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2021-02-25

「芸術的天才論」 絵師(日本画家・絵本画家)後藤 仁

 テレビ等のメディアとは恐ろしい影響力を持つものである。先日も、あるテレビ番組内で、おおよそ芸術的天才ではない若者が、芸術的天才に仕立て上げられていた。私には、どうとらえても”天才”には思えなかったが、最後の彼の言葉だけは的を射ている。「世間に認められて満足している。しかし、これで自分は終わったと思う・・・。〈要約〉」
 若い芸術家が活躍をするのは結構な事である。今の時代、画家が生きていくのは本当に厳しい時代なので、なおさらである。ただ、実力の無い者をあまりに持ち上げ過ぎると、しばらくはその効果で食べていけたとしても、後に実力不足が露呈した時には、本人が一番、苦しむ事となる。現代の日本画家でも、ただ容姿が美し過ぎるとかで、テレビ・メディアが取り上げ、やたらと一時期もてはやされた画家がいたが、その作風は古典技法をなぞらえただけで、気持ち悪いものばかりを描くという特徴以外の個性は無く、彼女の実力には、私はかなり懐疑的である。
 本当の天才とは、案外、平凡な外見をしており(ほとんどの場合、衣装・容姿等の見た目ではアピールをしていない)、特に若い頃はさほど目立たないものである。インスタレーションや即興的・パフォーマンス的作画はもうすでに数十年前から、現代アーティスト系の人が数多やり尽くしており、全く目新しいものでもない~。現在では、新たな芸術的表現手段が行き詰まり、奇をてらった行為や犯罪的行為や、しまいにはテロ行為こそが最大の芸術だ・・・などと言われる始末なので、この方向性では、芸術の未来はないだろう・・・。
 私のようなちっぽけな画家は、一見普通にも見える、伝統を継承した正統的な作画技巧の中に、新たな芸術的個性や魅力を発現したい。

 私の経験上、確かに東京藝術大学には天才的な人がいる事はいると思う。東京藝術大学の入学競争率は、私のいた当時(1990年頃)、「日本画」で約20倍(520名余り受験して、26名が受かる)、「油画(西洋画)」で約30倍、「デザイン」だと50倍位であり、他の科はそれ以下である。しかし、美術系の人なら誰でもが記念的に藝大を受ける場合も多く、実質的な競争率はこの半分以下であろう。そこに入るには、デッサン・水彩画・油彩画・平面構成 等を一定以上の高度な技術レベルで描けば良い訳で、そんなに難しい事ではなく、さほど天才である必要はない。
 それでも「絵画科 日本画専攻」(当時は1学年26名)には、年によってもかなり異なるが、1学年に4~6名程の秀才的な人がおり、その中でも天才と言えそうな人は1学年に0~2名位は確かにいる。他の科には詳しくはないが、多分、天才的な芸術家はほぼ、「油画専攻」と「日本画専攻」に集中しており、まれに「彫刻科」にもいると思う。「デザイン科」は多方面への器用な適合力が問われるので、一芸に秀でた天才的芸術家は存在しにくい。「建築科」「芸術学科」は学力の高さが問われ、画力はあまり高くなくても受かるので、芸術的天才はほとんどいないだろう。
 また、他の、多摩美術大学・武蔵野美術大学・東京造形大学・女子美術大学・京都市立芸術大学・愛知県立芸術大学 等の主要美大には、各学部の各学年に秀才はわずかにいても、天才は数年に1人位しか現れないだろう。案外、中途半端に美大等の専門機関に行っている人でない作家の中に、天才が埋もれている可能性もある・・・。
 今回テレビに出ていた人は、確か、「東京藝術大学 建築科 入学」とか言っていたので、IQの高い建築系の数学的秀才・天才はわずかにいたとしても、絵画系・芸術的天才という事は、ほぼ考えられないだろう。

 「アート(芸術)」「アルチザン(職人)」は行ったり来たりするもので、お互いは相関関係にあり、本来、完全には切り離せないものである。西洋的現代アート思考では、二元論的に、より「アート」を独立させようと考えたが、東洋的思想では(西洋の伝統的芸術認識でも)、「芸術家」と「職人(技術者)」は表裏一体のものであるととらえる傾向が強い。つまり、東洋・日本の芸術家の基本姿勢としては、技術・技巧の追求は生涯に渡り途絶えてはいけないのだ。どんな天才的な素養があっても、若過ぎる頃にちやほやされ過ぎると、当然ながら、その作家は向上心を失い、凡庸な作家に終わるものである。たとえ天才肌でも、長年に渡る、人並外れた努力による”画”の研鑽がなければ、その真価を発揮できないものなのだ。
 日本画家・伊東深水は、若い頃に”本の挿絵”が評判となり、売れっ子になりかけたが、師の鏑木清方が、「もう数年は挿絵から遠ざかり、地道に絵の研鑽を積むように」と諭したと言う。現代アーティスト・村上 隆さんなども、私の周囲の藝大生の中で、天才性を感じた数少ない作家の一人だが、学生時代から名をはせるに至るまでの、努力と芸術研究への執念には、並大抵ではないものがあった。
 私が在籍した、東京藝術大学の最初のクラスには(私は2年生の終盤から、藝大生の芸術的意識レベルの低さにうんざりして、丸2年間も学校に行かずに自己研究を続け、2年留年となったので、結果、2クラスに所属している)、私以外では、2~3名の秀才的画家と1名の天才性を感じた人がいたが、いずれの人も今は残念ながら、”絵”ではほぼ頭角を現していない。藝大復帰後に編入した後のクラスには、秀才的な人こそ数名いたが、天才的な人は一人もいなかった。
 作家人生には画力・感性・天才性の有無の他に、多大な運と時勢等が作用し、最終的には協調性やビジネスセンスの高い人が有利となるので、天才・秀才というだけでは渡り切れない、誠に殺生な世界なのである。私も人に言えた義理ではないが、天才的な人は往々にして、社会性・協調性に欠ける場合も多く、藝大生の周りを見回しても、案外、要領のいい平凡な画家が現在まで生き残っているケースが大多数だ。
 いずれにしても、どんな天才でも凡才でも、その後の長きに渡る芸術的研鑽は不可欠なのである。一生、「満足した」などという事はあり得ない。どんなに世間に評価されようと・されまいと、肩書・称号を与えられようと・与えられまいと、売れようと・売れまいと、有名になろうと・なるまいと、・・・そんな世俗には全く関係なく、一生、地道に、画道に精進する事しか、画家には残された道はないのである。

水彩画ポスター「緑を守る一人一人の心と手」 中学3年生 1983年水彩画ポスター「緑を守る一人一人の心と手」 中学3年生 1983年 ─ 「第1回 全国都市緑化フェア 図画・ポスターコンクール」 大阪府知事賞(最高賞)

水彩画「21世紀は太陽利用時代(未来の都会)」 中学3年生 1984年水彩画「21世紀は太陽利用時代(未来の都会)」 中学3年生 1984年 ─ 「太陽の日記念 絵画コンクール」 (審査員長・岡本太郎) 佳作

アクリル画「大自然・・・私の夢」 高校1年生 1984年アクリル画「大自然・・・私の夢」 高校1年生 1984年 ─ 「旺文社主催 第28回 全国学芸科学コンクール」 銀賞(旺文社賞)

日本画「枯木孔雀図(マクジャク)」 高校2年生 1986年日本画「枯木孔雀図(マクジャク)」 高校2年生 1986年

石膏デッサン「ブルータス」 美術予備校 1989年石膏デッサン「ブルータス」 美術予備校 1989年 ─ 「立川美術学院、日本画・油絵 合同コンクール」で一等賞になった作品。背景の一部には、村上 隆さんの手が入っている。


東京藝術大学合格者発表1990、3「立川美術学院・東京藝術大学 合格者発表」1990年3月  当日、その場に居合わせた、村上 隆さんが撮影した写真。

東京藝術大学入学式1990、4、10 21歳「東京藝術大学 入学式」1990年4月10日 後藤 仁、21歳  この頃は、まだ自分の天才性と輝ける将来を、微塵も疑っていなかった~~ ( ;∀;) 

