2013-03-29
「金唐革紙(きんからかわし)」製作秘話 その3
これから『金唐革紙』のくわしい製作過程を書き下ろしていきます。『金唐革紙』をご覧になられた事の無い方は、私達が若い頃に力を尽くして文化財の復元にあたった事実を知っていただく良い機会になる事でしょう。
既に『金唐革紙』をご存知の方は、私達若い力によって『金唐革紙』は製作されたのだという事に思いをはせながら、ご鑑賞下さいますと有難いです。このブログで書き下ろす各施設の製作エピソードや写真は初公開の内容ばかりですので、興味深く見ていただけるものと思います。
またいささか堅いテーマとなりますが、現在の日本では(外国も同様でしょうが、)まだまだ経営者や発注者などの出資者の権限が強過ぎて、実際に労働した当事者の権利は限られています。ある団体が製作した製品の権利は、最初に出資し製作場所を提供したという事で全て出資者にあるのか、それとも実際汗水流して製品を作り出した製作者にもあるのか。大量生産の工業製品ならともかく、美術品の場合は「著作権(その人が自ら作品を創作した時に同時に発生する権利)」の観念からしても、実際の製作者にもいくらかの権利はあるのではないかと私は考えています。それらの美術界にもある矛盾や不条理について考察していただく場にもなると思います。
もちろん経営者でも、精力的に会社を運営しながらも、社員への思いやりも大切にしている有徳者も多いでしょう。人の上に立つ人物は常にそうありたいものです。
「絵」や「美術」に対する思いは誰よりも強い私です。この様にして後世に文化を伝えていく事により、将来の日本文化の発展に少しでも寄与出来るのならば光栄です。
絵師(日本画家・絵本画家、金唐革紙 製作技術保持者) 後藤 仁
(※最近、かなり多くの私の支援者やファンの方が、「旧岩崎邸庭園」「入船山記念館」等の販売コーナーの金唐革紙しおりや金唐革紙の本を、私の為になると思われて購入されている様です。お気持ちは有難いのですが、現在私は金唐革紙の研究所を完全に離れており、購入された収益は全て研究所の経営者のものとなっています。もし、私の為のご購入でしたら、金唐革紙グッズではなく、私の『絵本』作品などをお求め下さいましたら有難いですので、よろしくお願い申し上げます。)
『金唐革紙』製作の思い出を、日記風につづっていきます。外部の方は全く知りえない話ばかりですので、実際に旧岩崎邸などの『金唐革紙』を見られた方には興味深い話ばかりでしょう。出来るだけ正確に、真実のみを伝えようと心掛けて書きます。

「呉市入船山記念館」 金唐革紙製作 - 刷毛による彩色 (1995年11月) 後藤 仁 ©GOTO JIN
1994年、私が東京藝術大学日本画専攻の3年生、26歳になった頃です。たしか夏休み前頃、クラスのS君とI君が苦学生で大変そうな私を見かねて、「体力はいるけど、良い職人仕事がある。」と誘ってくれました。その仕事は何やら歴史のある『金唐革紙』という壁紙の製作だと言います。彼らは少し前から、その仕事をしていると言うのです。
実際、その仕事場へ行きました。そこは、ある職人が一人で経営しているという『金唐革紙』の研究所でした。その職人から直接、厳しく教えられると覚悟していたのですが、実際はS君とI君から製作方法を教わりました。経営者はあまり職人や美術家らしくもなく、ビジネスマンぽいな・・・と、すぐに私は感じました。
夏休みには、本格的な製作が始まりました。それが広島県呉市にある「入船山記念館」の金唐革紙でした。S君はその後ほとんど参加しなくなり、代わりに名のある陶芸家のご子息のE君が加わりました。しかし、E君も仕事の大変さに「手が痛い、痛いで・・・」と言いつつ、じきに来なくなりました。経営者は私達が交代で食事に行っている時や休憩の時のみ「打ち込み」の仕事に加わるだけで、結局、実際の製作はほとんど私とI君の2人でやりました。
「打ち込み」は、版木にあてた和紙の裏からブタ毛の強靭な刷毛で、一日に5~6時間も強力にたたき続けます(少しの休憩ははさみますが)。一日終わると指の関節が全て痛くなり、何日も痛みが引きません。学校が始まると日本画制作の時に手が思うように動かず大変でした。ずっと「打ち込み」ばかりをやっていると手がもたないので、時々「箔押し(錫箔を和紙に丁寧に貼っていく)」「ワニス塗り(打ち込みの終わった錫箔の上からワニスを塗る)」をはさみながら製作を進めました。この「箔押し」「ワニス塗り」もほとんど2人でやりました。
最後の方になりI君までも、あまり来なくなりましたので、「手彩色(刷毛で全面を塗る工程と、面相筆という細い筆で細かく塗る工程がある)」は最も多く私が行ったと記憶しています。面相筆の彩色は非常に時間がかかるので、間に合わない分は東京藝術大学日本画専攻の学生10数名に渡して、彩色してもらいました。彫刻技術のいる「版木修復(版木の傷んだ箇所を修復する)」と、ほこりだらけになって大変だった「やすり仕上げ(彩色後に紙やすりをかけて古色を出す)」は、完全に私一人でやりました。
私達の夏休み・春休みなどにほとんどの製作をこなしていき、この様な苦心の製作のすえ、1996年初め頃、「入船山記念館」の『金唐革紙』を完成・納品しました。
私達は「入船山記念館」のオープニングセレモニーなどのイベントには、一切呼ばれませんでした。それでも、「広島県重要文化財 旧呉鎮守府司令長官官舎 修理工事報告書」(1996年3月、財団法人文化財建造物保存技術協会 編集)(ただし、修復後に「国重要文化財」に指定される。)という正式報告書には私達の名前も小さくですが掲載され、「頑張った甲斐があった・・・。」と思いました。本来の作家というのは、自分の仕事が世に残せるだけで満足するといった、その様な単純な生き物なのです。
しかし、私達の名前が、『金唐革紙製作者』としておおやけに記されるのは、この時が最後になるのでした・・・・
この続きは、また次回としましょう。 後藤 仁