2013-04-26

「後藤 仁 公式ホームページ」を始めました!!

 後藤仁公式ホームページ「後藤 仁(GOTO JIN)のアトリエ」を開設しました!!

 日本画・絵本原画作品や金唐革紙作品の貴重な画像や解説が、たくさん掲載してあります。当ブログとともに、お楽しみ下さい。よろしくお願い申し上げます。 後藤 仁

   「後藤 仁(GOTO JIN)のアトリエ」    
        http://gotojin.web.fc2.com/





 「絵本原画展」 は、5月1日までです。27日の1時~2時頃には、私も会場にいる予定です。お近くの方は、ぜひ、お越し下さい。よろしくお願い申し上げます。 後藤 仁
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テーマ : お知らせ
ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-04-22

後藤 仁 絵本原画展 開催中

 「後藤 仁 絵本原画展」が昨日、21日から始まりました。雨模様の寒い一日でしたが、サイン会には多くの方が来廊して下さいました。ブログにても、御礼申し上げます。
 知っている方初めてお会いする方、多分50名以上の方が2時間の間に来廊され、サイン会に並んでいただき、うれしい限りです。
 27日(土)の午後1時から2時ごろには、私も会場にいる予定です。会期は5月1日までですので、お近くの方はぜひお越しください。よろしくお願い申し上げます。

 これから岐阜県の絵本美術館や、都心でも大きな展覧会を開催していく予定ですので、楽しみにしていて下さい。 後藤 仁


後藤仁絵本原画展「後藤 仁 絵本原画展」会場  © GOTO JIN

絵本原画展花「福音館書店」から贈られた花。どうも有難うございます。 © GOTO JIN

テーマ : 展示会、イベントの情報
ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-04-21

「絵本原画展」が、始まります!!

後藤 仁 絵本原画展が、今日から始まります。
 本日、21日から「絵本原画展」が始まります。昨日の夜、展示を終えたところです。
 本日は「サイン会」もあり、私も会場にいます。天気が悪そうなのが気がかりですが、お近くの方は、ぜひお越しください。展示会場はそれほど広くはないのですが、『チャンファメイ』の原画の初展示ですので、楽しみにしていて下さい。
 これから、各地で展示巡回していく予定です。東京以外の方にも見ていただける機会があるとうれしいです。 



〜 絵本出版・日本画画業30年記念 〜
  後藤 仁 絵本原画展
2013年4月21日(日)〜5月1日(水)  AM10:00〜PM7:00      
        期間中無休・入場無料
《後藤仁サイン会:4月21日(日) PM 1:00〜3:00 》 
  後藤仁の絵本や色紙などをお持ちください。

「いしど画材」
〒277-0005  千葉県柏市柏1−4−5−4F
             (JR・東武野田線 柏駅東口より徒歩1分)
    TEL 04-7167-1410    http://www.ishidogazai.net       
                *

 15歳で日本画を始めて30年あまりの歳月が流れました。永年「アジアの美人画」をテーマに、日本やアジアの女性などを描いてきました。
 この度、絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店)の出版と日本画画業30年を記念して、絵本原画20点と、美人画・花などの日本画作品7点にて展覧いたします。
 ぜひ、ご高覧いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

 〔主催〕
   いしど画材
   日本画家 後藤 仁 (東京藝術大学日本画専攻卒業。後藤純男門下)
 〔後援〕 
   日本中国文化交流協会
    http://www.nicchubunka1956.jp/
 〔協力〕
   福音館書店   
    http://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=2519


トン族琵琶歌~チャンファメイ日本画「トン族琵琶歌~チャンファメイ」後藤 仁 © GOTO JIN

テーマ : 展示会、イベントの情報
ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-04-16

絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』出版までの永き道のり その4

 絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』の話の採集地は、再話の君島久子先生(日本における中国民話研究の第一人者、国立民族学博物館名誉教授)によると、中国の広西チワン族自治区のトン族村だそうです。元は、中国の著名な民話研究家の肖甘牛(簫甘牛)氏が現地で採集し、1955年に少年児童出版社(中国)から『長髪妹(チャンファメイ)』として発表したのが最初だと思います。その後、「中国民間故事選 第一集」(人民文学出版社 中国・1962年)に載ったものを、君島先生が翻訳されて日本で最初に紹介されたという事です。
 話の採集地は広西チワン族自治区ですが、トン族文化の中心地は貴州省ですので、今回の取材も貴州省を中心に行いました。

車江 車江 中国のトン族村で二番目に大きな鼓楼 (2008年4月22日) © GOTO JIN

 2008年4月22日に車江(しゃこう)に向かいました。途中の山々ではミャオ族の美しい棚田が目を楽しませてくれました。
 22日から23日までトン族の村、車江を見て回りました。この村には、中国のトン族村で二番目に大きいという「鼓楼(ころう)」が建っています。トン族は木材加工に優れた民族で、トン族村には必ず「鼓楼」と「風雨橋(ふううきょう)(花橋ともいう)」があります。「鼓楼」は元々上部に太鼓が掛かっており緊急時に鳴らしたそうですが、現在では太鼓は無い場合が多く、トン族のシンボル的存在で主に社交場として活用されている様です。「風雨橋」は屋根の付いた立派な橋です。
 大昔、トン族やミャオ族は長江下流域に住んでいたらしく、漢族などに追われて山奥のこの地に逃れてきた歴史があります。その時、海に逃れて沖縄辺りを通り日本に来た人々がいるという説があり、日本人のルーツの一つではないかと考える民族学者もいるそうです。確かに、私が見たトン族・ミャオ族は日本と相当近い文化を持っていますし、顔立ちも似ています。通常、中国人はもち米を好まないそうですが、この辺りのトン族などの民族は、もち米を好んで食します。納豆を食べる民族もこの辺りの地域だけです。雲南省・貴州省から日本までのこの一帯の文化を、照葉樹林文化圏という学者もいます。