 私も小学生から中校生の頃にかけて、「天才絵画少年、現る!」と学校や地元新聞 等で大いに噂され、大阪市立工芸高等学校 美術科では、「創立50年始まって以来の天才画家 登場か!」と期待された。当時は今ほどメディアが盛んでなかったが、あれが今ならば、さぞかしテレビやSNSで取り上げられ・持ち上げられていたかも知れないね・・・。
 その後、高校卒業後に上京して入学した東京の美術予備校・立川美術学院では、日本画科講師の村上 隆さんらが率いる優秀な予備校生達に出会った。私は、関西風描写方法を東京風に修正するのにも時間を要し、その中の3~4名にはどうしてもかなわない日々があり、生まれて最初の芸術的挫折を味わった(その時の3~4名は後に、皆、東京藝大に受かっている)。私は当時、美術予備校の受験的教育に疑念を抱き、作画にも面白さを感じられなくなり、学校には半分も行かずに、新聞配達等をしているという落第生だった。それでも二浪の中盤以降、実力を発揮し、特に「鉛筆デッサン」では私に勝る人は一人もいなくなった。私の目には弱めであるが赤緑色弱の気があり、そのせいか、少しの苦手意識があった「水彩画(着彩)」も、やっと先の3~4名の秀才に並び、ようやく東京藝術大学に合格できたのだ・・・。
〈この辺りの学生時代からの経緯を本格的に話しだすと、長くなるので、また、いずれの機会に・・・。 本当は”芸術”とは、他者との競争や順位ではなく、自己の個性的・美の追求に他ならないのであるが・・・。〉

 藝大入学など簡単なものだと強がれど、実際には、そんなに簡単な事ではなかったのだね~。しかし、大学卒業後、絵だけで生きていく事は、その何十倍も、何百倍も、厳しい試練なのだと、その後、知る事となる・・・・。
 大学卒業後25年余り、私は、おおよそ天才とは程遠い、無名の貧乏画家として未だ世間に埋もれているが、それでいいのである。「芸術の神様は孤独な崇拝者を好む」と言う。本当の実力より、はるかに低い評価に長年甘んじ続ける方が、生活は実に苦しくはあるが、一人ひそかに努力・研鑽を続け、誠の芸術家になれるというものだ、・・・と自己を慰めつつ。本当の画家・芸術家など、大抵、そんな風に、世の中に地味に隠れて存在しているものである・・・。  

  絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁

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テーマ : art・芸術・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

2021-02-09

「男女平等の事案をめぐる、一画家の思い」後藤 仁

 今、世間では、コロナ禍による強力なフラストレーションを多くの人々が感じている中、オリンピック精神の男女平等や、世界中の人種不平等問題などが叫ばれています。私は画家(芸術家)ですので、基本的には絵画・芸術・文化関係以外の専門外の事柄は、あれこれ言わないように気を付けていますし、あまり確たる思想も有していません。
 しかし、語弊を生じやすく軽々には触れられない、このデリケートな事案ですが、多くの問題が噴出する現在、一弱小文化人としての立場からでも、何かしらの意志を発言しなくてはいけない時代なのかも知れません。・・・・・

               *

 私は、 2004年6月にインド関係者から「インド映画を見る会」に招待されて、衆議院内講堂へとおもむいた時に、同じく招待されていた、元内閣総理大臣・森 喜朗氏にお会いしました。私は若い一画家でしかありませんので、その時には、ご挨拶もせず、ただ遠くから眺めていただけです。その場には、元内閣総理大臣の羽田 孜氏と鳩山由紀夫氏も同席されていましたが、それらの政治家やインド人実業家達のご対応を見ていると、森 喜朗氏は、羽田 孜氏や鳩山由紀夫氏とは、一段も二段も異なる立場の御仁なのだと感じ取れました。会場に一足遅れて森氏が登場すると、周囲の空気に緊張感が走り、皆がその存在に敬意を払っていました。
 これと似た奇妙な経験は、2017年8月の「東京あこうのつどい」(都市センターホテル、千代田区)に東京都知事・小池百合子氏が来られた時くらいでしょうか。その時分は、「次の総理大臣は小池さんか・・・」などと取りざたされていた頃で、まさに今、勢いに乗る小池氏が登場すると、周囲には一種どよめきのような、奇妙な歓声に包まれました。私が小池氏にご挨拶をすると、小池氏は文化にはあまり関心が薄いと見えて、反応は鈍いものでしたが、会社の社長さんがご挨拶に来ると、とても喜んでいました。企業・団体の応援は、献金や票の獲得上、さぞ有利なのでしょうかね・・・。私は絵画・絵本文化を少しでも知ってほしいという思いで、拙作絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版こどものくに ひまわり版)を小池氏に見ていただきました。『わかがえりのみず』は、欲張って泉の水を飲み過ぎた おばあさんが、赤ちゃんになってしまうという、あの有名な昔話です。その内容は今の時代、考えようによっては女性蔑視とも取られかねないストーリーなので、小池氏にお見せしたのは、少々誤解を招かれたのではないかと思い返しています。そこに深い意図は無く、その時にはその絵本しか持っていなかっただけなのです・・・。『わかがえりのみず』などは、笑話に近い素朴な”昔話”とはいえ、今の時代にはすんなりとマッチしにくい習慣・価値観も多々あり、民話絵本の表現とは実に難しいものなのです~。
 話がそれましたが、その他にも、私は今までに、河野太郎氏の父で元衆議院議長・自民党総裁の河野洋平氏や、元参議院議長・法務大臣の江田五月氏や、元法務大臣の岩城光英氏や、中国大使・インド大使などの各国大使、国内外の区長・市長・町長さんなど、何人もの政治界その他、経済界・文化界の大物にもお会いしてきましたが、「インド映画を見る会」の時の奇妙な雰囲気を思い出すと、やはり、森 喜朗氏の政治的・経済的影響力は、幾多の政治家の中でも比類なく強大で凄まじいものなのだろうと察しました。
 そんな具合なので、実際に身近にいる関係者は、当然ながら、一言も意見や反論を言えないのが、常態なのでしょう。しかし、それでは、世の中は一向に良くなりませんよね~。

インド映画を見る会「インド映画を見る会」 元内閣総理大臣 森 喜朗氏、羽田 孜氏、鳩山由紀夫氏、作家 石川 好氏らが出席 (2004年6月4日/衆議院内講堂)

森喜朗氏「インド映画を見る会」 森 喜朗氏、ご挨拶

東京あこうのつどい「第4回 東京あこうのつどい」 東京都知事・小池百合子氏 (2017年8月4日/都市センターホテル、千代田区) 私の作画絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版こどものくに ひまわり版)と


 幼少期の私の家では、比較的おとなしい父よりも、母の方が断然怖くて強かったので、少なくとも男尊女卑的な雰囲気は皆無でした。それでも、どこか精神的には、やはり父の存在は一番大きかったように思います。
 高校生になり、大阪市立工芸高等学校 美術科に通うようになると、クラスの四分の三は女性でした。日本画はもちろん、現在の美術・イラスト・デザイン業界は女性の方がはるかに多いのです。
 東京藝術大学 日本画専攻は、当時、一学年26名の在籍者がいましたが、毎年、ほぼ男女半々でした。これにはからくりがあり、日本画専攻の受験者は8割方女性である上に、色彩感覚などは平均的に女性の方が良いとされ、普通に取ると女性ばかりになるので、合否が調整されていたと言われています。後年、これが問題視され、現在は成績通り取っているらしく、クラスはほとんど女性ばかりになっていると聞いています。
 若い頃は一般的に、女性の方がまじめに美術学校に通う上に、色彩感覚が平均的に良くて、水彩画・日本画などは早く上達すると言われています。男性は色彩感覚に劣る人が多いが、デッサン力は女性より勝るケースが多く、また、マニアックで凝り性の傾向があり、全体としては平均的には女性の方が優勢だが、ほんの少数の男性は極めて天才的に高い能力を示すとも言われています。
 これらの認識も、もしかしたら、長年の性差別意識によって、植え付けられた見解なのかもしれませんが、私の経験上、あながち遠過ぎる見方ではないのではないかと思うのです。つまりは、男女は人権的には当然、”平等”でなければならないのですが、その能力には、多少の得意不得意分野があるのです。それは、狩猟採集時代から、男は外に狩りに行き異民族とは戦い、女性は家で子供を育て家事をするという、動物的本能に基づいています。それで身体的には、男性は筋肉質で力が強く闘争本能も強くなり、女性は細やかで丁寧な作業ができるようになったのです。
 しかし、時は現在、文明社会に囲まれた中では、それらの区別もほとんど不必要になりました。そこで、男女が平等に社会進出して活躍できる、ジェンダーレスな社会を目指そうというのは当然の事です。しかし、そんな中でも、男女それぞれの得意なジャンルを最大限、活かそうとする工夫がなければ、物事上手くはいきません。何もかも”平等”と言って、何もかも同じ事を女性にもやらせると、逆に女性が苦しむ事にもなりかねません。私の子供・青年時代には、何か物を運ぶ時に先生などから、「おい、男子、女の子の荷物を持ってやれ!!」と命令されたものです。大人になった今でも、過酷な肉体労働は女性に代わって、たいてい男性がやる羽目になります。私は今の歳までに、多分、平均的な女性の数倍~十数倍の合計重量の物体を持ってきたと思います。そんな訳で、男や女の別ではなく、何事も、できる能力・体力の者がやるしかないのです。
 ついでに話せば、私は長年、「アジアの美人画」を中心テーマに女性像を多く描いてきましたが、現在の認識では「美人画」というカテゴリーさえ、女性蔑視だという判断がなされそうです。私は「美人画」を表面的な容姿のみならず、「心・精神性が美しい人を描く絵画」ととらえて描いています。男女平等をいくら進めようとも、多くの女性は多分、化粧文化をやめないと思います。やはり人は、男女の区別なく、本当に美しい女性を見ると、心が動くものなのでしょう・・・。

