2013-11-22
東北写生・絵本寄贈旅行にて(2013年11月11日~14日)
「東北写生・絵本寄贈旅行」(2013年11月11日~14日)
重い・・・今回の旅は、私の数多くの旅の中で、最も辛くて重たい旅になりました・・・・・
東北大震災があった直後から、現地の状況を絵描きとして取材しておかなければいけないという意識がありました。言い訳になってしまうのですが、その頃、私の絵本制作は佳境を迎えており、絵本の取材以外は全く時間的ゆとりが無い状況でした。また、ただの流行に乗っかった興味本位の物見遊山であってはならないという思考も働き、後の活動を構想しつつも、当時は絵本制作に集中していました。
ようやく絵本制作も一段落つき、絵本制作中に構想していた「東北絵本寄贈プロジェクト」も進行した今、いよいよ東北への取材旅行を決行しました。ただ、今回は4日という短い日程しか空けられませんでした。
11月11日、朝9時30分にレンタカーを借りて松戸を出発しました。(約10年間、日本中を一緒に旅した中古の愛車は、数年前に廃車になっていました。)東北自動車道を通り水沢インターチェンジを出る頃には夜になっていました。この夜は、岩手県大船渡市に向かう途中の道の駅・種山ヶ原の駐車場で車中泊です。その夜はことさら寒い夜でした。着れるだけの服を着込んで10時頃には寝たのですが、案の定、寒さで夜中に何度も目が覚め、朝4時頃には完全に起きてしまいました。多分、実質2~3時間しか寝ていないでしょう。
夜半過ぎから降り出した雪が、朝には薄っすらと積もっていました。朝食のパンを食べてすぐに大船渡に向かいました。海岸に着くと景勝地、「碁石海岸 穴通磯(あなとおしいそ)」をスケッチしました。この辺りは表面上津波の爪痕も無く、実に美しい光景が私を迎えてくれました。久しぶりの国内写生旅行にとても気分が良くなりました。しかし、この後状況は一変するのです・・・・。

次に津波の被害が相当大きかった所と聞いていた、陸前高田市に向かいました。
震災から2年半あまりというのに、町はすっかり跡形も無く平らな大地だけがありました。ブルドーザーやクレーン車があちこちで地面をならしていました。復興はまだまだ始まったばかりという事を実感しました。意図的に残してあるのか、まだ解体出来無いのか、最上階以外全て流されてしまったビルが一棟だけ残っていました。その他の建物はほとんどが取り払われてしまって何も残っていません。
私は「奇跡の一本松」と言われている、今はかわいそうな造木となってしまった松の木を描きながら、思わずこらえきれず涙があふれました。時々来る団体観光客の笑い声を聞き流しながら、しばらく静かにスケッチしていました。その間、色々な事が脳裏を去来していました・・・テレビの映像で見た、押し寄せる津波に怯え震えて親にしがみつく子供の姿が何度も浮かび、いたたまれない気持ちになりました。
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私は東北大震災があった2011年3月11日の夜に見た夢を、旅の道中も時々思い出していました。とても克明な夢で忘れようにも忘れられない夢です。あまりに奇怪なので、今までは家族にしか話した事がありませんでした。震災後、津波の映像が徐々に映し出され始めましたが、どうもその影響とも言えない内容の夢なのです。
11日の夜に見た夢・・・狭くて白っぽいシャワー室(私の家の風呂とは全く違います。)で、私がシャワーを浴びていました。すると、私の肩の上に肩車の様に人がのしかかって来ました。私からは顔の左右にある両足しか見えないのですが、どうも老人の足の様です。生きている人のものとは思えない、やせ細って青黒い色をした足でした。それが重くて重くて耐えきれなくなった時に、目が覚めました。私は起きた後もしばらく息が切れていました。現実の様にあまりにはっきりした夢で、今だにその夢は忘れません。私の思い込みにしか過ぎないのですが、震災の夜の夢でしたから、気味が悪いとかでは無く、私に対する何かのメッセージではないかととらえています。絵描き、後藤 仁よ、この苦しみを伝えるので何かを為せよ、という・・・・。
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重い心のまま、宮城県気仙沼市、南三陸町に向かいました。所々で目についた幼稚園・小学校に、絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』を一冊ずつプレゼントしてまわりました。少し早目の変なサンタさんです。

