2017-01-11

清貧芸術家論・・・絵描きの「清貧」なる生き方

 私はあくまでも一絵描きであり、特定の宗教や思想に傾倒している人間ではないのですが、かつて、ゴータマ・ブッダやマハトマ・ガンジー等がとなえた「無所有」という思想にひかれるところがあります。しかし、俗人であり画家でもある私には、その実践は到底不可能です。

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 私の率直過ぎる言動は、時に他者から大きな誤解を招く場合がありました。先日、大学時代の同級生から久しぶりに電話があったのですが、「仁は昔から権威志向があったから・・・。」という言葉を聞いて、「ああ、他人はそんな風にとらえるのだな・・・。」と思いました。(その電話相手は酒井田柿右衛門の奥さんなので、当人の方がよっぽど ブルジョア・権威者を志向しているじゃないか、と思いましたが・・・。ただ、学生時代の旧友は、歯に衣着せぬ発言で正直に言ってくれるので、その内容に一理ある可能性も考慮して、心に留めておきましょう。)確かに、年配者ほど肩書にこだわるので、本当は自分の価値観ではないのですが、あえて肩書や世間的評価を強調する場面が、近年の私にも度々あります。そうしないと周囲の人々から、特に年配者から低く見られる嫌な経験を何度もしているからなのです。大多数の世人は、純粋にその人の”絵”の実力や努力を見てくれないもので、その人の背景ばかりを見たがるものです。

 たまたま私は、中学生・高校生の頃は、学校で1~2位を争う位に足が早かったのですが、高校の体育祭の徒競走で1位を取ったりしているのを見たクラスのある男は、「後藤は戦争があったら、いち早く駆け付けて戦うような性格であろう。」という意見を述べました。それを聞いて、「ああ、世人はそんな風にとらえるのか・・・。」と思いました。曲解もはなはだしいですが、私が大の厭戦家・非暴力主義である事を知らないのでしょうね・・・。大阪市立工芸高校 美術科では、私は美術の実技も学科も体育も全て群を抜いた首席だったので、周囲の妬みも頂点に達していたのでしょう。卒業直前に美術科で作った小冊子があるのですが、クラス40名の中で「最も出世しそうな人ランキング」第1位には、私が選ばれていました。他人は勝手な観測をして、勝手な警戒をするものです。
 東京藝術大学 日本画専攻では、さすがに私より絵の才能のありそうな人がクラスに2~3人はいましたが(手先の器用さでは、多分私に優る人はいなかったでしょう)、誰よりも真面目にコツコツと描き続ける私に出世の脅威を感じた人もいたようで、クラスの中心的な一部の人達から、言葉と態度での攻撃を受けた事も度々あります。多くは嫉妬・恐怖心からの言動なのかも知れませんが、いずれも私の本意を突いておらず、誠に残念な事です。
 私は子供の頃から、”絵”を描く事のみに心底からの幸せを感じて来ました。ただそれだけの価値観です。ある種の異常性なのかも知れませんが、それに関する事以外には何の魅力も感じないのです。社会的な出世欲や金銭欲・物欲は、一般人に比べて極めて低い方だと思います。

 大学の時、1年生より2年生が、学部生より大学院生の人達が偉そうにしている日本画界の縦構造を目の当たりにして、大いに疑問を感じました。大した事もせず、ただ、そこにいるだけでも、人は勝手に進級して行きます。それなのに上の学年だという理由のみで、偉そうにできるのだろうか・・・。それが、講師・教授、院展作家ともなれば、雲上人の様相です。大学2年生の頃には疑問は膨らむ一方で、「自分はこんな低い実力のまま安易に出世して、下の者に威張りちらすような人間になってはいけない・・・。」と思い悩むようになりました。大学1~2年時の私への先生や先輩・同輩からの評価は、そのまま行けば後藤は必ず出世して来るだろう、という雰囲気でしたが、私もそんな周囲の視線をひしひしと感じていました。
 当時の私が、夢を抱いて入学した東京藝術大学に幻滅を感じ、2年生の終盤から2年間余りも通学を止めた理由には、切磋琢磨しあえそうな真の絵描き仲間に出会えなかった失望感の他にも、出世を遅らせたいという奇妙な思考もあったのです。大学を2年間も留年する事で、私が落第生の烙印を押されたなら、誰も私が「出世を狙っている、権力を欲する」等という根も葉もない噂を流さぬだろうと・・・。また、そのような重い足かせを自分に着せる事で、私自身が「慢心」から遠ざかり、茨の路を歩めるだろうと。それでこそ、本当の芸術家になれるだろうと・・・・。
 私はやはり、かなりの変わり者なのでしょうが、当時は若気の至りも強く、今以上にバランスの悪い人間だったようです。