 車江では、物語に出てくる榕樹(ガジュマル)の木をスケッチしたりしました。この辺りの榕樹は、沖縄やバリ島などで見られるものの様に幹が細かく分かれたり垂れ下がったりしておらず、太くて力強い幹をしています。
 この車江辺りまでは公共交通機関でも行けるのですが、ここから先はチャーター車でしか行けない地域です。私が最も訪ねたかった「増衝村(ぞうしょうそん)」です。

増衝村1 増衝村 1672年建立の最古の鼓楼 (2008年4月23日) © GOTO JIN

増衝村2 増衝村 全景 (2008年4月23日) © GOTO JIN 

 23日の朝に車江を出発しました。
 車で脇道に入って行き、かなり険しい道を進みました。通常はジープのような四輪駆動車でないと行けないらしいですが、私達の車は見た目は普通乗用車でした。「大丈夫かな・・・」と思いましたが、その大きな中国製の乗用車は、思った以上にパワーがありました。前日の雨でぬかるんだ朱土色のどろどろの悪路を疾走しました。車一台がやっと通れる狭い道の、左は崖で右は谷底です。落ちたら命はありません。すれ違う車は1~2台だけで、人も全くいません。
 3時間あまりも走りようやく村が近付いて来た様で、馬を引いた若者とすれ違いました。ところが、村まであと数百メートルという所で、タイヤが泥でスリップして、車が完全に進めなくなりました。仕方ないので車を置いて歩いて村に入りました。

 増衝村は、まさに桃源郷でした。私は目を疑いました。夢を見ている様でした。・・・そこには日本の百年前を彷彿とさせる風景が広がっていました。今まで多くの日本の辺境地やアジアの村々を見て来ましたが、これ程、古のなつかしさを感じた所はありません。
 村には最古の鼓楼が立っています。1672年建立だそうですが、火事に弱い木造建造物なのでなかなか古いものは残らないそうです。鼓楼も一般家屋も全て杉の木材で作られていますが、釘は使わず木を組むだけで建てています。
 高台から見た村の全景も素晴らしいです。曲がった川に挟まれたわずかな平地に村は作られています。私の『絵本』の最初の場面の遠景に、この増衝村を描いていますので、探してみて下さい。
 村では、ブタやニワトリが放し飼いにされ、あちこちで糸車をまわす光景が見られ、子供達が元気に遊んでいます。人々の衣装は、ズボンはジーパンの人もいますが、だいたいは民族衣装を着ています。
 ただ、高台から見る角度を変えると、多くの屋根の上にパラボラアンテナが見えました。「ああ、ここにも現代文明の波は押し寄せているのだな。」と感じました。これは、旅行者の勝手な願望で、自国も便利な文明を受け入れかつての美しい光景を手放して来たのだから何も言えないのですが、この様な美しい光景が永久に変わらずにあって欲しいと願わずにはいられません・・・。
 私はスケッチしながらも、この美しい光景にしばし見惚れて、涙が出そうになりました。

 夜は、トン族の民家に宿泊しました。今宵の外国人はこの村に私一人です。よほどこだわりが無い限り、観光客が来る所ではありません。(今後は道が良くなり観光客が増えるかもしれませんが、これも旅人の勝手な願望ですが、出来れば団体客で押し寄せる日が来ない事を祈りたいです。)夕食はトン族料理です。ここでは高級品である肉はあまり出ず、野菜・山菜が中心でお腹にも優しかったです。ようやくお腹の具合も快方に向かっていました。
 トン族の家の構造なども内部から観察しました。天井板は基本的に無くて、屋根瓦が部屋から見えます。壁も床も窓枠も全て杉の木で出来ていて、歩くとギシギシと良い音がします。
 トイレはどこかと聞いたら、小は家の裏の側溝にしてくれという感じです。大はというと、家の子供の案内に連れられて数十メートル行くと、川の縁に作られた小屋の様な共同便所がありました。出した物はそのまま川へ落ちて行くシステムです。トイレの前面には申し訳程度の扉があるのですが、上からは丸見えでした。
 ドライバーの黄(ホワン)さんは、車が盗まれると言った身振りで、車に戻って車中で寝るらしいです。「こんな平和に見える村でも、やはりそんなものなのかな~。」と思いました。

 夜は木のベッドで寝ました。この日はとても心地良い眠りに落ちて行きました・・・。

  この続きは、また次回としましょう。  GOTO JIN

テーマ : 絵本・制作・イラスト
ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-04-11

「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その9


入船山実演
 「入船山記念館」金唐革紙講習会 (2001年8月3日) 後藤 仁 © GOTO JIN

 「旧岩崎邸」の仕事の後は、2001年8月の「入船山記念館」の講習会などのイベントや、小さな雑用仕事がたまにあるくらいでした。
 2003年に入り、『金唐革紙展』をするから作品製作と展覧会準備に来てくれとの打診がありました。「紙の博物館」という金唐革紙や版木棒の収蔵もしている紙関係専門の博物館で開催すると言います。
 私とI君とで、展覧会出品作品の金唐革紙衝立・屏風などを製作しました。その他、備品の調達や作品題名の整理まで全ての展示準備をしました。準備が整うと、「紙の博物館」に作品搬入をして展示作業までかかわりました。

屏風製作
 金唐革紙 衝立製作 (2003年3月) 後藤 仁 © GOTO JIN

紙の博物館
 「洋館を彩った金唐革紙展」紙の博物館 (2003年5月4日) 後藤 仁 © GOTO JIN

紙博実演
 「洋館を彩った金唐革紙展」紙の博物館 製作実演会 (2003年4月6日) 後藤 仁 © GOTO JIN

 2003年3月18日~5月25日「洋館を彩った金唐革紙展」(紙の博物館・東京都北区王子)が開催されました。紙の博物館の新館開館5周年記念展でもあり多くの来館者が訪れました。
 途中、テレビの取材もありました。テレビ東京「世の中ガブッと!」(2003年5月4日放送)という番組で、司会は女優の高木美保さんとお笑いコンビのエネルギーです。私とI君が実演製作をしてエネルギーの2人が製作体験をするという内容でした。
 その後も、NHK「首都圏ネットワーク」の取材が入り、2003年7月1日と2005年5月26日放送分で金唐革紙の製作実演を披露しました。番組では経営者が製作している場面が放映されましたが、実際は私が製作した後、放送部分のみ経営者が打ち込みをして撮影しています。
 『金唐革紙展』も私がいた時だけで、「フェルケール博物館」(静岡県静岡市)、「旧岩崎邸庭園」「呉市立美術館」「入船山記念館」「小津和紙博物舗」「OZONE新宿」「銀座一穂堂」などの各地で開催され、私が中心となって作品製作・搬入展示・製作実演をしました。
 この様にして、『金唐革紙』の世間での認知度も上がっていきました。

