2021-02-25
「芸術的天才論」 絵師(日本画家・絵本画家)後藤 仁
若い芸術家が活躍をするのは結構な事である。今の時代、画家が生きていくのは本当に厳しい時代なので、なおさらである。ただ、実力の無い者をあまりに持ち上げ過ぎると、しばらくはその効果で食べていけたとしても、後に実力不足が露呈した時には、本人が一番、苦しむ事となる。現代の日本画家でも、ただ容姿が美し過ぎるとかで、テレビ・メディアが取り上げ、やたらと一時期もてはやされた画家がいたが、その作風は古典技法をなぞらえただけで、気持ち悪いものばかりを描くという特徴以外の個性は無く、彼女の実力には、私はかなり懐疑的である。
本当の天才とは、案外、平凡な外見をしており(ほとんどの場合、衣装・容姿等の見た目ではアピールをしていない)、特に若い頃はさほど目立たないものである。インスタレーションや即興的・パフォーマンス的作画はもうすでに数十年前から、現代アーティスト系の人が数多やり尽くしており、全く目新しいものでもない~。現在では、新たな芸術的表現手段が行き詰まり、奇をてらった行為や犯罪的行為や、しまいにはテロ行為こそが最大の芸術だ・・・などと言われる始末なので、この方向性では、芸術の未来はないだろう・・・。
私のようなちっぽけな画家は、一見普通にも見える、伝統を継承した正統的な作画技巧の中に、新たな芸術的個性や魅力を発現したい。
私の経験上、確かに東京藝術大学には天才的な人がいる事はいると思う。東京藝術大学の入学競争率は、私のいた当時(1990年頃)、「日本画」で約20倍(520名余り受験して、26名が受かる)、「油画(西洋画)」で約30倍、「デザイン」だと50倍位であり、他の科はそれ以下である。しかし、美術系の人なら誰でもが記念的に藝大を受ける場合も多く、実質的な競争率はこの半分以下であろう。そこに入るには、デッサン・水彩画・油彩画・平面構成 等を一定以上の高度な技術レベルで描けば良い訳で、そんなに難しい事ではなく、さほど天才である必要はない。
それでも「絵画科 日本画専攻」(当時は1学年26名)には、年によってもかなり異なるが、1学年に4~6名程の秀才的な人がおり、その中でも天才と言えそうな人は1学年に0~2名位は確かにいる。他の科には詳しくはないが、多分、天才的な芸術家はほぼ、「油画専攻」と「日本画専攻」に集中しており、まれに「彫刻科」にもいると思う。「デザイン科」は多方面への器用な適合力が問われるので、一芸に秀でた天才的芸術家は存在しにくい。「建築科」「芸術学科」は学力の高さが問われ、画力はあまり高くなくても受かるので、芸術的天才はほとんどいないだろう。
また、他の、多摩美術大学・武蔵野美術大学・東京造形大学・女子美術大学・京都市立芸術大学・愛知県立芸術大学 等の主要美大には、各学部の各学年に秀才はわずかにいても、天才は数年に1人位しか現れないだろう。案外、中途半端に美大等の専門機関に行っている人でない作家の中に、天才が埋もれている可能性もある・・・。
今回テレビに出ていた人は、確か、「東京藝術大学 建築科 入学」とか言っていたので、IQの高い建築系の数学的秀才・天才はわずかにいたとしても、絵画系・芸術的天才という事は、ほぼ考えられないだろう。
「アート(芸術)」と「アルチザン(職人)」は行ったり来たりするもので、お互いは相関関係にあり、本来、完全には切り離せないものである。西洋的現代アート思考では、二元論的に、より「アート」を独立させようと考えたが、東洋的思想では(西洋の伝統的芸術認識でも)、「芸術家」と「職人(技術者)」は表裏一体のものであるととらえる傾向が強い。つまり、東洋・日本の芸術家の基本姿勢としては、技術・技巧の追求は生涯に渡り途絶えてはいけないのだ。どんな天才的な素養があっても、若過ぎる頃にちやほやされ過ぎると、当然ながら、その作家は向上心を失い、凡庸な作家に終わるものである。たとえ天才肌でも、長年に渡る、人並外れた努力による”画”の研鑽がなければ、その真価を発揮できないものなのだ。
日本画家・伊東深水は、若い頃に”本の挿絵”が評判となり、売れっ子になりかけたが、師の鏑木清方が、「もう数年は挿絵から遠ざかり、地道に絵の研鑽を積むように」と諭したと言う。現代アーティスト・村上 隆さんなども、私の周囲の藝大生の中で、天才性を感じた数少ない作家の一人だが、学生時代から名をはせるに至るまでの、努力と芸術研究への執念には、並大抵ではないものがあった。