 実はそのような逆行行動は、高校・予備校・大学と度々取って来ています。美術予備校・立川美術学院 時代にも、あえてふざけたバカ生徒のふりをして授業にほとんど出ないという奇行を取っていました。そんな私の有様を見た予備校の時のほとんどの知人は、未だに私の事をバカな男だと思い込んでいるようですね。彼ら彼女らは、私の人生を通した演技に、まんまとだまされたのです。大学時代の知人にも、「後藤はいい加減な人間だ、何を考えているか分からない・・・」とか、だいたい評判が悪いようです。その反面、中学校・高校時代の先生や後輩の多くは、私の事を「天才」「超人」「宇宙人」等と言って、過大評価してくれていました(同輩からは大抵嫌われますがね)。ここに、私にも理解しがたい不思議な二律背反が起こっています。自分の事は案外よく分からないものですが、実際の私は、その評価のどちらでもなく、ただの「絵を描く事が好きな変わり者」なのではないかと考えています。
 確かに私は人並み外れてバランスの悪い変わり者である事は間違いないでしょう。自意識過剰の部分もあるのでしょう。そこが悟りを開けない一番の要因なのだと理解しています。ただ、懸命に制作に没頭する姿や自信過剰とも取られる言動からなのか、あらぬ疑い・・・「権力を志向している」「自分だけの利得を考えている」だのといった憶測が未だに生きている事に驚くのです。
 そのような憶測の要因があるとすれば、ひたすら自己の制作に打ち込む姿勢が自分本位ととらえられる可能性や、「権力への反抗心」が他人からは「権力への志向」としてとらえられる可能性が考えられます・・・。私は間違った権力者が世間に幅をきかす事に、大きな危惧を抱いています。元来、社会の歪みや矛盾には、かなり敏感な方で、特に弱き者が強き者に抑圧される事象が許せないという根っからの性質があるのです。間違った思想を持った人物が世間から評価され、権限を行使して、弱き者達を駆逐していく構造には許せない憤りを感じます。私は、偏った権威権力を毛嫌いしている人間なのです。それは、美術界もその他の一般社会においても同じです。もし世の中にそのような傾向が強まって来るのなら、私の小さな力ですが出来る範囲で一絵描きとして、作品表現上で抵抗していかなければならないとの信念は持っています。

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 「茨の路を行く・・・」口で言うのは簡単ですが実践するのは至難の路です。私は日本画界での安直な出世から、あえて遠ざかり、無所属の不安定な路を歩みました。豊かな家柄でもなく地方出身の私が、絵の世界で生きていくのは、至難の業です。

 私は高校3年生で初めてアルバイトをしましたが、民芸品店の販売員で時給は確か560円位でした。その後、高校3年の終盤、実家を離れ大阪の鶴橋の ぼろアパートに住み込み、新聞配達とファストフード店員を掛け持ちしながら2か月間ほど高校に通いました。当時の私は親との折り合いも悪くて、早く家を出たかったのです。高校卒業後は上京して、新聞奨学生として新聞配達・集金をしながら1年間、美術予備校に通いました。私の独り立ちは、のっけから波乱含みの船出だったのです・・・。

 大学3年生から2005年末までの約12年間、強欲な経営者の元で「金唐革紙(きんからかわし)」という手製壁紙の復元製作を手掛けたりしました。このブログにも書いていますが、その金唐革紙製作の重労働と自身の日本画制作を両立させるのは、かなり過酷な路でした。ただその頃は、大学卒業後、金銭的には最も安定していた時期で、その点だけは経営者には感謝の念を忘れてはいません。(とは言っても、金唐革紙の賃金と日本画の収入は、合わせても高校卒の初任給程の微々たるものです。)
 大学卒業後、しばらく金唐革紙の仕事が無かったので、1年余り、取手市にある居酒屋のパントリー(飲み物担当)の仕事もやりました。私は誰よりも早く正確に飲み物を作れると評判になり、「パントリスト」という称号で呼ばれました。あまりうれしくはないですがね・・・。
 金唐革紙 製作研究所の経営者の脱税も発覚し、その独善的な振る舞いにも我慢の限界が来て、2005年末、製作研究所を完全に離れました。しかし、それからがまた大変でした。今の私の日本画作品評価額(号3~4万円)で売り絵だけで食べて行くには、1か月間に、F30号位の中品なら1枚、F6号位の小品なら4~5枚をコンスタントに売っていかないと不可能です。何故なら、日本では画商の権限が強くて、百貨店・デパートで画商を通して絵を販売すると、画料(下代)は売値(上代)の20%にも満たない場合がほとんどなのです。バブル期以降、若手作家が絵だけで食べて行くのは奇跡に近い事です。