江戸東京博実演1998.10.
江戸博実演2
 「江戸東京自由大学 金唐革紙講座」江戸東京博物館 (1998年10月4日) 後藤 仁 © GOTO JIN

旧岩崎邸実演1
 「旧岩崎邸の華そのデザイン展」旧岩崎邸庭園 製作実演会 (2003年11月15日) 後藤 仁 © GOTO JIN

旧岩崎邸実演3
旧岩崎邸実演4
 「旧岩崎邸庭園と金唐革紙の世界展」旧岩崎邸庭園 製作実演会 (2004年11月13日) 後藤 仁 © GOTO JIN

小津和紙
 「金唐革紙展」小津和紙博物舗 (2004年3月27日) 後藤 仁 © GOTO JIN

OZONE
 「金唐革紙展」リビングデザインセンターOZONE新宿 (2004年11月30日) 後藤 仁 © GOTO JIN 

フェルケール博物館
 「明治の洋館を飾った金唐革紙展」フェルケール博物館 (2005年9月23日) 後藤 仁 © GOTO JIN

 これらの功績が認められ、2005年には研究所を代表して経営者のみが「国選定 保存技術保持者」に選定されました。これは、人間国宝(重要無形文化財保持者)の近代製品版の様なもので、社会的には結構な権威のあるものです。申請すれば、毎年108万円位までの補助金が国から支給されます。ただし、この支給目的は後継者の育成であって、私的に用いる事は本来禁止されています。
 この選定式・セレモニーにも私達は呼ばれず、もちろん金唐革紙の何の肩書も無く、金唐革紙製作者としての名前は抹消されたままでしたが、『金唐革紙』を製作したのは本当は私達だという自負だけがありました。(元々、私はあまり肩書にはとらわれない人間ですが・・・この極端さは、理解しかねます。)

           *

 多くの研究所の問題点を見てきた私は、2006年とうとう限界に達して研究所を離れました。『金唐革紙』の製作自体には面白味も感じ、自分がやらなければ他にやる人がいないという責任感も強かったのですが、今後は自分の日本画制作のみに打ち込もうと決心しました。そうすると、不思議と気分が軽くなりました。今まで何か相当重く暗い物が私にのしかかっていた様です。

 私が研究所をやめた後も私が当時製作した作品を使用して、「大英博物館」「ヴィクトリア&アルバート美術館」(イギリス)や、「紙の博物館」などで度々『金唐革紙展』が開催されましたし、テレビ・新聞・雑誌出演も多くあった様です。研究所には唯一経営者に合わせる事ができたI君が残り、しばらくは多少の復元製作はやっていた様ですが、私が抜けた研究所はもはや中心を欠いた抜け殻の様なもので、実質的な製作体制・活動は終了していました。現在では、私達の残した作品を使って講習会などのイベントを時々やっている様です。
 近年になって経営者は春の叙勲で旭日双光章を受章したそうです。それらの輝かしい建て前の名誉の裏には、私達若者の努力があった事を世間の人々には忘れないでいて欲しいのです。




  〔後書〕 
 私が金唐革紙の研究所を離れた大きな理由は3つあります。まずは、本業の日本画の制作に専念したかった事。2つめは、実質的にはほとんど私達若い者2~6名位が金唐革紙製作をしていたにもかかわらず、外部には経営者が一人で全てを製作しているという形で喧伝されていたという不条理。3つめは、経理・運営を一人で手掛けていた経営者が、「研究所発足当時から長年不正経理を継続しており、巨額の脱税をしている。」という経営上の法的不備の告白をした事によります。
 現在でも、金唐革紙の現存する各施設では、『金唐革紙』の製作者は研究所経営者のただ一人のみとされていますが、一人で出来る規模の仕事ではありません。当時、研究所の経営者は実質的製作にはほとんど参加せずに、企画・経理等の研究所経営のみを行っていました。 「旧岩崎邸庭園サービスセンター」や、その監督所の「東京都公園協会」、「孫文記念館」、「入船山記念館」、「紙の博物館」などのいずれも私達数名が実質的な製作をした事を把握していますが、現在の日本では経営者(出資者)と発注者の権限が強く、実際苦労して製作にたずさわった人の権利はまだまだ低いのが現状です。
 それぞれの施設で、製作者の名前を全て正確に記載していただける日が来る事を願っています。その様な公平な日が来る事が、製作者側の唯一の望みです。 

 私にとって『金唐革紙』は、良き仲間と製作に打ち込んだ若い頃の思い出ですが、また、美術界の色々な矛盾や疑問を感じた場所でもあります。
 詳しい問題点を最初はこのブログにも書いていたのですが、挙げていけばきりが無いほどの研究所経営の不祥事が出て来てしまいます。(私をはじめとする当時の若者達は、経営には一切関与していません。純粋に製作のみ行っていました。)個人のプライバシーを考えると例え違法行為であっても、伏せておいた方が良いのだろうと判断しました。そこで、過去の事をとやかく言うより未来へ向けて頑張っていこうと考え、あまり個人的な問題点は削除しました。

 私達若者が奮闘する事無しには現在復元されて残っている『金唐革紙』も一切存在しなかったという事実を知っていただき、将来は今よりもっと公平な形で『金唐革紙』の公開がなされる事を望みます。今後は各施設でも製作者の名前を正確に公表する・・・作家としては、今はただそれだけの簡単な事をお願いしているだけです。そして将来のより良い日本文化の発展へとつながっていく事を切に願っています。
 現在の私は日本画・絵本原画制作で忙しいのですが、将来もし『金唐革紙』の復元製作の必要が生じた時には、次の若者達に正確な製作技術を伝える為に『金唐革紙』の技術保存などを心掛けています。(今の研究所が将来存続していたとしても、更に形骸化している事は目に見えています。)ただし、その時にはかつての研究所の様な間違いを繰り返さないように努めなければいけません。

