990、3「立川美術学院・東京藝術大学 合格者発表」1990年3月  当日、その場に居合わせた、村上 隆さんが撮影した写真。

東京藝術大学入学式1990、4、10 21歳「東京藝術大学 入学式」1990年4月10日 後藤 仁、21歳  この頃は、まだ自分の天才性と輝ける将来を、微塵も疑っていなかった~~ ( ;∀;) 

 私も小学生から中校生の頃にかけて、「天才絵画少年、現る!」と学校や地元新聞 等で大いに噂され、大阪市立工芸高等学校 美術科では、「創立50年始まって以来の天才画家 登場か!」と期待された。当時は今ほどメディアが盛んでなかったが、あれが今ならば、さぞかしテレビやSNSで取り上げられ・持ち上げられていたかも知れないね・・・。
 その後、高校卒業後に上京して入学した東京の美術予備校・立川美術学院では、日本画科講師の村上 隆さんらが率いる優秀な予備校生達に出会った。私は、関西風描写方法を東京風に修正するのにも時間を要し、その中の3~4名にはどうしてもかなわない日々があり、生まれて最初の芸術的挫折を味わった(その時の3~4名は後に、皆、東京藝大に受かっている)。私は当時、美術予備校の受験的教育に疑念を抱き、作画にも面白さを感じられなくなり、学校には半分も行かずに、新聞配達等をしているという落第生だった。それでも二浪の中盤以降、実力を発揮し、特に「鉛筆デッサン」では私に勝る人は一人もいなくなった。私の目には弱めであるが赤緑色弱の気があり、そのせいか、少しの苦手意識があった「水彩画(着彩)」も、やっと先の3~4名の秀才に並び、ようやく東京藝術大学に合格できたのだ・・・。
〈この辺りの学生時代からの経緯を本格的に話しだすと、長くなるので、また、いずれの機会に・・・。 本当は”芸術”とは、他者との競争や順位ではなく、自己の個性的・美の追求に他ならないのであるが・・・。〉

 藝大入学など簡単なものだと強がれど、実際には、そんなに簡単な事ではなかったのだね~。しかし、大学卒業後、絵だけで生きていく事は、その何十倍も、何百倍も、厳しい試練なのだと、その後、知る事となる・・・・。
 大学卒業後25年余り、私は、おおよそ天才とは程遠い、無名の貧乏画家として未だ世間に埋もれているが、それでいいのである。「芸術の神様は孤独な崇拝者を好む」と言う。本当の実力より、はるかに低い評価に長年甘んじ続ける方が、生活は実に苦しくはあるが、一人ひそかに努力・研鑽を続け、誠の芸術家になれるというものだ、・・・と自己を慰めつつ。本当の画家・芸術家など、大抵、そんな風に、世の中に地味に隠れて存在しているものである・・・。  

  絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁

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テーマ : art・芸術・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

2021-02-09

「男女平等の事案をめぐる、一画家の思い」後藤 仁

 今、世間では、コロナ禍による強力なフラストレーションを多くの人々が感じている中、オリンピック精神の男女平等や、世界中の人種不平等問題などが叫ばれています。私は画家(芸術家)ですので、基本的には絵画・芸術・文化関係以外の専門外の事柄は、あれこれ言わないように気を付けていますし、あまり確たる思想も有していません。
 しかし、語弊を生じやすく軽々には触れられない、このデリケートな事案ですが、多くの問題が噴出する現在、一弱小文化人としての立場からでも、何かしらの意志を発言しなくてはいけない時代なのかも知れません。・・・・・