 十数年前から関わっている「絵本作家」の世界も、現在は女性が圧倒的に多い業界です。多分、総数の8割以上は女性だと思います。私が約7年前から一昨年末まで在籍した、絵本作家・画家・イラストレーターの団体・日本児童出版美術家連盟(童美連)も大半が女性です。生来、平均的・相対的には女性の方が発言力が強いので、数人のご年配のベテラン作家以外は、男性は常に押され気味で、男性作家の肩身が狭いようにも見受けられました。私は結構、何でも忌憚なく発言した方ですがね・・・。
 私は童美連での後半の3年間は理事を務めましたが、そこでの理事会は、森氏発言ではないですが、確かに、とても長いのです。理事の8割くらいは女性です。女性は、平均的にまじめで、数字や細かい部分に気が回るので、どうしても、とても長時間の会議になるのです。それは多分、正確・公正を期そうとする精神で、本来、悪い事ではありません。ただ理事の私達は、毎回の長い会議は大変でしたがね・・・。
 男性理事だけでしたら、大雑把過ぎて、細かい点を見落としがちですが、逆に大きな視点で長期的な発想をできるという点では、男性の方が優位だと思います。一番の問題点は、確かに男性の方が忖度が働きやすくて、年長者・権威者に迎合しやすいという難点でしょう。
 このように、「世の中、何でも”平等”に」とは言えど、男と女の身体的・性格的役割区別、得意不得意は、個人によってかなりの個人差があるにせよ、決して「何もかも男女同じにしないといけない」という訳にはいかない部分もある事を、忘れてはなりません。

 現在の童美連、ひいては、絵本作家界の場合、女性会員・理事が多過ぎて、逆にそれによる問題点も生じているように感じます。ただ、日本の政治・経済界から文化界の強い権威・権限のあるポストは、間違いなく、まだまだ女性が少な過ぎます。しかし、童美連のように女性が多過ぎても、元々、気弱で優しい男性の多い絵本作家界ですし、男性作家の方が明らかに可哀想に見える機会にも度々出くわす始末になるのです。
 何事も”平等”を基本とするならば、やはり、世の中の重要ポストは、5:5~6:4、4:6の男女比になるように、何かしらの調整をしていくしかないのでしょうね。もちろん、実力社会である日本画壇(美術大学を含む)や絵本画壇などの男女比は、総数や実力で偏るのは仕方ない事です。ただ、往々にして、後半生に実力を伸ばしがちな、天才肌ながら不器用で商売下手な男性日本画家・絵本画家などが、今後の世界で生まれにくくなる事は危惧されますが・・・。

               *

 今回は内容が複雑になり過ぎないように、今ホットな話題に乗っかって、主に美術界(日本画家・絵本作家)の”男女平等”についての思考のみ述べましたが、それは、人種・民族・国籍・思想・宗教・職業・年齢・貧富・障害者などの、どの差別にも通じる事です。
 私は変わり者の貧乏画家ゆえ、今までにも幾多の差別・偏見を受けてきました。中学・高校・大学時代の無視・仲間はずれという、いじめ的差別をはじめ、大人になってからでも、”絵”だけで食べていけない時期には(※ここで私の言う”絵”とは、日本画本画・版画販売、絵本印税、大学・絵画教室講師をさします/売り絵と印税だけで食べていけるのが理想ですが、それは至難の業です)、学習塾講師や日雇い派遣労働などの副業をせざるを得ず、ずっと年下の正社員から何度も「おい、派遣!、ぜんぜん違うだろよ!」などと激しく罵倒された経験もあります(これは、会社名をはっきりと公表してもよい位の、社会的差別問題ですが・・・)。その他にも、私自身、多くの差別・蔑視を受けるという経験をしてきましたが、私の父も、多分、そのような差別的境遇によって、精神的に追い詰められ、自死に至ったのではないかと推測しています。
 あるいは逆に、知らず知らずに、また、どこかに意識があったり意識せずにも、今までに、私自身が差別的発言・行動をしてしまっている事は必ず多々あるでしょうから、自戒の意識は常に必要です。

 世の中、全くと言っていい程、不平等な世界です。各分野で多くの人々が、その是正に何かしらの心を砕くべきです。しかしながら、長年、民族差別を受けてきた民族が、一たび覇権を握ると、弱い立場の民族を虐げるケースなど、”逆差別”という形でやり返すような在り方が、実際に数多く存在しています。そこには永きに渡る歴史状況が横たわり、一画家などではどうしようもない、複雑で難しい問題ばかりです。男女差別の場合も、各ジャンル・集団内で、この”逆差別”に至らないように、十分に留意せねばなりませんね・・・。
 私は来し方行く末、「美術作品」という形でしか自己表現をしたくないのですが、人間の中に常在する様々な問題を、いつも頭の片隅で意識しながら、表現していかねばならないとは思っています。

  絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

2020-09-11

日本画から絵本へ、そして日本画(絵師)へ 後藤 仁

 私は物心がついた頃には、絵を描くのが好きでした。小学校~高校の頃には、運動の好きな わんぱく少年の反面、いつでも、鉛筆や水彩やアクリルで空想画を描いている、絵画少年でした。私が「日本画」に出会ったのは、15歳・美術高校(大阪市立工芸高等学校 美術科)1年生の時です。高校2年生からは日本画を専攻しました。大和絵・唐絵から続く1000年を超える日本画の歴史の素晴らしさと、日本画の画材の面白さ・多様性・多彩性に魅了されたからです。近親者には、日本画を描く者や深く知る者はいなかったので、日本画壇の現状を知る由もなかったのです。
 高校卒業後、単身上京し、美術予備校(立川美術学院 日本画科/村上 隆さんらにデッサン・着彩を教わる)に進みました。本来、私は、大学進学など全く関心がなかったのです(中学か高校卒業後、すぐに画家か美術系職人になりたいと考えていました)。ところが、東京藝術大学の卒業生には、私の憧れる日本画家が沢山いましたので、ここなら行く価値くらいはあるだろうと思ったのです。横山大観・菱田春草~東山魁夷・平山郁夫まで、そうそうたる日本画家達です。当時、NHK「シルクロード」等の影響もあり、中国伝統文化への傾倒を高めていたので、藝大の平山郁夫先生の教室でシルクロード美術を研究してみたいという、純粋な思いがありました。
 しかし実際に、東京藝術大学 美術学部絵画科 日本画専攻に入学してみると、期待していた雰囲気とは異なっていました。無類に絵の好きな者達が、日夜、画道のみに邁進する光景を予想していたのです。実際には、朝早くから絵を描いている人はほんの僅かで、あまり学校に来ない人もいて、「絵なんて子供の頃は好きではなかった・・・。」「芸祭が終わると、絵を描くだけでつまらない・・・。」などという話ばかりが聞こえ、「大学院に行くにはどうすればよいか、どの先生に付けば得策か、どうしたら将来、出世できるか・・・」などという噂話でもちきりでした。
 藝大日本画専攻のそのような低レベルな雰囲気に幻滅した私は、学校を辞めたいと思い、しかし新聞奨学生をしながら苦労して入学した藝大ですので踏ん切りも付かず、2年余り学校に行かずに自己研究をしながら日本国内を放浪していました。そんな青春期も過ぎゆき、常に勤労学生の貧乏書生でしたが、親からの仕送りもいただいていた私は、親不孝も甚だしいという事で、やむなく藝大に戻りました。そこで3年生から後藤純男先生の担任になり、後藤先生の”絵”に対する真摯で純粋な姿勢に感銘し、藝大の残り2年間を何とか在籍できました。その他の先生・先輩・同級生からは、残念ながら、本当に”絵”が好きだという情念はあまり感じ取れず、絵によって偉くなるとか、お金持ちになる事の重要性ばかりが目に付きました。
 あの時、後藤純男先生にお会いしていなかったら、心底、日本画壇が嫌になっていたでしょうね・・・。2年留年という汚名を着せられましたが、何とか学部卒業だけはしました。藝大生はいくら頑張っても良い絵を描いても、留年している人は大学院には行けません。平山郁夫先生の教室、又は、後藤純男先生の教室で学ぶという夢は潰えました。その学生時代のたった2年間の弊害で、私は未だに日本画界では、20年以上も出世からの遅れを取っています(私は名目的出世を良しとしません、野の草のように踏まれて踏まれて、厳しき画道を行く方が、画家にとって良いと思っているので、これでいいのです)。