南三陸町で、10m近い崖の上にある学校が目に入ったので、「絵本」を贈ろうと行ってみました。すると、その中学校は閉校になっていました。津波の被害なのか地震の被害なのか、窓ガラスが壊れたまま放置されていました。校庭に仮設住宅と小さな図書館があったので「絵本」を寄贈しようとすると、町役場に話して下さいと言われました。南三陸町の学校には宮城県教育庁を通して「絵本」の寄贈をする話が進んでいたので、最初、南三陸町役所には寄らなかったのですが、このひどい惨状を見て、私は道を引き返して南三陸町役所に行きました。そこはまだ仮設の施設でした。南三陸町教育委員会の人に会って南三陸町の幼稚園・小学校への絵本寄贈の約束をしました。(旅の後、30冊の「絵本」を贈りました。)
その後、石巻市から仙台市に向かいました。もう既に暗くなって来ていましたが、今日、宮城県教育庁の方と会う約束をしていたので急ぎました。普段の写生旅行では田舎の美しい風景をスケッチするのが目的なので、なるべく都会は避けるのですが、今回は都会に向かうので大変です。夕方の渋滞に巻き込まれました。4時半過ぎに会う予定が、宮城県庁に着いた時には6時過ぎになっていました。しかし担当者の方はおられて、無事、宮城県内の学校への100冊規模の絵本寄贈の話を確認出来ました。
飛び越して来た松島を、翌日取材したかった私は引き返して、奥松島の辺鄙な駐車場で車中泊しました。昨日よりは随分寒さも和らぎました。取材旅行中の夕食はいつもカップラーメンとパン位です。運転しながらパンをかじって昼食を済ます事も多々あります。夜中に目が覚めて夜空を見上げると満天の星空でした。こんな海岸沿いでも東京で見る夜空と違って、こんなにも美しい事に驚きました。真夜中にバイクのけたたましい音で安眠を妨害されながら、この夜も実質4時間位の睡眠時間でしたでしょうか。
次の日、朝4時位に起きた私は、すぐに牡鹿半島をめざしました。ここはかつての取材旅行でも訪れた場所です。しかし、今回は半島の突端の御番所公園までは入れませんでした。今だに地震の被害で道が通れないのです。
石巻市で前に絵本寄贈でお世話になった石巻市役所の方にご挨拶をして、奥松島に戻りました。奥松島の野蒜海岸(のびるかいがん)でたまたま真言宗宮城県青年部の東北大震災供養法要が大々的に行われていました。その模様をスケッチしながら、今はあまりにも穏やかで美しいこの海岸でも、多くの方々が亡くなられた事実を感じていました。

奥松島の大高森「壮観」からスケッチしました。かつての旅でもここからスケッチしたのですが、表面上はその時と変わらず、美しいままの松島の景観がありました。
松島を出た私は、前の絵本寄贈でお世話になった名取市役所にも軽くご挨拶に伺って、その後、一路福島に向かいました。福島市では絵本寄贈でお世話になった「福島ひまわり里親プロジェクト」の方と会う約束がありました。もう既に日は傾き暗くなっていましたが、またもや渋滞に巻き込まれました。福島市に着いた時には夜の6時半過ぎ頃だったでしょうか。体力には比較的自身のある私ですが、さすがの強行スケジュールに結構な疲労感を感じていた私は、「ひまわり里親プロジェクト」の方とお話しをして、すぐに今夜宿泊する駐車場を探そうと考えていました。しかし、その方は私に福島の現状をつぶさに訴えられました。連れて行かれた福島市内の公園には、放射線汚染土が山の様に積まれていました。その日は夕食に呼ばれて夜遅くなりましたので、宿に泊まりました。
次の日、朝7時頃に宿を出て、福島の海岸沿いの放射線汚染地域に向かいました。途中途中で見かけた小学校に「絵本」をプレゼントして行きました。大抵は少々怪訝な顔をされるのですが、とある2カ所の小学校の校長先生は暖かく迎えてくれました。感激です。

浪江町のガソリンスタンドで給油するついでに街中を少し回ってみました。そこは異様な空間でした。シュール・・・まさにシュールの骨頂です。地震の後そのままに、時が止まったかの様に、何もかもがあの時のままでした。子供達が通った学校、人々が行きかった駅、親子が楽しい歓声を上げていた公園・・・全てがそのままで、草だけが生い茂って静まり返っています。復興関係の車両が時々通る位で、住んでいる人はもちろん、道を歩く人など全くいません。
まさに「廃市」・・・死んだ町です・・・。
帰路の途中、国道6号から海へ延びる道に入ってみました。ほとんどの家は津波で流され、礎石しか残っていません。海際の巨大な堤防は、見事に破壊されていました。津波の威力の凄まじさを感じました。今は穏やかな海をひとり見つめていると、あの日、巨大な壁となって押し寄せて来た津波が瞼の裏にはっきりと映し出されました。私は身震いしました・・・・。








旅の肉体的疲労に加え、衝撃的な光景の数々に打ちのめされて、精神的にも疲労困憊の私は、無力感のまま福島を後にしました。
福島西インターチェンジから東北自動車にのって東京に向かいました。道中、頭の中に色々な光景が走馬灯の様に浮かびました。荒廃した街並み、倒壊した建物、ひっくり返った車、崩壊した堤防、・・・泣き叫ぶ子供の映像・・・押し寄せる津波・・・・。
東京近くで大きな渋滞に巻き込まれ、松戸に着いたのは夜の8時でした。レンタカーの返却時間を30分過ぎてしまい、小言を言われながら追加料金の1000円を払いました。
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今回の旅は、私の幾多の旅の中でも最も辛くて重いものになりました。震災から2年半以上たった今でもこれだけひどいのですから、震災当初の凄まじさは、人知をはるかに超えた地獄絵さながらだった事でしょう。東北の復興はまだまだ始まったばかりです。日本中、いや、世界中、私が知るよりはるかに多くの、辛く厳しい環境を余儀なくされている人々、子供達はたくさんいる事でしょう。
一人の作家のあまりにも無力な事を、改めて思い知らされる旅でしたが、この経験を踏まえて、今後私は絵描きとして何を為すべきか、今まで以上に真摯に向き合っていかなければならないと決意を新たにしています。
今回、持参した60冊の絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』の全てを寄贈しましたが、今後も「絵本寄贈プロジェクト」はずっと継続していこうと考えています。(現在までで、合計800冊以上の「絵本」を寄贈して来ましたが、これで終わりと言う限りはありません。)また、もっともっと切磋琢磨して良い作品を描き続け、世の中に伝えていかなければいけません。東北写生旅行も来年以降、度々計画していこうと考えています。ちっぽけな一人の絵描きですが、やるべき事はまだまだ山ほどあるのです。
日本画家・絵本画家 後藤 仁