私が在籍した、東京藝術大学の最初のクラスには(私は2年生の終盤から、藝大生の芸術的意識レベルの低さにうんざりして、丸2年間も学校に行かずに自己研究を続け、2年留年となったので、結果、2クラスに所属している)、私以外では、2~3名の秀才的画家と1名の天才性を感じた人がいたが、いずれの人も今は残念ながら、”絵”ではほぼ頭角を現していない。藝大復帰後に編入した後のクラスには、秀才的な人こそ数名いたが、天才的な人は一人もいなかった。
作家人生には画力・感性・努力・天才性の有無の他に、多大な運と時勢等が作用し、親の経済力・社会的立場や住んでいる地域(親の代からの東京近郊在住者は何かと有利である)等にも大きく左右され、最終的には協調性やビジネスセンスの高い人が収入につなげられるので、天才・秀才というだけでは渡り切れない、誠に殺生な世界なのである。地方の庶民出身で、商売にも疎い、変わり者の私などは、最も不利な条件と言える。私も人に言えた義理ではないが、天才的な人は往々にして、社会性・協調性に欠ける場合も多く、藝大・美大生の周りを見回しても、案外、適当に要領のいい平凡な画家が現在まで生き残っているケースが大多数だ。それでも、東京藝大出身者ですら、1クラスに平均5~7名位しか、50歳代の今まで、まともに絵を続けられていないという、厳しい現状なのだ。
いずれにしても、どんな天才でも凡才でも、その後の長きに渡る芸術的研鑽は不可欠なのである。一生、「満足した」などという事はあり得ない。どんなに世間に評価されようと・されまいと、肩書・称号を与えられようと・与えられまいと、売れようと・売れまいと、有名になろうと・なるまいと、・・・そんな世俗には全く関係なく、一生、地道に、画道に精進する事しか、画家には残された道はないのである。







私も小学生から中校生の頃にかけて、「天才絵画少年、現る!」と学校や地元新聞 等で大いに噂され、大阪市立工芸高等学校 美術科では、「創立50年始まって以来の天才画家 登場か!」と期待された。当時は今ほどメディアが盛んでなかったが、あれが今ならば、さぞかしテレビやSNSで取り上げられ・持ち上げられていたかも知れないね・・・。
その後、高校卒業後に上京して入学した東京の美術予備校・立川美術学院では、日本画科講師の村上 隆さんらが率いる優秀な予備校生達に出会った。私は、関西風描写方法を東京風に修正するのにも時間を要し、その中の3~4名にはどうしてもかなわない日々があり、生まれて最初の芸術的挫折を味わった(その時の3~4名は後に、皆、東京藝大に受かっている)。私は当時、美術予備校の受験的教育に疑念を抱き、作画にも面白さを感じられなくなり、学校には半分も行かずに、新聞配達等をしているという落第生だった。それでも二浪の中盤以降、実力を発揮し、特に「鉛筆デッサン」では私に勝る人は一人もいなくなった。私の目には弱めであるが赤緑色弱の気があり、そのせいか、少しの苦手意識があった「水彩画(着彩)」も、やっと先の3~4名の秀才に並び、ようやく東京藝術大学に合格できたのだ・・・。
〈この辺りの学生時代からの経緯を本格的に話しだすと、長くなるので、また、いずれの機会に・・・。 本当は”芸術”とは、他者との競争や順位ではなく、自己の個性的・美の追求に他ならないのであるが・・・。〉
藝大入学など簡単なものだと強がれど、実際には、そんなに簡単な事ではなかったのだね~。しかし、大学卒業後、絵だけで生きていく事は、その何十倍も、何百倍も、厳しい試練なのだと、その後、知る事となる・・・・。
大学卒業後25年余り、私は、おおよそ天才とは程遠い、無名の貧乏画家として未だ世間に埋もれているが、それでいいのである。「芸術の神様は孤独な崇拝者を好む」と言う。本当の実力より、はるかに低い評価に長年甘んじ続ける方が、生活は実に苦しくはあるが、一人ひそかに努力・研鑽を続け、誠の芸術家になれるというものだ、・・・と自己を慰めつつ。本当の画家・芸術家など、大抵、そんな風に、世の中に地味に隠れて存在しているものである・・・。
絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