後藤純男先生「後藤純男先生 東京藝大退官記念展」(東京藝術大学資料館) 1996年10月7日 日本画家・後藤純男先生と

 しかしながら、その後も、日本画壇への漠然とした不信感は続き、特に日本画三大団体(院展・日展・創画会)の近年の強固な権威性・保守性・閉鎖性・低質化・没個性化には辟易しており、私は院展同人理事の後藤純男先生門下ながら、大学卒業後には日本画団体とは一定の距離を置いてきました。
 バブル経済崩壊後、日本画壇も低迷が続き、昔ほどの輝きを失い、日展~創画会~院展の順で、著しく勢いが陰ってきました。生来の芸術家肌の作家が徐々に減り、各団体は派閥を大きくするために、アマチュア画家から引っ張ってくる傾向が強まり、総素人化の様相を呈しています。日展はバブル経済崩壊前から、いち早く、絵画的実力・中央での人気が廃れましたが、未だに日本の地方では一番高等だと信じられていますね・・・、フフフッ。いずれの団体も、本当に優れた画家がどんどん減り、権力・富ばかりを欲する似非画家が増えました。逆に無所属日本画家の中には、少ないながらも、優れた画家が微増傾向にあります。今は、「どこの団体に所属しているか」という時代ではなく、個々の作家の”ブランド力(作家の名前と作品自体)”が重要なのです。
 各団体は、そのような苦境にありながらも、それを見て見ぬふりをし、または気が付きもせず、改善する努力を怠り、師匠・先輩の絵を模倣し続け、そのような悪環境下で、過去の下田義寛先生の盗作事件や今回の宮廻正明先生の盗作事件という、あってはならない嘆かわしき事件まで起こす始末です・・・・。

 一部の財テク的絵画コレクターの為に売り絵を描かざるを得ない「日本画」のあり方にも、最初から疑問を持っていましたが、近年、更に、そのような日本画界の停滞ぶりをまざまざと見せつけられ、ますます疑問は増しました。また、私自身は比較的小品の「物語絵・絵巻物」に関心があれど、超大作・非情緒性を良しとする現代日本画壇では発表の機会・場所もなく、煮え切らない心持ちでいました。
 そんな折、2004年と2007年の「個展」の時、日本を代表する絵本出版社・福音館書店の編集者から声をかけていただきました。「絵本に関心はありますか? 描いてみる気はありませんか?」と。私は幼少期には絵本を好んで読みふけり、絵画への興味の萌芽を抱いた事を思い出しました。私は「絵本」という印刷媒体(出版美術)の是非よりも、「物語絵」を描きたいという一点において、大きな興味を持ちました。「ぐりとぐら」「モチモチの木」「おおきなかぶ」「王さまと九人のきょうだい」「ひさの星」等の古い名作絵本はよく知っていましたが、当初は、現代絵本界の知識はほぼありませんでした。そこで、日本画で丹念に描いた初絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)と、初ハードカバー絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)を出版したのを機に、絵本界をより知るために、2014年に、絵本作家・イラストレーターの集まり日本児童出版美術家連盟(童美連)に入会し(推薦者:黒井 健、浜田桂子)、絵本出版社・編集者 等との交流も始まりました。

絵本「犬になった王子 チベットの民話」絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店/後藤 仁 絵、君島久子 文)

 人柄の良い絵本作家にも複数、出会えましたが、しばらくして絵本界をよく知るにつれ、現代絵本作家界においても日本画界同様、作家の質の低下が起こっている事に気が付きました。文章はともかく、私の本業の”絵”に関しては、納得いく作画レベルの絵本はほんの僅かでした。かつての、いわさきちひろ や 赤羽末吉、太田大八、佐藤忠良(本業は彫刻家)等のような優れた絵本画家が輩出された黄金時代は、既に終わっていたのです。今の絵本界は一見、テレビ等でも多く取り上げられ隆盛の様相に見えますが、その実は、軽薄なマンガ風イラストやヘタウマ(実はヘタ)絵本ばかりが増え、本当に芸術的画力のある作家が実に少ないのです。絵のアマチュアや芸能人 等もどんどん参入してくるので、日本画界同様、絵本界は総素人化しているのです。
 絵本作家界は他人の絵の事をとやかく言わない原則があるようですが、私は本来、純粋美術の人間なので必要とあらば明言するのですが、実際にお会いした絵本作家の中では、いわむらかずお さん がデッサン力・絵本的思想において特に優れていると感じました。また、浜田桂子さんや和歌山静子さん、小泉ルミ子さん、長野ヒデ子さんのような、絵の是非はともかく、メッセージ性の強い優れた絵本を描かれる作家もおられます。田畑精一さんや篠崎三朗さん、黒井 健さん、池田あきこ さん、藤本四郎さん、黒川みつひろ さん、あんびるやすこ さん 等にも大変お世話になりましたが、いずれも、ある種の高い職業的実力をお持ちの世代です。
 童美連には6年間在籍し、理事・展覧会実行委員会委員長・日本著作者団体協議会担当を経験しました。幾つかの学ぶべき点もありましたが、展覧会実行委員会委員長の職は多忙過ぎ、画道との両立は時間的・精神的にも厳しかったのです。また、絵の実力・絵本の実績もほとんどない人が何故か威張っていたりして、諸々面倒くさくなり、理事任期の途中で無理やり退会しました。最初から分かっていた事なのですが、やはり私は、団体・集団での活動には向いていないのです。