 このブログを見られた方でご賛同下さった方がおられましたら、今後ともご支援の程よろしくお願い申し上げます。

(※最近、かなり多くの私の支援者やファンの方が、「旧岩崎邸庭園」「入船山記念館」等の販売コーナーの金唐革紙しおりや金唐革紙の本を、私の為になると思われて購入されている様です。お気持ちは有難いのですが、現在私は金唐革紙の研究所を完全に離れており、購入された収益は全て研究所の経営者のものとなっています。もし、私の為のご購入でしたら、金唐革紙グッズではなく、私の『絵本』作品などをお求め下さいましたら有難いですので、よろしくお願い申し上げます。)
       
   2013年4月   日本画家・金唐革紙保存会  後藤 仁

テーマ : 伝統工芸
ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-04-08

「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その8

 『旧岩崎邸』金唐革紙の「シルクスクリーン彩色」は、ひどい猛暑となった2001年7月から8月に行われました。
 いつもの作業部屋では臭いが充満するので、今回はマンション屋上の小屋を借りての作業となりました。古いエアコンは付いていましたが換気の為ドアは開け放してあり、あまり冷えません。私とI君の2人でほとんどの製作をしましたが、シルクを洗う為にどうしても3人いないと効率が悪いのです。無理を承知でN君に頼み仕事の空いた日に来てもらいました。また、I君が夏風邪で一週間ダウンした時は、代わりにYさんに応援を頼みました。ちなみに私は週5日、二か月弱の間、一日も休みませんでした。
 「シルクスクリーン彩色」は簡易ガスマスクを付けての作業ですので、とても暑苦しく息苦しいのです。今回はこの暑さが一番の敵でした。一日終わると、軽い熱中症の感じになり頭がボーッとしました。

           *

旧岩崎邸金唐革紙2
 旧岩崎邸 金唐革紙 箔無し(2001年7月) 彩色が終わった所 © GOTO JIN

旧岩崎邸金唐革紙1
 旧岩崎邸 金唐革紙 箔有り(2001年7月末) 搬入の準備 © GOTO JIN

旧岩崎邸搬入
 旧岩崎邸 金唐革紙 搬入(2001年7月30日) 手前の車は、今は廃車となった私の愛車です。 © GOTO JIN

旧岩崎邸搬入2
 旧岩崎邸 洋館(2001年7月30日) 壁紙が貼られる前の部屋の状態。 © GOTO JIN

 この様にしてようやく2001年7月末、『旧岩崎邸』の金唐革紙2種類が完成しました。2001年7月30日、「旧岩崎邸」に私のぼろい中古車を使って直接搬入しました。

 この復元事業は、「移情閣」に次ぐ規模で「入船山記念館」とは同じ位ですが、東京にある岩崎家(旧三菱財閥)の有名な別邸を国の依頼で復元するという大きな価値がありました。
 この事業で、国(文化庁)から金唐革紙の研究所に支払われた報酬(元は税金です。)は推定ですが、一億円弱位でしょう。ただ、私達は変わらず1000円あまりの時給労働者のままでした。

 この後、「金唐革紙展」やテレビの取材などがにわかに増えてくるのですが、それらについては、また次回といたしましょう。   後藤 仁

旧岩崎邸 内装3
 復元後の「旧岩崎邸」洋館2階・箔無し(2003年1月) 後藤 仁  © GOTO JIN 

テーマ : 伝統工芸
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2013-04-07

「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その7

 こうして、ようやく今までで最大規模の「移情閣(孫文記念館)」の『金唐革紙』の復元事業が終わりました。
 正式報告書は見れなかったのですが、「入船山記念館」との規模の比較や金唐革紙の単価から推測してみました。約400枚の金唐革紙の内、約250枚は2枚の和紙を合紙した通常品(一平方メートルで約20万円)で、残り約150枚は後半になってから追加注文を受けた「移情閣」の階段部分の金唐革紙で、楮紙一枚で出来た少し安価な品です。楮紙一枚ですので材料費が安くなるのと、「打ち込み」も早く出来るので安く抑えられるのです。といっても、一平方メートルで15万円位はします。私の計算では、「移情閣」の金唐革紙復元で兵庫県から研究所に支払われた報酬(元は税金です。)は、約1億1000万~1億5000万円に上ります。といっても私達は変わらず、時給1000円余りの労働者でした。
 その上やっかいな事には、「入船山記念館」が終わると一年以上の休止に入り、「移情閣」の後も半年の休止に入りました。その他にも時々1~2か月の休止をはさみます。仕事がある時はまだ良いのですが、休止の期間は貯金暮らしとなり心細い毎日でした。(ただ、この休止期間に自分の日本画制作を大きく進めていました。)

         *

 「移情閣」の後半年ほどあいて、2000年秋頃、「旧岩崎邸」金唐革紙の復元事業が始まりました。国(文化庁)からの復元依頼です。

旧岩崎邸箔押し
 旧岩崎邸 箔押し(2000年11月 アトリエにて)後藤 仁 (右後ろにある作品は、当時制作していた日本画作品「天国の扉─華洛─」273×182㎝の大作。) © GOTO JIN 

