2019-05-12
「夢二夜」~東京藝術大学、後藤純男先生と加山又造先生の思い出 後藤 仁
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2019年(令和元年)5月4日(土)。この日、随分久しぶりに、後藤純男先生と飲んだ・・・・・夢を見た。
何かの学校の団体国内旅行の設定で、大きな旅館(ホテル)に泊まっていた。自分の部屋の場所に迷って、狭い通路をたどると、たまたま庶民的な小さな食堂に紛れ込んだ。すると、そこで後藤純男先生が、食堂のおばさんに酒をついでもらいながら、一人で飲んでいた。後藤純男先生は、「ああ、仁さんですか~」といった感じで、私を席に招き、私は先生に焼酎をついでもらい、いただいた。最後は、かなり酔っぱらった、・・・・・という奇妙な話である。その時の先生はとても嬉しそうな様子であった。
しかし、私の夢は大概とてもリアルであり、今回も特に後藤純男先生と出会う場面は誠にリアルであった。本当に、夢で天国の先生に会ったのかも知れないな・・・。
私の師であり、3年程前にご病気で亡くなられた後藤純男先生は、日本を代表する十指に入る現代日本画家(昭和後期~平成時代)であり、東京藝術大学名誉教授、西安美術学院(大学)名誉教授、日本美術院(院展)同人理事・監事、日本芸術院賞・恩賜賞受賞者の巨匠である。一般的には、昔、ネスカフェゴールドブレンド「違いがわかる男」のCMに出演された事でも有名である。
10数年前までの先生がお元気な頃には、埼玉県や北海道・沖縄・那須のアトリエ兼別荘に度々おじゃまして、多い時には週に2回位のペースで、お酒を飲み、絵や旅の話等を聞かせていただいたものである。先生には私が知るだけでも、奈良にもう一つの計5か所の別荘アトリエが、千葉県の本宅以外にあるらしい。ただ、先生は通常、埼玉のアトリエに常駐していて、本宅には家族しか住んでいなかった。私は本宅と、奈良以外の別荘の5か所は訪れている。
今思うと、日本画がまだ昭和からの全盛期の最中(終盤であるが)でもあり、いい時代だったな~。先生のアトリエにはひっきりなしに、画商やら百貨店マンやら日本画家やら財界人やらが出入りしていた。何故か、政治的世俗を嫌う感のある先生は(政治的権力の強かった平山郁夫先生辺りに対する対抗心なのかも知れない)、政界人だけは晩年近くまでは敬遠していたようだが、晩年は多少の交流を持ち、旭日小授章の受章等につながったのだと思う。(後藤先生は名実共に文化功労者になる資格は十分にあったにも関わらず、結局、最期まで受けられなかったのは、政治との関わりを避けてきた事の影響が大きいと見ている。)
私が先生のアトリエに伺った時、たまたまお会いした人だけでも、西安美術学院の教授陣や、埼玉県警の警視正(当時、埼玉県内に確か4人しかいないとか)夫妻だとか、複数の百貨店(そごう、西武、東武 等)の美術部長だとか、様々なジャンルの大物がいた。警視正も先生の前では頭をペコペコ下げて、私にまでも愛想をふりまかれていた。デヴィ夫人がアトリエに来た時の、先生とのツーショット写真も置いてあった。銚子電鉄の社長とも親しく、かつて銚子電鉄 犬吠駅舎内に後藤純男美術館もあった。上富良野町とのご縁で、上富良野には巨大な後藤純男美術館が建ち、評価額20億円以上とされる作品群が上富良野町に寄贈された。また、読売巨人軍の長嶋茂雄氏は、後藤純男先生の作品の大ファンであるという。先生は、極めて広く深い人脈を持っていた。
そんな巨人的・超人的なご活躍を見せた屈強な先生も、病に倒れた。人間的にはワガママで自由奔放なお人であったが、事、”絵” ・ ”日本画”に関しては、誠に真面目で、とても素晴らしくて力強い作品を描かれた、まさに私の尊敬する師であった・・・・。
夢の中でも、あの頃のまま、ゆったりと自由気ままに酒を楽しむ先生のいらっしゃる、仙境のような光景に、誠に暖かい気持ちになって目が覚めた~。



5月6日(月)。今度は、加山又造先生が夢に現われた。先日の後藤純男先生に続き、日本画の超大御所が夢に出てくる・・・。しかし、後藤純男先生はこれまでにも、度々、夢に現れる事があったが(実物より20倍位も巨大なアトリエが出てきたりする)、加山先生が現われたのは初めてかも知れない。
夢の中で私は、大規模な日本画の「個展」を開催していた。すると、「この絵は院展みたいだな~」と言っている声が聞こえるので近づいてみると、加山又造先生だった。多分、前の画廊宮坂での「個展」で中島千波先生に似たような事を実際に言われたのが、夢では加山先生の言葉として現れたようだ。私はかつて、古い時代(30年以上前)の院展への憧れは持っていたのだが、今は長らく、そことは異なる領域・画法を模索してきたので、少し残念でもあったが、画題や描き方には、やはり院展の影響がいまだにあるのだろう・・・。
加山又造先生には、東京藝術大学の日本画合同研究会で少し教わっただけだが、実に印象深い先生だった。時々校内で会ってご挨拶すると、「元気ですか~」と、か細い枯れた声で答えてくれた。加山先生が東京藝術大学を退官された時の「加山又造 退官記念展」(東京藝術大学資料館)では、直筆サイン入りの図録をいただき、今でも大切に置いてある。
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私が東京藝術大学の受験時の面接では、平山郁夫先生、加山又造先生、後藤純男先生、福井爽人先生 他、10名余りの先生方が正面に居並び、窓の逆光を後光のように受けて、光り輝いていた。さすがにこの時は緊張したね~。
今思うと、あの頃が、明治時代から100年余り続く日本画黄金期の最後の時代であった・・・。明治以来、多少の盛り上がり下がりはありながらも、日本美術・芸術界の頂点を維持してきた日本画界。昔の人なら、横山大観、菱田春草、竹内栖鳳、上村松園、鏑木清方、小林古径、前田青邨、伊東深水 等といったら、ほとんどの人には通じたが、今の若い人では東山魁夷、平山郁夫までがギリギリであろう・・・。院展の平山郁夫先生も後藤純男先生も、創画会の加山又造先生も、日展の東山魁夷先生も高山辰雄先生も亡くなられた今、日本画界も東京藝術大学日本画教授陣も、昔ほどの偉大さはなくなった・・・。
しかし、時代の変遷で、アート・美術文化の中心が、現代アートや、更にはマンガ・アニメ・ゲームに移った今日でも、まだまだ日本画の輝ける道はあると、私は信じている。今の所、日本画界の権威だけは、高さを何とか保っているが、この先は分からない・・・。しかし、黄金期の再来とまではいかなくても、シルバー期位は、この後の時代にも演出できるのではないかと信じている。
個人的には、まだ日本画の勢いがあった頃に、巨人とも呼べる偉大な歴史的な日本画家に直接、お会いでき、学べた事は、何よりも私の宝なのである。
令和時代の始まりに、このような不思議なお二人の夢を見たというのも、何かの啓示なのかも知れない。私は、今後も、日本画の新しく輝ける方策を模索しながら、日々、画道に精進するしかないのである。
絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