いわむらかずお さん「第35回子どもの本と文化の夏の集い」 2017年8月19日 絵本作家・いわむらかずお さん と

中島千波先生個展「後藤 仁 日本画・絵本原画展」(画廊宮坂) 2018年8月20~25日 日本画家・中島千波先生と

 この間、「日本画」から「絵本」の業界に大きく足を踏み入れ、そのウエイトが増していたのですが、やはり本業の「日本画」~純粋美術を大切にしなければという思いが募りました。絵本は「絵の本」なので、絵が最大級重要だと私は考えていましたが、業界では文と絵のバランスを重視する傾向が強く、どちらかと言うと、絵よりも文が高尚だという思考もあるようですね・・・。私は生来の画家~絵描きです。ただひたすらに、絵を描きたいのです。私は国語はかなり得意だったので、必要ならば絵本の文も書けますが、基本的には絵を十分に描ければ満足なのです。
 現代日本を代表する日本画家・中島千波先生にお会いし、推薦をいただけたので、2018年に日本美術家連盟(美連)に入会しました。絵本作画と並行しながらも、日本画家としての立場を中心軸に、絵を探究したいと思ったのです。そこでここ数年、やる気のありそうな日展系の日本画家達とグループ展・講演会等を開催したりもしました。面白いには面白くもありました。しかし、やはり画家はイラストレーターよりも更に我が強いもので、自分が一番目立ちたい、自分が一番偉い、という姿勢が全面に出るのです。また現在の日展の迷走・低調ぶりが現われたのか、日展準会員ともあろう者が、純粋な画道から逸れた雑多なイベント企画ばかりを立ち上げたり、素人の画商まがいの人を連れてきたりするので、私はだんだん呆れてきました。これでは画家~日本画家ではなく、ただの目立ちたがりのパフォーマー・イベンターです~。これも違うなと諦観した私は、やはり当面、一人で歩むしかないと覚悟しました。
 仏陀もこうおっしゃられました、「旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。」(「ブッダの真理のことば」中村 元 訳/岩波文庫)
 厳しき画道を進むには、本当に同行するに相応しく、息の合った、優れた画家が現われない限りは、一人で求めるしかないのです。私もかなりの偏屈・変人ですので、私に合わせられるような奇特な画家の登場は理想でしかなく、実際にいるとは思えません・・・。
 ちなみに、「日本画家」という名称は、明治時代初期に作られた新名称であり、私にはどこか違和感を覚えるので、日本画壇への拘泥もない私は、日本における画家の古称である「絵師」という肩書きを10年位前に使用していたのを、最近再び、使い出したのです。職人性・芸術性の両方を合わせ持つ絵描きでありたいという意味を込めています。
 絵の発表形態としては、展覧会や出版物 等、時代と必然性に応じて、様々な表現手法を駆使する事でしょう。残りの作家人生、どの立ち位置にいようとも、日本画の画材を純粋に用いながら、一枚絵や、絵本等の物語絵を、全身全霊で描きつくし、美の求道を生きられたら幸いです。

  絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁 

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

2020-08-20

「日本画の将来を真剣に憂う」日本画家・絵本画家 後藤 仁

 これから書く内容は、かなりきわどい内容になるが、私が永年、奥義を求める「日本画」の世界が、そのような陳腐で低俗な物でない事を願って、それでさえバブル経済崩壊後の日本画等の純粋美術の低迷の中、このまま完全に滅びてしまわないように、反面教師、また、強い自戒の念を込めて、あえて、正面から触れておかなければならないのだ・・・。
 決して、作家個人や特定の団体の責任を追及するという趣旨ではなく、日本における日本画・美術界全体の将来を思って、ひ弱な一画家が述べるのである。日本画を愛する一変人画家の戯言と、許していただきたい。

 日本画に籍を置く人なら誰しもが知っている、悩ましい事件(知らない人は、多分、もぐりである)・・・、1979年、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった院展の人気作家・下田義寛先生が、海外の写真家の作品をそっくり盗作したと言うのだ。当時、テレビニュース・新聞で報じられ、東京藝術大学の上司に当たる平山郁夫先生が陳謝し、当人は東京藝術大学教授の職を退くという事態に陥った。下田教室で学んだ或る先輩日本画家によると、当人は普段から他人の写真を、そのままシルクスクリーンに起こして、日本画の骨描きとして使用していたとか、していないとか・・・。
 ところが後年、私も中学・高校時代から尊敬していた、平山郁夫先生自身の作品への盗作疑惑が起こった。平山先生の先輩日本画家・岩橋英遠先生の赤トンボの絵に酷似していると言うのだ。さらに、この事案は、一般的にはほとんど知られてはいないが、私の知識によると、平山先生の代表的画題のラクダのモチーフは、そのシリーズが描かれるようになる1968年より前の1967年に岩橋先生が描いた、「神々とファラオ」という名作の下部に酷似している。しかし、これらのレベルは、オマージュの範囲に入るのではないかと私は考えてきた~。
 売れっ子を多数抱えてきた、その院展(日本美術院)は、ここ30年以上、師匠や先輩画家の作品に酷似した、真似したような作品ばかりが目立ち、何故だか、そのような酷似した作風の作品ばかりが、審査に受かるのだ。院展系作家の話によると、派閥ごとに下図・本画研究会があり、審査の事前にほとんど合否が決まっていると言う。若い作家は皆、YESマンとなり、先生への忠誠の証として、そっくりの絵を踏襲するのだろう。これでは良い絵が描けるはずもなく、当然、模倣が横行する事になる。
 先の例だけではなく、もっともっと事案は潜在していると思われる。かなり前、私の友人がたまたま見付けたのだが、日本画界の最大派閥・平山郁夫先生門下でもあり、東京藝術大学で教鞭も取っていた U先生の、春の院展出品作品が、日本の著名風景写真家・竹内敏信さんが山の旅の途上、偶然撮影できたという、「山の小道」の写真に、そのまま構図・内容とも酷似している。ただ、その中央に、後から子犬を描き加えただけである。風景写真家が偶然撮影できた人知れぬ光景を、画家が同場所でスケッチできたとは考えづらい。間違いなく、竹内さんの写真集の写真を、そのまま使ったのである。多分、著作権使用許諾は取っていないだろう(取っていても、作家の制作姿勢としてはいかがなものか・・・)。日本人作家は著作権侵害の訴えを、ほとんどしないので、今の所、裁判沙汰にならずに助かっているだけである~。
 その他にも、私が後藤純男先生の門下展「翔の会日本画展(銀座松坂屋)」をやっていた時、院展にも所属する女性作家であるが、彼女が沖縄を描いた絵の人物像が、その当時、流行っていた、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」に登場する国仲涼子さんに酷似しており、明らかに写真をそのまま模写したのが分かった。少し参考に使う位なら、あり得るだろうが、あからさまなので、困るのである。
 時間と暇がある人なら、その気になって探していけば、その他にも多々、見付かるだろう。院展・日展辺りの団体作家の中で、写実・リアルを謳う現代日本画家(洋画家も)の多数、また、写真的な作風の無所属作家でも、他者の写真作品等からの模倣・盗作が相当数、常態化しているのである・・・。

 それにしても下田義寛先生盗作事件で、院展の同人辺りは、さすがに懲りたのではないかと思っていたが、今回、平山郁夫先生の直弟子の中でも四天王(田淵俊夫先生、福井爽人先生、手塚雄二先生、宮廻正明先生)とも言われ、東京藝術大学名誉教授でもあり、テレビ等にも度々登場し、大きな権力・権勢をお持ちの宮廻正明先生が、あからさまな盗作をするとは・・・。情けない・・・。
 ソウル・フラワー・ユニオンという日本のロックバンドのCDジャケットの写真と、宮廻先生の春の院展出品作品とが、瓜二つだと言う。新聞やネットニュース等でも報じられ、大騒ぎらしい。本人曰く、「外国旅行の途中で、他人が持っていた写真を、その人の許可を得て、その場でスケッチしたものを、日本画に描いた・・・。」とは、虚しい言い訳である。ネット上では2作品を比べて、どれだけ似ているかが取り沙汰されている。似過ぎている。画像を左右反転させただけである。スケッチだけでは、こうも似ないだろうが、仮に言い訳が事実だとしても、その写真の持ち主の許可ではなく、その出所・著作権者の確認はしたのか?。他人のアイデアによる写真をまんまスケッチして、自己のオリジナルの絵が描けるのか?。・・・明らかに、芸術家としての認識の欠如も甚だしい。宮廻先生の絵は前々から、極めて写真的でもあり、また、自力だけでの取材ではなかろう事は予想していた。絶対、写真の素人では撮影できないであろう、船の上空からの光景等、著作権使用許諾の有無は知らないが、明らかに他者の写真を使用していると、私は感じていた。今回の事件で判明したのは、やはり、今までもそのような制作姿勢で、長年、絵を描いてきたのだろう。
 その延長であろうか、院展における、宮廻先生の多数の弟子筋の絵は、またこの上なく、先生の絵の技法・内容に類似している。類は友を呼ぶのか・・・。その他にも、院展・日展・創画会等の団体内には、派閥ごとに類型的・類似的な作品が実に多い。これが現在の団体展の現状である。
 もし、私の師である、後藤純男先生(日本美術院同人理事、東京藝術大学名誉教授、日本芸術院賞・恩賜賞受賞者)が生きておられたら、さぞ、今の院展の現状を嘆き、憤慨した事だろう。後藤先生は、日本画を描く上での鉄則として、何よりも、写生旅行と、写生を重んじておられたから・・・。