旧岩崎邸版木棒
 旧岩崎邸 版木棒(箔無しの製品用。明治末頃の物でしょう。) © GOTO JIN

 最初はI君もいなくて私一人でした。自宅アトリエに合紙した和紙を持ち帰り「箔押し」をしました。「旧岩崎邸」は箔の有る製品約75枚、箔無しが約75枚の合計約150枚の復元製作です。この「旧岩崎邸」の「箔押し」は完全に私一人で行いました。
 版木棒の内、箔無しの製品用は明治時代末頃の旧来品で、箔有りの製品用は現在の復元品でした。旧来の版木棒は彫りは浅いのですが極めて精緻に彫刻されており打ち出した時に最高の仕上がりに文様が浮き出ます。現代の彫刻家に依頼した版木棒は彫りが深すぎて打ち込みの時に紙が破れ易かったりしますし、文様彫刻も大雑把です。明治時代の職人の腕の確かさを見た私は、現代の美術家・職人も頑張らなければ到底追いつかないなと感じました。
 昔の版木棒は虫食いでかなり傷んでいましたので、版木修復は全て私が行いました。私の祖父は指物大工で伯父はからくり人形師という大工職人の家系でしたので、彫刻は得意です。しかし、木を継いでの本格的な修復は出来ませんので、エポキシ樹脂を使用した修理です。本当は樹脂を使うのは良くないのですが、木工の専門技術が無いので仕方ありません。
 昔の「金唐革紙」の質はやはり相当高いものです。私が自分で実際製作して感じたのは、まだまだ明治の技術には遠く及ばず、良くて70%の完成度でした。しかも現在、版木のオリジナルは全く作られておらず、研究所製品は全て明治・大正時代の版木(もしくはその復元品)による復元作品のみなので、オリジナル作品とは呼べません。私の製作した金唐革紙はあくまで「昔の製品の復元作品」であり、私達は金唐革紙の製作に関しては「金唐革紙の修理・復元作家」にしか過ぎないのです。

         *

 「箔押し」が終わると、2000年末位から「打ち込み」開始です。ここからI君が加わり、ほとんど2人だけで「打ち込み」をしました。一か月に2~3日位、時間の取れたN君が手伝いました。
 一年弱かけて約150枚の「打ち込み」が完了しました。ほぼ2人での打ち込みなので手の方も随分酷使しました。ある日、手を見ていておかしな事に気付きました。右手の親指が少しねじれています。どうやら使い過ぎて指の骨・関節が変形してきている様です。時々、自分で手や腕のマッサージをしながら何とか最後までやり抜きました。「移情閣」「旧岩崎邸」の仕事の後は半年位、指・手首・ひじの違和感が取れず、物の角を持った時などに痛みが再発しました。
 
旧岩崎邸彩色1
 旧岩崎邸 シルクスクリーン彩色(2001年7月)後藤 仁 (撮影の為はずしていたが、後ろの壁に掛かっているのが簡易ガスマスク。) © GOTO JIN

 2001年7月から「彩色」に入りました。箔有りの製品は、「ワニス塗り」を私とI君の2人でやった後、彩色専門の女性に渡しました。約75枚のほぼ全てを一人で塗り上げた様で、大したものです。
 箔無しの製品は、私とI君でアクリル絵具による地塗り手彩色の後、「シルクスクリーン彩色」で緑色を付けました。本来、明治期にはアクリル絵具やカシューは無かったでしょうから、多分油絵具や高級品は漆で彩色していたと思われますが効率・採算を考えると仕方無いのです。

 「シルクスクリーン彩色」も私とI君の2人でほとんど行い、まれにN君や風邪を引いたI君の代理にYさんが数日だけ加わりました。この年の夏はことさら猛暑となり、簡易ガスマスクをつけてマンション屋上の作業場で行う作業は過酷な物となりました・・・・

  この続きは、次回にしましょう。    後藤 仁

テーマ : 伝統工芸
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2013-04-06

「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その6

江戸東京博物館 金唐革紙実演
 江戸東京自由大学「金唐革紙講座」(1998年10月4日 江戸東京博物館)後藤 仁 © GOTO JIN

 『移情閣』(孫中山記念館、現在は、孫文記念館と改名。当時、兵庫県有形文化財、復元後、国重要文化財に指定。)金唐革紙のシルクスクリーン彩色が始まりました。
 彩色には、主にカシューという西洋漆が用いられるのですが、揮発油の強烈な臭いがします。シルクスクリーン彩色では、一か所の彩色の度シルクスクリーンを揮発油で洗わなければいけないので、部屋中が異臭に包まれ呼吸困難になります。そこで、簡易ガスマスクを付けての苦しい作業となりました。一人がシルクの枠をあてがい、一人がヘラで押さえ、2人位がシルクを洗います。4~5人で交代しながら一日中この作業ですが、長時間やっていると気分が悪くなります。マスクをしていても臭いは入って来る様で、鼻の奥にこびりついた異臭は何時間も取れません。
 
 シルクスクリーン彩色は、結構速く終わりました。確か2か月位でしょうか。こうして、1999年末頃に完成した金唐革紙は、「移情閣」に送られました。
 一旦仕事は終了になりましたので、次の仕事をすぐに探さないといけないK君とN君は研究所を離れました。K君は沖縄へ陶芸の修行に行くと言い、N君はデザインの仕事などをしていた様です。M君は実家暮らしなのでゆとりがある様でしたが、自分の作品制作などをしていました。その後、研究所に残った私とI君は、時々小さな雑用的仕事をこなしていました。

          *

 研究所の私達は、学生時代から全く変わらない時給制で働いていました。東京のコンビニの夜間バイト代位ですが、学生の頃はそれでも随分助かりました。しかし、仕事の役割は重くなる一方なのに、時給は最後まで一向に上がりませんでした。私達の時給は、生活費・日本画制作費で全て消えていきました・・。
 「入船山記念館」の復元事業で研究所に支払われた呉市からの報酬(元は税金です。)は、正式報告書によると金唐革紙新調代のみで、3163万9933円です。版下・版木棒作成料などを入れると5000万円あまりになります。金唐革紙の値段は、一平方メートルで20万円の設定でしたが、研究所の運営・経理は完全に経営者のみ知るところで他人は誰も分かりませんでした。
 この後、今回の「移情閣」や「旧岩崎邸」という巨大公共事業が続く事になります。
 
