古来から「権力は必ず腐敗する」と言われ、宮崎 駿氏も「一つのジャンルが発展して最盛期を迎え、そして衰退して行くのにおよそ50年だ・・・。」と発言していました。私は「日本画」の世界で30年あまり生きて来て、それを実感しています。
江戸時代からの大和絵・唐絵・水墨画等を西洋絵画に比肩するものにするべく、明治初期に統合して「日本画」として確立してから100数十年。明治・大正・昭和初期の「日本画」は、志の高い者がしのぎを削り、多くの団体が出来ては解体し、統合し、また発生し・・・を繰り返しました。その荒波の中から、優れた日本画家が多く輩出されて来たのです。
しかし戦後、高度成長~バブル経済の中で、日本画団体は3つだけに統合され肥大化して行きました。
絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)
私は高校時代、元々大学に進学する気は無く、画家か、それが無理なら職人になりたいと考えていましたが、(どちらが上・下では無く、画家は仕事としてほとんど確立しておらず、職人の世界は厳しいですが仕事として成り立っています。)東京藝術大学の卒業生を調べると私の好きな作家が多く存在していました。また、中学時代よりNHK「シルクロード」の影響もあり、ミュージシャンの喜多郎や日本画家の平山郁夫先生にも高い関心がありました。
当時、平山郁夫先生は東京藝術大学の学長をされていました。「もし大学に行くなら、平山先生の元で中国の取材旅行をしてみたい・・・。」と純粋に憧れていました。また、私と同じ名字の後藤純男先生が教授におられるという事も知りました。高校時代から、後藤純男先生の風景画への憧れもあったのです。
大学進学自体には全く関心が無いので、私は東京藝術大学一本しか受験しませんでした。美術予備校の進学一辺倒の教育にも違和感を覚え、年間授業の半分位しか出席しない出来の悪い予備校生でしたが、それでも2浪して大学に受かりました。(特に1浪の時は、新聞奨学生をしながらの予備校通いだったので無理がありました。)
大いなる期待と憧憬をもって入学したので、美術高校の時と同じ様に、誰よりも早く大学に行き、誰よりも遅くまで制作に没頭しました。当時、東京藝術大学日本画専攻のクラスの26人中、間違いなく最も真面目に絵の勉強をしていたと言って良いでしょう。しかし2年生にもなる頃、大学生活にまたもや違和感を覚えて来ました。絵だけを学びたい為にわざわざ苦労してこの大学に入ったのに、周りから聞こえて来るのは、「どの先生に付いたら出世しやすい・・・絵なんか本当は好きでは無い・・・」等々の会話ばかりでした。それに伴う足の引っ張り合いも、私をうんざりさせました。最初の理想が高すぎただけに、失望も大きかったのです。若かった・・・と言えば、そうなのでしょうが、そういう意味では私は今だに若いままです。
こんな所は絵を学ぶ所では無いと、もっと自由な世界を求めて、2年生の後半から大学に行くのを止めました。私は方々をスケッチして回ったり、写真を独学で研究してみたり、詩作に耽ったり、自由人として生きたいと模索していました・・・。
2年近くそうした放浪生活をしていましたが、しかし所詮は大学生、多くのバイトをして来た苦学生とはいえ、大半は親の仕送りで生活しており、いよいよ限界が来ました。親不孝もいい加減にしろ・・・という事で、やむなく大学に戻るしかなくなりました。
何とか大学に戻ると、また同じ空気でしたが、憧れていた先生のお一人の後藤純男先生が3年生の担当になりました。先生は今でこそ絵が売れすぎて、一般常識を超えた生活になってしまっていますが、本当に絵が好きなのだなという事が感じられた、数少ない日本画家でした。幸いクラスには良い学友もおり、だましだまし大学を卒業しました。
しかしその頃、今までの人生で最も私を苦悶させる出来事がありました。大学の卒業間近の年末はクリスマスの頃に突然、父の訃報を聞きました。ビルからの転落事故という事ですが、警察によると自ら選んだ道であると聞かされました。(大企業によくある退職間際の過剰な人事異動による、うつが原因だと考えています。)これ程、親不孝の自分を恨んだ事はありません。その苦悶から一応解き放たれるまでに10年近い歳月がかかりました。2004年の「インド写生旅行」の際、ガンガー(ガンジス川)で沐浴をして、その刹那一応の心の整理がついたのですが、今でも思い出すと必ず涙があふれて来ます。
絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店)
そんな訳で、「日本画」は本来好きなのですが、どうしてもその団体主義・権威主義になじめず、最初こそ平山郁夫先生、後藤純男先生への憧れもあり、院展で学びたいという気持ちもありましたが、その内情を知ると、とても私が理想とする所では無い様ですので、無所属の路を選んだのです。(実際、仮に入りたいと望んでも、有力な先生に付いていないと絶対入れない仕組みなのですが。)
自由人の私はその選択が正しかったと思っています。今、団体で描いている人は、皆とは言いませんが、多くは先生・先輩と同じ様な絵ばかり描いています。没個性・類型化が進んでいますが、そうで無いと入選出来ない様ですね。確かにテクニック的には上手い人も多いのですが、本質的な絵としての面白味・魅力が感じられない作品も多いのです。絵の表現上の個性・自由を大切にしたい私としては、生活して行くのは大変ですが、自由に表現できる今の立ち位置が最も合っているでしょう。
私は権威化・形骸化・類型化が進み、絵描き・画商・評論家・一部のコレクターの為の絵のみを追求し、一般人の嗜好から乖離して行く今の日本画壇の現状を続けて行くと、必ず30年から50年もたてば、立ち行かなくなると予想しています。大衆迎合ばかりでも良くないのですが、大衆無視はもっといけません。また、売りやすいとされる「風景画」一辺倒の画壇で、「物語絵」「美人画」を描きたい私は別の路を模索するしかありませんでした。
そんな事に煩悶しながら、それでも旺盛に制作していた頃、福音館書店編集部から声がかかり、「絵本」の世界に果敢に飛び込みました。現在、「物語絵」のジャンルが実質的に生きているのは、実は「絵本」の世界しか無いのです。将来的には子供の為の「絵本」にとどまらず、青年・大人向けの本格的な「絵本」も手掛けてみたい。また、ゆくゆくは本格的な日本画で「絵巻物」等も描いてみたいと夢想しています。
既存の美術団体への加入を極力避けて来た私ですが、この年になると一人だけで闘っていくのもしんどくなって来ました。出版美術の世界に飛び込んだからには腹をくくって、この路でも精進して行くという自戒の念も込めて、この度、光栄にも浜田桂子先生と黒井 健先生のご推薦をいただき「日本児童出版美術家連盟(童美連)」に入会しました。「日本児童出版美術家連盟」は1964年に結成されたという団体で、私が子供の時から憧れて来た、いわさきちひろ、赤羽末吉、谷内六郎、滝平二郎、瀬川康男といった方々がかつて所属しており、現在も太田大八先生、村上 勉先生、黒井 健先生といった人気作家が多く在籍しておられます。
私などは絵本画家としては、まだまだ駆け出しですが、「権力は腐敗、衰退する」という50年を超えても、なお絵本界が一般の方々の支持を受け、より良く発展していく一助になれる様、日本画制作とともに切磋琢磨していく所存です。今後ともご教導の程よろしくお願い申し上げます。 日本画家・絵本画家 後藤 仁日本児童出版美術家連盟 公式ホームページ
http://www.dobiren.org/日本児童出版美術家連盟 公式ホームページ 「後藤 仁 リンクページ」
http://www.dobiren.org/sakuhin7.htm
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