               *

 私は、 2004年6月にインド関係者から「インド映画を見る会」に招待されて、衆議院内講堂へとおもむいた時に、同じく招待されていた、元内閣総理大臣・森 喜朗氏にお会いしました。私は若い一画家でしかありませんので、その時には、ご挨拶もせず、ただ遠くから眺めていただけです。その場には、元内閣総理大臣の羽田 孜氏と鳩山由紀夫氏も同席されていましたが、それらの政治家やインド人実業家達のご対応を見ていると、森 喜朗氏は、羽田 孜氏や鳩山由紀夫氏とは、一段も二段も異なる立場の御仁なのだと感じ取れました。会場に一足遅れて森氏が登場すると、周囲の空気に緊張感が走り、皆がその存在に敬意を払っていました。
 これと似た奇妙な経験は、2017年8月の「東京あこうのつどい」(都市センターホテル、千代田区)に東京都知事・小池百合子氏が来られた時くらいでしょうか。その時分は、「次の総理大臣は小池さんか・・・」などと取りざたされていた頃で、まさに今、勢いに乗る小池氏が登場すると、周囲には一種どよめきのような、奇妙な歓声に包まれました。私が小池氏にご挨拶をすると、小池氏は文化にはあまり関心が薄いと見えて、反応は鈍いものでしたが、会社の社長さんがご挨拶に来ると、とても喜んでいました。企業・団体の応援は、献金や票の獲得上、さぞ有利なのでしょうかね・・・。私は絵画・絵本文化を少しでも知ってほしいという思いで、拙作絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版こどものくに ひまわり版)を小池氏に見ていただきました。『わかがえりのみず』は、欲張って泉の水を飲み過ぎた おばあさんが、赤ちゃんになってしまうという、あの有名な昔話です。その内容は今の時代、考えようによっては女性蔑視とも取られかねないストーリーなので、小池氏にお見せしたのは、少々誤解を招かれたのではないかと思い返しています。そこに深い意図は無く、その時にはその絵本しか持っていなかっただけなのです・・・。『わかがえりのみず』などは、笑話に近い素朴な”昔話”とはいえ、今の時代にはすんなりとマッチしにくい習慣・価値観も多々あり、民話絵本の表現とは実に難しいものなのです~。
 話がそれましたが、その他にも、私は今までに、河野太郎氏の父で元衆議院議長・自民党総裁の河野洋平氏や、元参議院議長・法務大臣の江田五月氏や、元法務大臣の岩城光英氏や、中国大使・インド大使などの各国大使、国内外の区長・市長・町長さんなど、何人もの政治界その他、経済界・文化界の大物にもお会いしてきましたが、「インド映画を見る会」の時の奇妙な雰囲気を思い出すと、やはり、森 喜朗氏の政治的・経済的影響力は、幾多の政治家の中でも比類なく強大で凄まじいものなのだろうと察しました。
 そんな具合なので、実際に身近にいる関係者は、当然ながら、一言も意見や反論を言えないのが、常態なのでしょう。しかし、それでは、世の中は一向に良くなりませんよね~。

インド映画を見る会「インド映画を見る会」 元内閣総理大臣 森 喜朗氏、羽田 孜氏、鳩山由紀夫氏、作家 石川 好氏らが出席 (2004年6月4日/衆議院内講堂)

森喜朗氏「インド映画を見る会」 森 喜朗氏、ご挨拶

東京あこうのつどい「第4回 東京あこうのつどい」 東京都知事・小池百合子氏 (2017年8月4日/都市センターホテル、千代田区) 私の作画絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版こどものくに ひまわり版)と


 幼少期の私の家では、比較的おとなしい父よりも、母の方が断然怖くて強かったので、少なくとも男尊女卑的な雰囲気は皆無でした。それでも、どこか精神的には、やはり父の存在は一番大きかったように思います。
 高校生になり、大阪市立工芸高等学校 美術科に通うようになると、クラスの四分の三は女性でした。日本画はもちろん、現在の美術・イラスト・デザイン業界は女性の方がはるかに多いのです。
 東京藝術大学 日本画専攻は、当時、一学年26名の在籍者がいましたが、毎年、ほぼ男女半々でした。これにはからくりがあり、日本画専攻の受験者は8割方女性である上に、色彩感覚などは平均的に女性の方が良いとされ、普通に取ると女性ばかりになるので、合否が調整されていたと言われています。後年、これが問題視され、現在は成績通り取っているらしく、クラスはほとんど女性ばかりになっていると聞いています。
 若い頃は一般的に、女性の方がまじめに美術学校に通う上に、色彩感覚が平均的に良くて、水彩画・日本画などは早く上達すると言われています。男性は色彩感覚に劣る人が多いが、デッサン力は女性より勝るケースが多く、また、マニアックで凝り性の傾向があり、全体としては平均的には女性の方が優勢だが、ほんの少数の男性は極めて天才的に高い能力を示すとも言われています。
 これらの認識も、もしかしたら、長年の性差別意識によって、植え付けられた見解なのかもしれませんが、私の経験上、あながち遠過ぎる見方ではないのではないかと思うのです。つまりは、男女は人権的には当然、”平等”でなければならないのですが、その能力には、多少の得意不得意分野があるのです。それは、狩猟採集時代から、男は外に狩りに行き異民族とは戦い、女性は家で子供を育て家事をするという、動物的本能に基づいています。それで身体的には、男性は筋肉質で力が強く闘争本能も強くなり、女性は細やかで丁寧な作業ができるようになったのです。
 しかし、時は現在、文明社会に囲まれた中では、それらの区別もほとんど不必要になりました。そこで、男女が平等に社会進出して活躍できる、ジェンダーレスな社会を目指そうというのは当然の事です。しかし、そんな中でも、男女それぞれの得意なジャンルを最大限、活かそうとする工夫がなければ、物事上手くはいきません。何もかも”平等”と言って、何もかも同じ事を女性にもやらせると、逆に女性が苦しむ事にもなりかねません。私の子供・青年時代には、何か物を運ぶ時に先生などから、「おい、男子、女の子の荷物を持ってやれ!!」と命令されたものです。大人になった今でも、過酷な肉体労働は女性に代わって、たいてい男性がやる羽目になります。私は今の歳までに、多分、平均的な女性の数倍~十数倍の合計重量の物体を持ってきたと思います。そんな訳で、男や女の別ではなく、何事も、できる能力・体力の者がやるしかないのです。
 ついでに話せば、私は長年、「アジアの美人画」を中心テーマに女性像を多く描いてきましたが、現在の認識では「美人画」というカテゴリーさえ、女性蔑視だという判断がなされそうです。私は「美人画」を表面的な容姿のみならず、「心・精神性が美しい人を描く絵画」ととらえて描いています。男女平等をいくら進めようとも、多くの女性は多分、化粧文化をやめないと思います。やはり人は、男女の区別なく、本当に美しい女性を見ると、心が動くものなのでしょう・・・。