          *

移情閣貼りこみ
 「移情閣」下貼り紙の貼り込み(2000年2月)後藤 仁 © GOTO JIN

移情閣貼りこみ3
 「移情閣」貼り込み(2000年3月)後藤 仁 © GOTO JIN

移情閣貼りこみ2
 「移情閣」貼り込み(2000年4月)後藤 仁 © GOTO JIN

 通常、「貼り込み」は専門業者がやるのですが、今回は「貼り込み」まで経験してみようという事になりました。2000年2月、兵庫県神戸市の現場へおもむきました。
 
 「移情閣」の貼り込みでは、私とI君が脚立にのぼって壁に金唐革紙を貼り込んでいきました。下で経営者がのりを付けて私達に渡します。2か月位の間、ホテルや私の赤穂市の実家から通いました。途中、金唐革紙が足りなくなり急きょ私だけが東京へ戻り、一週間ほど研究所で寝泊まりしながら、一人夜中まで追加製作した事もあります。
 
 こうした大変な製作過程を経て、ようやく「移情閣」の金唐革紙の復元が完了しました。


移情閣オープニング
 「移情閣オープニングセレモニー」(2000年春)朱鎔基 中国首相夫妻、兵庫県知事 ほか。贈呈しているのは、私達が製作した「金唐革紙」。(主催者から復元関係者に配られた写真。)

移情閣
 復元後の「移情閣」(2001年8月)後藤 仁 © GOTO JIN

移情閣内装
 復元後の「移情閣」内装(2001年8月)後藤 仁 © GOTO JIN


 「移情閣」のオープニングセレモニーでは、中国の朱鎔基首相夫妻や兵庫県知事も出席されましたが、当然、製作者の私達が呼ばれる事はありませんでした。それは良いとしても私が残念だったのは、今度は正式報告書にも何の説明文にも私達、実際の製作者の名前が記されなかった事です。


  この続きは、また次回とします。  後藤 仁


 

テーマ : 伝統工芸
ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-04-05

「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その5

  最初、「入船山記念館」の話に戻りますが・・・

 私は、「入船山記念館」の製作の時には、既に金唐革紙の研究所経営者の金唐革紙製作枚数を超えていましたので、その時点でも製作技術は経営者を上回っていました。「入船山記念館」では、4種類を合計約150枚製作しました。(「金唐革紙」一枚の大きさは、約180㎝×90㎝です。)
 経営者が発注者(「入船山記念館」は呉市、「移情閣」は兵庫県、「旧岩崎邸」は文化庁、など全て公共事業です。)から受注を取りどの様な復元をするかのお膳立てをし、後は私達が知恵を出し合って実際の製作を遂行します。「移情閣」では、一種類のみですが枚数が約400枚もありましたので、製作も最も過酷でした。

入船山記念館
 復元後の「入船山記念館」(2000年2月)後藤 仁  © GOTO JIN

入船山記念館客室
 入船山記念館 客室  © GOTO JIN

入船山記念館 食堂
 入船山記念館 食堂 後藤 仁  © GOTO JIN 

入船山記念館応接所
 入船山記念館 応接所  © GOTO JIN (ここの金唐革紙のやすりがけは私一人でやりました。)

入船山記念館客室金唐
 入船山記念館 客室「金唐革紙」  © GOTO JIN

入船山記念館食堂金唐
 入船山記念館 食堂「金唐革紙」  © GOTO JIN

 ここからは、「移情閣(孫文記念館)」の金唐革紙製作の詳細を書きましょう。

 毎日毎日、私とK君とN君が3人でローテーションを組み、2人で一枚の金唐革紙を打ち込みます。一日に6時間ほど、この「打ち込み」の作業です。M君は休みの人の代わりに、週に1~2日加わりました。
 この頃、私は週に5日位研究所で働き、夜と休みの日に自分の日本画制作をするというハードなスケジュールをこなしていました。まだ若かったので体力もありました。

 毎日「打ち込み」をしていると手がもたないので、時々「合紙」「箔押し」「ワニス塗り」をはさみます。
「合紙」は、和紙の楮紙(こうぞし)と三椏紙(みつまたし)を、のりで貼り合わせて強化する事です。
「箔押し」は、合紙した和紙に特殊なのりを塗り、主に錫箔(すずはく)を貼っていきます。作品によっては金箔・銀箔を貼る事もあります。箔押しは正確に早く貼るのが難しく、日本画家の技術が活かされます。ただ、日本画の箔押しは和紙を下に置いて貼るのですが、金唐革紙の場合は和紙を立て掛けて貼るという違いがありました。この箔押しのスピードは私が誰よりも早かったです。
「ワニス塗り」は、打ち込みの終わった和紙の錫箔の上から天然ワニスを塗って、金色を発色させる事です。
 
移情閣ワニス2
 移情閣 ワニス塗り(1999年2月)  © GOTO JIN

移情閣ワニス塗り
 移情閣 ワニス乾燥中(1999年2月)  © GOTO JIN

 金唐革紙の研究所の発足当初は、経営者が国立東京文化財研究所の指導の下、金唐革紙の製作方法を模索したのですが、その製作方法は不完全な物でした。私達若者3人で意見を出し合い、より効率的・効果的な製作方法を見付け出していきました。
 最初の頃、版木と和紙がずれて文様が二重打ちになる失敗が多くありました。K君が、ある日ふと、「版木棒に和紙を巻き付けるから、ずれるんじゃない・・」と言いました。それまで、版木棒に和紙を巻き込んだり伸ばしたりしながら、打ち込み作業を進めていました。そこで、あまり巻き込まずに打ち込んでいく、Kバージョンがその後採用されました。これで文様がずれる事が格段に減りました。この他にも、多くの点が改良されて金唐革紙の製作量も製品品質も、私達が加わる以前よりはるかに向上しました。
 「打ち込み」も後半になると、手の痛みも半端ではありません。「入船山記念館」の頃は指の関節だけが痛かったのですが、今回は段々手首が痛くなり、遂にはひじまで痛み出しました。指や手首、ひじにサポーターをぐるぐるに巻いて耐えました。K君が言いました。「朝起きると、腕がミイラの様に、胸の前で折り畳まれていないかい?」すると、皆は口をそろえて「やっぱりそうかい!」と言いました。私達も皆、同じ経験をしていました。それから、なるべく関節・筋をのばす体操をしました。