 かく言う私も、他者の写真集・図鑑等を、ごく部分的な参考資料に使う事はある。特に「絵本」の原画を描くようになってからは、多くの小物・衣装や建造物等の参考・時代考証には、資料画像は欠かせない。ただ、絵の中の主要ではない一部分だけに、しかも、必ず自分独自のアレンジをかなり加えるようにしている。また、絵全体のイメージやアイデアを、他者の作品から持ってくる事はあり得ない。必ず自身で現地取材に赴き、基本的には写生(スケッチ)し、時間がない時には自身で写真を撮る。海外写生旅行では、病気・怪我・トラブルが絶えず、過酷過ぎる取材旅になるケースも多い。まさに、命がけの一人旅なのである。人物を描く時には、高いモデル代を支払って描く場合もある。
 どうして、このような多大な苦心を払って制作するのか、何故なら、その作品の創造性・個性・独自性というものは、現代美術作品には欠かす事ができない、最重要要素だからだ。その人の作品を、その人のオリジナルとなせる物、それは、その”創造性・想像力”に他ならない。それを忘れた、又は、その苦労を厭う作品など、「芸術作品」であるとは、決して言えない。また、そのような作品創作で満足する画家など、所詮は「芸術家」とは言えない。
 私は強い自戒の念を込めて、今回のような日本画団体・日本画家には大きな怒りも感じるし、激しく残念でならない。こんなようでは、思ったよりも早くに、近い将来、明治以降に名付けられた、いわゆる「日本画」は必ず滅びるであろう・・・。
 私個人は、日本画画材の面白さ・多様性・多彩性に大きな未来・可能性を感じるし、大和絵・唐絵から1000年以上も続く、日本画の歴史と伝統も素晴らしいものであると、心から信じている。私の悪い予感が当たる事のないように、画家は常に、自己の創造性・感性をたくましくして、誠心誠意、画道に勤しまなければならないのである。

 絵師(日本画家・絵本画家) 後藤 仁

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

2019-05-12

「夢二夜」~東京藝術大学、後藤純男先生と加山又造先生の思い出 後藤 仁

 私は時に、正夢に近い、予兆を伴う現実感の高い夢を見る時がある。本当の芸術家とは、人並み外れた優れた直感力を持つともいうので、画家の直感も、あながち侮れないものである。

           *

 2019年(令和元年)5月4日(土)。この日、随分久しぶりに、後藤純男先生と飲んだ・・・・・夢を見た。
 何かの学校の団体国内旅行の設定で、大きな旅館(ホテル)に泊まっていた。自分の部屋の場所に迷って、狭い通路をたどると、たまたま庶民的な小さな食堂に紛れ込んだ。すると、そこで後藤純男先生が、食堂のおばさんに酒をついでもらいながら、一人で飲んでいた。後藤純男先生は、「ああ、仁さんですか~」といった感じで、私を席に招き、私は先生に焼酎をついでもらい、いただいた。最後は、かなり酔っぱらった、・・・・・という奇妙な話である。その時の先生はとても嬉しそうな様子であった。
 しかし、私の夢は大概とてもリアルであり、今回も特に後藤純男先生と出会う場面は誠にリアルであった。本当に、夢で天国の先生に会ったのかも知れないな・・・。
 
 私の師であり、3年程前にご病気で亡くなられた後藤純男先生は、日本を代表する十指に入る現代日本画家(昭和後期~平成時代)であり、東京藝術大学名誉教授、西安美術学院(大学)名誉教授、日本美術院(院展)同人理事・監事、日本芸術院賞・恩賜賞受賞者の巨匠である。一般的には、昔、ネスカフェゴールドブレンド「違いがわかる男」のCMに出演された事でも有名である。
 10数年前までの先生がお元気な頃には、埼玉県や北海道・沖縄・那須のアトリエ兼別荘に度々おじゃまして、多い時には週に2回位のペースで、お酒を飲み、絵や旅の話等を聞かせていただいたものである。先生には私が知るだけでも、奈良にもう一つの計5か所の別荘アトリエが、千葉県の本宅以外にあるらしい。ただ、先生は通常、埼玉のアトリエに常駐していて、本宅には家族しか住んでいなかった。私は本宅と、奈良以外の別荘の5か所は訪れている。
 今思うと、日本画がまだ昭和からの全盛期の最中(終盤であるが)でもあり、いい時代だったな~。先生のアトリエにはひっきりなしに、画商やら百貨店マンやら日本画家やら財界人やらが出入りしていた。何故か、政治的世俗を嫌う感のある先生は(政治的権力の強かった平山郁夫先生辺りに対する対抗心なのかも知れない)、政界人だけは晩年近くまでは敬遠していたようだが、晩年は多少の交流を持ち、旭日小授章の受章等につながったのだと思う。(後藤先生は名実共に文化功労者になる資格は十分にあったにも関わらず、結局、最期まで受けられなかったのは、政治との関わりを避けてきた事の影響が大きいと見ている。)
 私が先生のアトリエに伺った時、たまたまお会いした人だけでも、西安美術学院の教授陣や、埼玉県警の警視正(当時、埼玉県内に確か4人しかいないとか)夫妻だとか、複数の百貨店(そごう、西武、東武 等)の美術部長だとか、様々なジャンルの大物がいた。警視正も先生の前では頭をペコペコ下げて、私にまでも愛想をふりまかれていた。デヴィ夫人がアトリエに来た時の、先生とのツーショット写真も置いてあった。銚子電鉄の社長とも親しく、かつて銚子電鉄 犬吠駅舎内に後藤純男美術館もあった。上富良野町とのご縁で、上富良野には巨大な後藤純男美術館が建ち、評価額20億円以上とされる作品群が上富良野町に寄贈された。また、読売巨人軍の長嶋茂雄氏は、後藤純男先生の作品の大ファンであるという。先生は、極めて広く深い人脈を持っていた。
 そんな巨人的・超人的なご活躍を見せた屈強な先生も、病に倒れた。人間的にはワガママで自由奔放なお人であったが、事、”絵” ・ ”日本画”に関しては、誠に真面目で、とても素晴らしくて力強い作品を描かれた、まさに私の尊敬する師であった・・・・。
 
 夢の中でも、あの頃のまま、ゆったりと自由気ままに酒を楽しむ先生のいらっしゃる、仙境のような光景に、誠に暖かい気持ちになって目が覚めた~。


後藤純男先生と私「後藤純男先生 退官記念展」(1996年10月7日、東京藝術大学資料館) 後藤純男先生と私

後藤純男先生と私「後藤純男 画伯を囲む会」(2004年1月4日、野田 東武ホテル) 後藤純男先生、井崎義治 流山市長と私。他にも、野田市長や関宿町長等も来られていました。

東北写生旅行 後藤純男先生「東北(田沢湖・角館)写生旅行」(1996年11月20日) 駒ヶ岳、後藤純男先生スケッチ中。先生は視点が変わるからと言う理由で、常に立ってスケッチをされます。先生の絵に対する真面目さは恐るべきものがあります。 

 5月6日(月)。今度は、加山又造先生が夢に現われた。先日の後藤純男先生に続き、日本画の超大御所が夢に出てくる・・・。しかし、後藤純男先生はこれまでにも、度々、夢に現れる事があったが(実物より20倍位も巨大なアトリエが出てきたりする)、加山先生が現われたのは初めてかも知れない。
 夢の中で私は、大規模な日本画の「個展」を開催していた。すると、「この絵は院展みたいだな~」と言っている声が聞こえるので近づいてみると、加山又造先生だった。多分、前の画廊宮坂での「個展」で中島千波先生に似たような事を実際に言われたのが、夢では加山先生の言葉として現れたようだ。私はかつて、古い時代(30年以上前)の院展への憧れは持っていたのだが、今は長らく、そことは異なる領域・画法を模索してきたので、少し残念でもあったが、画題や描き方には、やはり院展の影響がいまだにあるのだろう・・・。

 加山又造先生には、東京藝術大学の日本画合同研究会で少し教わっただけだが、実に印象深い先生だった。時々校内で会ってご挨拶すると、「元気ですか~」と、か細い枯れた声で答えてくれた。加山先生が東京藝術大学を退官された時の「加山又造 退官記念展」(東京藝術大学資料館)では、直筆サイン入りの図録をいただき、今でも大切に置いてある。