 十数年前から関わっている「絵本作家」の世界も、現在は女性が圧倒的に多い業界です。多分、総数の8割以上は女性だと思います。私が約7年前から一昨年末まで在籍した、絵本作家・画家・イラストレーターの団体・日本児童出版美術家連盟(童美連)も大半が女性です。生来、平均的・相対的には女性の方が発言力が強いので、数人のご年配のベテラン作家以外は、男性は常に押され気味で、男性作家の肩身が狭いようにも見受けられました。私は結構、何でも忌憚なく発言した方ですがね・・・。
 私は童美連での後半の3年間は理事を務めましたが、そこでの理事会は、森氏発言ではないですが、確かに、とても長いのです。理事の8割くらいは女性です。女性は、平均的にまじめで、数字や細かい部分に気が回るので、どうしても、とても長時間の会議になるのです。それは多分、正確・公正を期そうとする精神で、本来、悪い事ではありません。ただ理事の私達は、毎回の長い会議は大変でしたがね・・・。
 男性理事だけでしたら、大雑把過ぎて、細かい点を見落としがちですが、逆に大きな視点で長期的な発想をできるという点では、男性の方が優位だと思います。一番の問題点は、確かに男性の方が忖度が働きやすくて、年長者・権威者に迎合しやすいという難点でしょう。
 このように、「世の中、何でも”平等”に」とは言えど、男と女の身体的・性格的役割区別、得意不得意は、個人によってかなりの個人差があるにせよ、決して「何もかも男女同じにしないといけない」という訳にはいかない部分もある事を、忘れてはなりません。

 現在の童美連、ひいては、絵本作家界の場合、女性会員・理事が多過ぎて、逆にそれによる問題点も生じているように感じます。ただ、日本の政治・経済界から文化界の強い権威・権限のあるポストは、間違いなく、まだまだ女性が少な過ぎます。しかし、童美連のように女性が多過ぎても、元々、気弱で優しい男性の多い絵本作家界ですし、男性作家の方が明らかに可哀想に見える機会にも度々出くわす始末になるのです。
 何事も”平等”を基本とするならば、やはり、世の中の重要ポストは、5:5~6:4、4:6の男女比になるように、何かしらの調整をしていくしかないのでしょうね。もちろん、実力社会である日本画壇(美術大学を含む)や絵本画壇などの男女比は、総数や実力で偏るのは仕方ない事です。ただ、往々にして、後半生に実力を伸ばしがちな、天才肌ながら不器用で商売下手な男性日本画家・絵本画家などが、今後の世界で生まれにくくなる事は危惧されますが・・・。

               *

 今回は内容が複雑になり過ぎないように、今ホットな話題に乗っかって、主に美術界(日本画家・絵本作家)の”男女平等”についての思考のみ述べましたが、それは、人種・民族・国籍・思想・宗教・職業・年齢・貧富・障害者などの、どの差別にも通じる事です。
 私は変わり者の貧乏画家ゆえ、今までにも幾多の差別・偏見を受けてきました。中学・高校・大学時代の無視・仲間はずれという、いじめ的差別をはじめ、大人になってからでも、”絵”だけで食べていけない時期には(※ここで私の言う”絵”とは、日本画 本画・版画販売、絵本印税、大学・絵画教室講師をさします/売り絵と印税だけで食べていけるのが理想ですが、それは至難の業です)、学習塾講師や日雇い派遣労働などの副業をせざるを得ず、ずっと年下の正社員から何度も「おい、派遣!、ぜんぜん違うだろよ!」などと激しく罵倒された経験もあります(これは、会社名をはっきりと公表してもよい位の、社会的差別問題ですが・・・)。その他にも、私自身、多くの差別・蔑視を受けるという経験をしてきましたが、私の父も、多分、そのような差別的境遇によって、精神的に追い詰められ、自死に至ったのではないかと推測しています。
 あるいは逆に、知らず知らずに、また、どこかに意識があったり意識せずにも、今までに、私自身が差別的発言・行動をしてしまっている事は必ず多々あるでしょうから、自戒の意識は常に必要です。