 
 こうした苦心の製作の末、1998年から1999年まで、およそ2年弱をかけて「合紙」「箔押し」「打ち込み」「ワニス塗り」までが終わり、完成した物から順次自宅に持ち帰り「彩色」に取りかかりました。地の緑色は、私とK君、N君が中心になって手彩色で行いました。間に合わない分は、東京藝術大学日本画専攻の学生数名と、彩色専門の年配女性が担当しました。(この女性は美術とは無関係の人でしたが、とても根気強く彩色の腕は安定していました。)

移情閣彩色4
 移情閣 手彩色(1999年4月)  © GOTO JIN

移情閣彩色2
 移情閣 試作品手彩色(1999年冬) 後藤 仁  © GOTO JIN (実際の製品の赤色は、シルクスクリーンで彩色しました。)

移情閣彩色1
 移情閣 試作品手彩色(1999年冬) 後藤 仁  © GOTO JIN

 研究所の代表的な作品だという「狩人」という金唐革紙作品がありましたが、その彩色は私達の加わる以前に、東京藝術大学の学生に彩色してもらった物だと知りました。色の配色なども、その人が考えたそうです。私が彩色した「白百合と昆虫」という作品も研究所の代表作の一つです。 I君が彩色した「黒百合と昆虫」も代表作です。特に難しい彩色が施された研究所の代表作は、箔押し・打ち込み・彩色は当然の事、彩色の原案までも私達の手による物なのです。


 花文様の赤色はシルクスクリーンでないと、早く均一に塗れない事が分かりました。そこで、実家の扇子製作の仕事をしていたI君にお願いする事になりました。扇子製作でシルクスクリーンを使用していたからです。
 ここからI君とM君も加わり、5人での「シルクスクリーン彩色」の作業となりました。
しかし、この彩色も結構大変な作業となりました・・・

  この続きは、また次回とします。  後藤 仁

テーマ : 伝統工芸
ジャンル : 学問・文化・芸術

2013-04-04

絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』出版までの永き道のり その3

「中国 貴州省・広西チワン族自治区 写生旅行」
  (今回のカテゴリは「ながいかみのむすめチャンファメイ 制作」ではなく、「写生旅行(海外)」になります。)   
      
 いよいよ「絵本」の取材旅行の日が来ました。
 2008年4月15日~5月2日の日程です。「ミャオ族・トン族の村めぐり」のみ現地旅行会社に個人手配しておき、後は自由旅行です。
 
 
 4月15日、成田空港から上海に入りました。上海では「上海博物館」や「豫園(よえん)」などを見物して、中国文化の勉強です。
 私はそれまでに、何度も海外一人旅をしてきたので、少々油断していました。初日の夜、久しぶりの海外旅行に張り切り過ぎたようで、夕食を食べ過ぎました。元々、私は料理を残す事がもったいなくて出来ない性格なので、無理して食べてしまうのです。ただ、中国の料理の量は半端ではありません。(中国では、お客が食事を残す位に振舞うのが礼儀とされているそうです。)特に脂っこい酢豚が良くなかった様です。その夜、消化不良の状態になり気分が悪くなりました。夜中に目が覚めて吐きそうになり、この先が思いやられました。私は食べ物の好き嫌いが全く無く、海外でも何でも食べれるのが自慢でしたので、これは大失敗でした。  
 次の日、朝食を食べずに活動するうちに、何とかましになりました。

 4月17日、飛行機で貴州省の貴陽に入りました。貴陽では「黔霊山公園(けんれいさんこうえん)」などを散策しました。

 4月19日、バスで凱裏(がいり)に移動しました。「州民族博物館」でミャオ族・トン族などの文化を勉強しました。

 4月20日より、凱裏の現地旅行会社と落ち合い、チャーター車での本格的な取材の始まりです。日本語・英語が使えるドライバーは割増料金になるので、中国語しか話せない人です。黄(ホワン)さんと言います。ガイドも付けませんので、黄さんとの二人旅です。正直なところ、日本からはFAXでやり取りして行程・料金などを決めただけでしたので、本当に信頼出来るのかさえ不明でした。ただ「地球の歩き方」の情報を信じるのみです!
 2時間ばかり車で走り、施洞(せどう)、老屯(ろうとん)のミャオ族の村に入りました。4月20日は老屯でミャオ族の祭「姉妹飯(ジイメイファン)」を取材しました。スケッチをして写真を撮り、今回は舞踊などの動きを押さえたかったのでビデオも撮りました。きらびやかな銀細工と刺繍が美しいミャオ族の民族衣装で、子供や女性が舞います。シャランシャランと響く銀の鈴の音が耳に心地良く、夢想の世界へといざなわれました。

中国貴州省の旅\老屯姉妹飯
 老屯「姉妹飯節」施洞ミャオ族 ©GOTO JIN
中国貴州省の旅\施洞ミャオ族
 老屯「姉妹飯節」施洞ミャオ族 ©GOTO JIN

 その夜、ミャオ族の民家に宿泊した私は気分も上々で、お腹の調子が完全に直っていないのを忘れ、ミャオ族の食事を楽しみました。強い濁り酒をすすめられるのですが、ドライバーの黄さんはめっぽう酒に強いのです。ミャオ族の食事は、豚肉の塩漬け(ミャオ族は特に脂身を好みます。)や山菜の油いためが中心で味はおいしいのですが、やはり日本人にとっては脂っこ過ぎました。食事と酒でお腹一杯になった私は、初日の悪夢がよみがえりました・・・。
 心配は的中し、次の日の朝、またお腹の具合が悪くなりました。完全な消化不良で、胃も腸もやられていました。持参した胃腸薬を飲みましたが全くききません。朝から食事が全く喉を通らず、微熱もあるようです。これほどひどい消化不良は今までもその後も経験した事がありません。(これは、中国の食べ物が悪いのではなくて、慣れない環境で最初から暴食をした私が悪いのです。)
 それでも取材しないわけにはいかないので、無理をおして施洞の「姉妹飯」を取材しました。お腹を下していましたので、前もってトイレの場所を確認していました。ちなみに、この辺りのトイレは、大きな木のおけに板を渡しただけの物で、家の裏の物陰にあります。
 施洞の「姉妹飯」は河原で行うので開放感があり、とても壮大な祭でした。競馬などもやっており野趣満点です。体力の限界まで取材した私は、へろへろになりながら車に乗り、また2時間かけて凱裏に戻りました。その日は夜まで水以外何も喉を通りませんでした。