           *

 私が東京藝術大学の受験時の面接では、平山郁夫先生、加山又造先生、後藤純男先生、福井爽人先生 他、10名余りの先生方が正面に居並び、窓の逆光を後光のように受けて、光り輝いていた。さすがにこの時は緊張したね~。
 今思うと、あの頃が、明治時代から100年余り続く日本画黄金期の最後の時代であった・・・。明治以来、多少の盛り上がり下がりはありながらも、日本美術・芸術界の頂点を維持してきた日本画界。昔の人なら、横山大観、菱田春草、竹内栖鳳、上村松園、鏑木清方、小林古径、前田青邨、伊東深水 等といったら、ほとんどの人には通じたが、今の若い人では東山魁夷、平山郁夫までがギリギリであろう・・・。院展の平山郁夫先生も後藤純男先生も、創画会の加山又造先生も、日展の東山魁夷先生も高山辰雄先生も亡くなられた今、日本画界も東京藝術大学日本画教授陣も、昔ほどの偉大さはなくなった・・・。

 しかし、時代の変遷で、アート・美術文化の中心が、現代アートや、更にはマンガ・アニメ・ゲームに移った今日でも、まだまだ日本画の輝ける道はあると、私は信じている。今の所、日本画界の権威だけは、高さを何とか保っているが、この先は分からない・・・。しかし、黄金期の再来とまではいかなくても、シルバー期位は、この後の時代にも演出できるのではないかと信じている。
 個人的には、まだ日本画の勢いがあった頃に、巨人とも呼べる偉大な歴史的な日本画家に直接、お会いでき、学べた事は、何よりも私の宝なのである。
 令和時代の始まりに、このような不思議なお二人の夢を見たというのも、何かの啓示なのかも知れない。私は、今後も、日本画の新しく輝ける方策を模索しながら、日々、画道に精進するしかないのである。

  絵師(日本画家・絵本画家)  後藤 仁

 

テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

2018-01-09

【日本画・美人画論】日本画・美人画の真髄とは 後藤 仁

絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』表紙・部分絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(表紙・部分) 後藤 仁

【日本画・美人画論】 日本画・美人画の真髄とはどこにあるのだろうか?

 江戸時代までの狩野派、琳派、大和絵各派、水墨画各派、浮世絵各派といった様々な流派をまとめて、「日本画」というカテゴリーが明治の初めに確立してから、およそ140年が経った。明治時代には、竹内栖鳳がライオンの絵を描いただけで、「これは日本画の花鳥画の画題にあらず、日本画とは言い難し」と師匠筋から厳しく批判・非難されたそうだ。
 現在では、日本画の画題・テーマに関しては何でもありの感であり、日本画の画材(岩絵の具、水干絵の具、膠 等)を用いさえしていれば「日本画」とされる。
 しかし、それでは日本画材を使用していれば、何もかもが本格的な日本画とされる事になり、日本画界がじょじょに勢いを失いつつある現在、イラストレーション・マンガ・アニメーションが全盛の昨今、日本画が存在する価値観を見出しにくい。私はやはり、他の絵画ジャンルにはない「日本画」ならではの独自性・優位性を意識して描いていきたいのだ・・・・。

日本画「トン族琵琶歌~チャンファメイ」日本画「トン族琵琶歌~チャンファメイ(中国 貴州省)」(P25号・部分) 後藤 仁
 
 絵画には「画品」という観念がある。古来より、日本画も美人画も、「画品」、つまり”絵の品格”というものが大切だと考えられてきた。あと、絵画作品は、「骨格」がしっかりしていないといけないとされる。骨格とは、ただ人や動物の骨をとらえる事をさすだけでななく、物体の構造を解明しようとする精神の働きであり、万物の”本質”に迫ろうとする意識の事で、人物画のみならず、花鳥画・風景画・静物画 等、全ての絵画ジャンルに必要な要素である。その辺りが、絵画と、イラスト・マンガ・アニメとを分ける重要なポイントなのではないか。
 本来、絵描きの私が他人の作品をとやかく言う立場ではないのだが、近年の日本画界の動向を見ていると思う事が多々あるので、どうせ私の絵画論など出版物(本)になる機会は少ないだろうから、ブログで述べておこうと思う。~~

 最近、私は、日本画家が「絵本」を描く場合の問題点を、度々ブログ等でも述べてきたが、逆に近年、他ジャンルから参入し、日本画家を名のる人も度々見かける。かつて、院展・日展・創画会の三大派閥一辺倒だった保守的・閉鎖的な日本画界に、近年、無所属作家の活躍が目立ち始め、業界の再編成が行われようとしている。そのような日本画壇・日本画団体の空洞化・弱体化の空気を察してか、他ジャンルから日本画界に新規参入する作家も度々見かけるようになってきた。様々な絵画ジャンルが垣根を越えて切磋琢磨し合うのは実に良い事で、絵画界全体の活性化につながる。ただ、それぞれのジャンルには、それぞれのこだわりもあり、人間関係もあるので、実力のない者の安易なる他ジャンル参入は好結果を招かないものである。
 近年になり墨彩画を描き出した有名芸能人が日本画家と名のっている例等は論外だが、ある著名な人物画イラストレーターも近年、日本画家を名のり出したし、独学で日本画を学んだとかいう、ある美人画家は最近、話題であるらしい。
 後者の二人は、上手いは確かに上手い人達であるが、いずれも本格的に日本画や絵画の基礎(デッサン・写生、着彩、模写 等)を学んでいないようで、絵画的な骨格感を感じない。また、その三者目の美人画家は、絵が顕著に写真的でもあり、画品に欠けるところがあり、私等が見ると、通俗性が目につき、ひきつけられないのである。
 また、幼少期や大学時代から日本画をおさめた本格的とされる日本画家でも、同様の問題を感じる作家は少なくない。近年、テレビにも頻出する、美人画・家ならぬ美人・画家ともてはやされる日本画家の絵は、上手いは上手いが、やはり画品に大きく欠け、どうしても良さが理解できない。まあ、いずれも今、とても人気の方々らしいので、少なくとも私よりは腕は確かなのだろう・・・。

日本画「クマリ-The Living Goddess-(ネパール)」日本画「クマリ -The Living Goddess-(ネパール)」(F50号) 後藤 仁

日本画「Beautiful village - 美しき村 -(ベトナム)」日本画「Beautiful village - 美しき村 -(ベトナム)」(F30号) 後藤 仁
 
 これまでの日本画史上でも、日本画の「画品」については個性・勢い等を阻害する要因とも考えられ、大正時代や昭和後期~平成時代には、品格にとらわれずに、下品だろうと通俗的だろうとエログロであろうと、インパクト・芸術性があれば良しとする考えが度々台頭してきた。たしかに私も若い時分(30歳代まで)にはそのように考えた。ただ、今日のように多くの絵画ジャンルが入り乱れる時代、日本画の独自性・優位性が見出せず、このまま行けば日本画界の衰退が必定の現代で、私が日本画ならではの本質的に重要な”真髄”とは何かを考察する時、改めて「画品」というものの重きに思い至るのである。
 大正から昭和初期に活躍した美人画家の鏑木清方、・・・さかのぼれば、長谷川等伯・円山応挙・伊藤若冲 等の崇高なまでの「画品」が私の目指したい境地であるが、容易には到達できない高みにある。
 私はこれからも高き審美眼・美意識を磨き、保守的・様式的ではない、清新で深遠な私ならではの「画品」を追求し、日々、制作にいそしみたい。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁

テーマ : 絵画
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-12-16

「絵本」「日本画」の模倣者たち

絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』表紙・表絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)