 世の中、全くと言っていい程、不平等な世界です。各分野で多くの人々が、その是正に何かしらの心を砕くべきです。しかしながら、長年、民族差別を受けてきた民族が、一たび覇権を握ると、弱い立場の民族を虐げるケースなど、”逆差別”という形でやり返すような在り方が、実際に数多く存在しています。そこには永きに渡る歴史状況が横たわり、一画家などではどうしようもない、複雑で難しい問題ばかりです。男女差別の場合も、各ジャンル・集団内で、この”逆差別”に至らないように、十分に留意せねばなりませんね・・・。
 私は来し方行く末、「美術作品」という形でしか自己表現をしたくないのですが、人間の中に常在する様々な問題を、いつも頭の片隅で意識しながら、表現していかねばならないとは思っています。

  絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

後藤 仁 プロフィール

後藤 仁(JIN GOTO、后藤 仁、고토 진)

Author:後藤 仁(JIN GOTO、后藤 仁、고토 진)
~後藤 仁 公式ブログ1~
絵師〈日本画家・絵本画家、天井画・金唐革紙制作〉後藤 仁(JIN GOTO、后藤 仁、고토 진)の日本画制作、絵本原画制作、写生旅行、展覧会などのご案内を日誌につづります。

【後藤 仁 略歴】
 師系は、山本丘人(文化勲章受章者)、小茂田青樹(武蔵野美術大学教授)、田中青坪(東京藝術大学名誉教授)、後藤純男(日本芸術院賞・恩賜賞受賞者)。
 アジアや日本各地に取材した「アジアの美人画/日本の美人画」を中心画題として、人物画、風景画、花鳥画などを日本画で描く。また、日本画の技術を応用して、手製高級壁紙の金唐革紙(きんからかわし/国選定保存技術)や、大垣祭り(ユネスコ無形文化遺産)の天井画、絵本の原画などの制作を行う。
 国立大学法人 東京藝術大学 デザイン科 非常勤(ゲスト)講師(2017~21年度)。学校法人桑沢学園 東京造形大学 絵本講師(2017~18年度)。日本美術家連盟 会員(推薦者:中島千波先生)、日本中国文化交流協会 会員、絵本学会 会員。
    *
 1968年兵庫県赤穂市生まれ。15歳、大阪市立工芸高校 美術科で日本画を始める。東京藝術大学 絵画科日本画専攻 卒業、後藤純男先生(日本芸術院賞・恩賜賞受賞者)に師事。在学中より約12年間、旧岩崎邸、入船山記念館、孫文記念館(移情閣)等の金唐革紙(手製高級壁紙)の全復元を行う。
 卒業以降は日本画家として活動し、日本・中国・インドをはじめ世界各地に取材した「アジアの美人画/日本の美人画」をテーマとする作品を描き、国内外で展覧会を開催する。近年は「絵本」の原画制作に力を入れる。
 2023年、大垣祭り(ユネスコ無形文化遺産)天井画『黒龍と四つ姫の図』を制作奉納する。

○絵本作品に『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店)、『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)、『わかがえりのみず』(鈴木出版)、『金色の鹿』(子供教育出版)、『青蛙緑馬』(浙江少年児童出版社/中国)。挿絵作品に『おしゃかさま物語』(佼成出版社)。
 『犬になった王子 チベットの民話』は、Internationale Jugendbibliothek München ミュンヘン国際児童図書館(ドイツ)の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。また、宮崎 駿 氏の絵物語「シュナの旅」の原話になった事でも知られている。
○NHK日曜美術館の取材協力他、テレビ・新聞・専門誌・インターネットサイト等への出演・掲載も多い。

★現在、日本国内向けと、中国向けの「絵本」を制作中です~❣

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絵本ナビ「犬になった王子  チベットの民話」絵本ナビ「犬になった王子 チベットの民話」
絵:後藤 仁 /文:君島 久子 /出版社:岩波書店絵本ナビ


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