中国貴州省の旅\施洞姉妹飯
 施洞「姉妹飯節」施洞ミャオ族 ©GOTO JIN

 
 4月22日、車で2時間位移動して郎徳へ向かいました。郎徳では丁度団体客が来ていたので、郎徳ミャオ族の舞踊を披露している所でした。施洞のミャオ族とはまた異なる民族衣装で、裾のひらひらが特長です。芦簫(ろしょう)という楽器の音色も心地よく、古(いにしえ)の世界にいざなわれました。

中国貴州省の旅\郎徳ミャオ族
 郎徳ミャオ族 ©GOTO JIN

 その後、3時間位かけて車江(しゃこう)、榕江(ようこう)に移動し旅館に泊まりました。車江からは、いよいよ『チャンファメイ』の舞台、トン族の村です。
 ただ、お腹の調子は相変わらず良くないままでした・・・ 


 この続きは、また次回です。   GOTO JIN


テーマ : 絵本・制作・イラスト
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2013-04-02

「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その4

移情閣版木棒

『移情閣の版木棒』 (版木棒の旧来品が残っていなかったので、過去に貼られていた『金唐革紙』の断片より図柄を描き起こして、新しく製作した版木棒。「移情閣」はこの一種類しか使用されていない。)©GOTO JIN


 入船山記念館の『金唐革紙』の製作を終えた私は、2~3か月位は手の違和感が消えませんでした。全ての指の関節が痛み、手のひらが伸ばしにくい状態になります。「この仕事を長くやると絵が描けなくなるな・・・。」と考え、「もうやる事も無いだろう。」とその時は思っていました。金唐革紙の研究所も次の仕事がすぐには無く、一年間位は休止する様子でした。

 1996年に東京藝術大学日本画専攻を卒業した私は、本格的に『日本画家』として活動しました。個展・グループ展を中心にプロの日本画家として精力的に描き、発表していきました。(この辺りの過去の日本画制作の話は、またいずれいたします。)しかし、現在の日本画界を取り巻く状況は厳しいものです。特に若手作家は、到底、絵の制作だけでは食べていけません。収入を安定させるには絵画講師の仕事が一番手っ取り早いのですが、大学時代に一年間、河合塾美術研究所という美術予備校で日本画科の講師をした事があるのですが、やはり私は他人に教えるより自分が描きたくなってしまうのです。また、若い頃から講師をしていると天狗になってしまう人が多いので、40歳位までは教える仕事はしない方が良いと、自分で決めていました。
 私は、昼間に日本画の制作をして、夜は居酒屋のパントリーで働いたりして何とか生活していました。この時、居酒屋で一緒に働いていた若者達(大学生など)は、けっこう頑張り屋が多かったです
 だが、何事にも徹底してこだわる性格の私は、何か『金唐革紙』でやり残した感覚がありましたし、やはり美術に関する仕事だけをしたかった私は、卒業して一年後位に、「もう一度、金唐革紙の仕事をしよう。」と決心して、金唐革紙の研究所に連絡しました。すると、丁度次の仕事が始まった所で、人手が足りない様でした。私は、日本画の活動と並行して、再び『金唐革紙』の仕事をする事となりました。

 1998年の夏頃、久しぶりに研究所へ行ってみると、大学時代の同級生のK君と後輩のN君の2人がいました。話によると陶芸家のご子息のE君の紹介で、少し前から働いているそうです。それ以来、K君とN君と私の3人が中心となり、金唐革紙製作をする体制となりました。前にやっていたI君は「箔押し」「打ち込み」などには参加せず、後ほど、最後の彩色の工程の頃から加わります。


 その、金唐革紙製作が、『移情閣(孫中山記念館、のちの孫文記念館)』の壁紙復元事業でした。


 実際の製作は、「入船山記念館」以上に、ほとんど3人での作業となりました。人手がまだ足りないので、私の予備校講師時代の教え子で多摩美術大学日本画科を卒業したM君も、時々製作に参加しました。

 製作の詳細は、また次回としましょう。      後藤 仁

テーマ : 伝統工芸
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プロフィール

後藤 仁(GOTO JIN)

Author:後藤 仁(GOTO JIN)
 ~後藤 仁 公式ブログ1~
日本画家・絵本画家 後藤 仁(GOTO JIN)の日本画制作、絵本原画制作、写生旅行、展覧会などのご案内を日誌につづります。

  〔後藤 仁 略歴〕
1968年兵庫県赤穂市生まれ。15歳、大阪市立工芸高校美術科で日本画を始める。東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男先生(恩賜賞受賞者)に師事。在学中より約12年間、旧岩崎邸、入船山記念館、孫文記念館(移情閣)等の金唐革紙(手製高級壁紙)の全復元を行う。卒業以降は日本画家として活動し、中国・インドをはじめ世界各地に取材した「アジアの美人画」をテーマとする作品を描き、国内外で展覧会を開催する。近年は絵本の原画制作に力を入れる。絵本作品に『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店)、『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)、挿絵作品に『おしゃかさま物語』(佼成出版社)。『犬になった王子 チベットの民話』は、Internationale Jugendbibliothek München ミュンヘン国際児童図書館(ドイツ)の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。NHK日曜美術館の取材協力他、テレビ・新聞等への出演・掲載も多い。東京造形大学・絵本講師。金唐革紙保存会 主宰。日本児童出版美術家連盟(童美連)(太田大八先生、赤羽末吉先生、いわさきちひろ先生らが創設)会員・理事。絵本学会(太田大八先生らが創設、現会長:松本 猛先生)会員。日本中国文化交流協会(井上 靖先生らが創設)会員。この本だいすきの会(代表:小松崎 進先生)会員。千葉県松戸市在住。

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