 何度かこのブログでも触れた事ですが、ごく最近になって、私の知人でもある東京藝術大学等を卒業した日本画家達が、にわかに「絵本・絵本・・・」と言い出しました。私が把握しているだけで、院展系・無所属系日本画家6~7人はいますが、私の知らない作家を入れると、実数はその数倍~数十倍はいるでしょう。実際に児童書出版社から「絵本」を出版したり、「これから絵本を描きたい」等と公言しています。その中で、直接、私に相談してくれた人は一人だけで、私の予備校講師時代の教え子であり日本画界の後輩である、その日展所属 日本画家の画力・思考には素晴らしいものがあり、共に活動したいと思える人物です。それ以外の人は、他人に相談する義理は元々ないにしても、私に隠すかのように、こっそり絵本を出す始末です。
 私は約10年前に福音館書店から絵本制作の依頼を受け、5年近く前に初絵本を出版しました。「福音館書店こどものとも」は出版までにかなりの期間(作家・編集者にもよるでしょうが、およそ5~6年)がかかるので有名ですが、「福音館書店かがくのとも」や他の出版社からなら、半年~3年間程で出版に至るでしょう。つまり、彼らの出版時期から考察すると、どう考えても私が「絵本」の世界で活動し出して、私の評判をフェイスブックやブログ等のネットで知って、その活動を真似して、にわかに言い出したに違いありません。ちょっと位、「自分もやるよ!」と知らせてくれてもよいでしょうに・・・。日本画家には、従来から秘密主義の人が多いが、ここまで短絡的であからさまになると、人間的な道義心に欠ける行為と言えましょう。

絵本『犬になった王子(チベットの民話)』表紙 小絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)

 日本画家で「絵本」を描いたので知られている作家は、秋野不矩先生(文化勲章受章者)、堀 文子先生等の日本画界でも特別に著名な作家ですが、それらは日本画制作の傍らで少しだけ手掛けたという感覚です。院展・日展は縛りがきついので、少し昔は、絵本を描けるのは、ほとんど無所属か比較的自由度が高い創画会の所属作家に限られました。日展の東山魁夷先生が若い頃に絵本も手掛けていた事が最近知られて来ましたが、生前、東山先生は絵本を描いていた事実をひた隠しにしていたそうです。
 かつて、純粋美術(日本画・洋画・彫刻 等)の世界からは、出版美術・イラストレーション等の商業美術を低俗なジャンルと見る傾向が伝統的にありました。その為、よほど著名なトップクラスの作家は例外として、通常の日本画家が絵本等を手掛けると、ドロップアウトした・邪道に走った等と陰口を叩かれ、画商やコレクターが手を引いたと言います。これ程、イラスト・マンガ・アニメが隆盛を極める今日でも、その傾向は根強く残っています。それは古過ぎる日本画壇の体質によるもので、時代に即した意識改革ができないと、将来、日本画界はいよいよ衰退の憂き目を見る事になる恐れもあるのです。
 私は、本当に質の高い「絵本」は、純粋で高尚な美術品になり得ると確信しています。その為にも、日本画家として活動しながら、本格的に絵本(出版美術)の世界にも身を投じたのです。今の日本の絵本界の現状を俯瞰して、もっともっと優れた絵本を子ども達に提供しなければならない危機感を感じました。かつてのアーサー・ラッカムやビアトリクス・ポターや いわさきちひろ や赤羽末吉、滝平二郎のような芸術的な絵本を・・・・。

挿絵本『おしゃかさま物語』表紙挿絵本『おしゃかさま物語』(佼成出版社)

 ”絵”の世界も熾烈な競争社会なので、もちろん活動自体はその人の自由・勝手ですが、今まで絵本等に全く関心がなさそうに見えた人や、全く口にすらした事がない人まで、ごく最近「絵本・絵本」と言い出しました。バブル崩壊後、「日本画」の売り絵だけで食べて行くのは至難の業なのですが、事実としては出版不況の昨今、「絵本」を一冊出せるだけでもましな方で、それで食べて行くのは、これまた至難の業です。つまりはどちらの道も、極めて厳しくて、「日本画でダメなら絵本で・・・」とはいかないシビアな世界なのです。
 近年の日本画家、特に東京藝術大学の院展系の日本画家は、皆、売れている先生や先輩の画風・活動形態をそっくり模倣するきらいがあり、私が現代日本画壇に少々の嫌気と大きな疑問を感じた一因にもなっています。私が学生だった30年以上前から、福井爽人先生の白緑(びゃくろく)もみ紙や、宮迫正明先生の縦のハッチング、田淵俊夫先生、手塚雄二先生、吉村誠司先生辺りの画風をそのままマネている日本画家が山のようにいます。悲しい現実だ・・・。なぜ、「人がその道を行くなら、俺はこの道を行く。」とならないのだろうか? 個性・独自性・・・それこそ絵描きの命脈なのではないのか。
 私は、現代版の新しい「物語絵」を長年模索する中、福音館書店からのお声がけをきっかけに、自ら腹をくくって、本格的に「絵本」の業界に飛び込みました。日本画の長い経歴を一旦打ち捨ててでも、絵本の初心者として絵本業界内で頭を下げながら一から積み上げようとしている所です。その努力・苦労も知らずに、安易に「絵本・絵本」とよく叫べるものだ。
 つまみ食いの感覚で、結構ギャラがもらえたからオイシイ等と言う安直な考えで、日本画家・洋画家が「絵本」を語ると、結局、絵画も絵本もどちらも中途半端な作家に終わるでしょう。また、絵本を生業としているイラストレーターや絵本作家達に申し訳ない事をしていると思わねばなりません。絵本をやるのなら、その業界の事をもっと平身低頭、丁寧に勉強して、業界内での人間関係を作らねばなりません。

絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版)絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版こどものくに ひまわり版)

 私は今、日本画家を基調として、物語絵の表現手段として「絵本」を大切に考えて描いています。日本画・絵本、どちらの業界にも通じて、いずれも本腰を入れて頑張っています。それはかなりの労力・気力を必要とする事で、安易な日本画のエリートぬるま湯に浸かっていた人には酷すぎる事であり、誰にでもできる事ではないのですが・・・。
 「日本画」「絵本」のみならず、前に私が手掛けた手製高級壁紙「金唐革紙(きんからかわし)」でも同様の事が言えますが、世の中には”本物”と”偽物”があります。肩書や表面上の実績だけでは真実はとうてい知り得ません。何が”本物”で何が”偽物”なのか・・・、その識別は極めて難しいのですが、よくよく観察さえしていけば、その一生涯の行動や思考に必ず見え隠れするものです。
 今、私の模倣者が次々に現れて来ました。それは見方を変えれば、私が同世代・後輩作家達に影響を与え、彼らが私の活動を認め、真似せざるを得なくなったともとらえられ、私に脱帽したも同然である事を、彼ら自らが告白していると言っても過言ではないのです。

 日本画家・絵本画家 後藤 仁

絵本『金色の鹿』絵本『金色の鹿』(子供教育出版)


テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

後藤 仁 プロフィール

後藤 仁(GOTO JIN/后藤 仁)

Author:後藤 仁(GOTO JIN/后藤 仁)
~後藤 仁 公式ブログ1~
日本画家・絵本画家 後藤 仁(GOTO JIN/后藤 仁)の日本画制作、絵本原画制作、写生旅行、展覧会などのご案内を日誌につづります。

 〔後藤 仁 略歴〕
1968年兵庫県赤穂市生まれ。15歳、大阪市立工芸高校 美術科で日本画を始める。東京藝術大学 絵画科日本画専攻 卒業、後藤純男先生(日本芸術院賞・恩賜賞受賞者)に師事。在学中より約12年間、旧岩崎邸、入船山記念館、孫文記念館(移情閣)等の金唐革紙(手製高級壁紙)の全復元を行う。卒業以降は日本画家として活動し、中国・インドをはじめ世界各地に取材した「アジアの美人画」をテーマとする作品を描き、国内外で展覧会を開催する。近年は絵本の原画制作に力を入れる。
○絵本作品に『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店)、『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)、『わかがえりのみず』(鈴木出版)、『金色の鹿』(子供教育出版)、挿絵作品に『おしゃかさま物語』(佼成出版社)。『犬になった王子 チベットの民話』は、Internationale Jugendbibliothek München ミュンヘン国際児童図書館(ドイツ)の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。NHK日曜美術館の取材協力他、テレビ・新聞・インターネットサイト等への出演・掲載も多い。
○東京藝術大学デザイン科 非常勤講師、元 東京造形大学 絵本講師。国選定保存技術 金唐革紙 製作技術保持者。日本美術家連盟 会員(ご推薦者:中島千波先生)、絵本学会 会員、日本中国文化交流協会 会員、この本だいすきの会 会員。千葉県松戸市在住。

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絵:後藤 仁 /文:君島 久子 /出版社:岩波書店絵本ナビ


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