 金唐革紙を辞めて1年半位は貯金を取り崩しながら、絵の制作だけに集中して生活していましたが、段々厳しくなって来たので、2007年の7月末、とりあえず日雇い派遣労働(時給は800~1100円位)をするしか方法がなくなりました。すぐにできる美術関係の仕事など無いのです。今は倒産した悪名高い グッドウィルという派遣会社に登録して、ソフトバンク・セブンイレブン等のピッキング(荷物仕分け)、クリーニング会社の作業、アウトレット家具店の清掃・販売、引っ越しの手伝い等、単調で過酷な労働ばかりをやりました。ピッキング作業では単調な荷物仕分けを一日中やらされ、松戸の大型クリーニング会社ではガラの悪い年下の社員に罵倒されながら悪臭のする服を大量に洗い、千葉の有名なアウトレット家具店 メガ・・・何とかでは短気な副店長や社員に怒られまくりながらこき使われ、有名な アート・・・何とかいう引っ越し屋では行った先で初めて制服を着させられ、年下の無愛想な社員に怒鳴り散らされながら、重たい荷物運びを延々とやりました。超有名な ヤマ・・・何とかいうパン屋の松戸工場は、焦げ落とし等の作業が過酷で、社員がガラが悪い事で派遣仲間では悪名高かったので、私もここだけは行くのを避けました。その他にも数か所の派遣先を体験しましたが、いずれも単調で過酷な作業が続くだけではなく、社員からは「そこの派遣!」と名前さえ呼んでもらえず、こき使われるさまは、まさに新しい形の「奴隷制度」だと感じました。
 まれに個人経営の社長さん等で良い人もいましたがね・・・。今は、多少改正されて日雇い派遣は廃止されたと言いますが、何らかの形でそれらは存続しているのは間違いないでしょう。そしてその頃、一緒に働いていた社会的弱者の人々・・・ほとんどの人は少しおとなしいが真面目ないい人ばかりでした・・・は、今もそのような実りの薄い仕事を続けているのでしょうか。悲しい格差社会の実態を体感しましたが、なかなか普通の絵描きが知りえない、様々な仕事の裏の部分を知れたという意味では、今後の絵本制作等にもプラスになる点があるのではないかと、今ではポジティブにとらえています。

 2007年末まで、そんな派遣労働生活をしていたのですが、その終盤の2007年12月から松戸市みのり台の、とある個別指導塾の講師をやり出しました。私も美術大学卒とはいえ小中学生になら多少は学科を教えられます。しかし、今必要とされるのは私の比較的苦手な数学や英語ばかりです。やる気のない生意気な生徒に好きでもない学科を教えるのは、全く性に合っていません。おまけに大学卒業したての20歳代前半の若い塾長まで世間知らずで生意気ときていますので、2009年8月でそこを辞めました。ただ、そこの塾生に、学科は全くできないが結構 絵の上手いオタク系の中学生が一人いて、「個性的な彼らの才能を伸ばせる世の中ならいいのだが、良い指導者に巡り合えず一歩間違えば、悪い方向に進んでしまうだろうな・・・」と心残りもありました。
 2007年10月以降、派遣労働、塾と並行して、カルチャースクール/読売・日本テレビ文化センター柏・金町の「日本画・水彩画・デッサン」絵画講師を始めました。その後、NHK文化センター柏やコープみらいカルチャー春日部と、少しずつ講座数を増やして行き、何とかギリギリ生活できる体制を整えて行きました。今は5つの講座を受け持っています。ただ、カルチャースクールの受講者は3か月単位で増減するので収入も安定しませんし、人数に応じて講師料が定まっているので、よほど大人数の教室でもない限り、収入は微々たるものです。

 ついでに今までに経験した、その他の主な仕事を挙げてみましょうか。大学時代には、福岡美術研究所 夏期・冬期講習 講師(数週間)、河合塾美術研究所(東京校)日本画科講師(1年間)、区立児童館 図工教室講師(1年間) 等の美術関係の仕事の他、美術館監視員(1週間)、会場設営・大工(3か月間)、花市場・仕分け(3か月間)、郵便局・仕分け(2週間)、明治神宮の正月のしるこ屋(数日)、百貨店警備員(2か月間)、大学卒業後に NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作(2か月間)、結婚式ビデオカメラマン(1か月間) 等、今までに30種類位の様々な職種のお仕事を経験しています。これほど多くの職業を体験している人は世の中にほとんどいないと思いますので、この知識を絵本制作等に活かせないかと思案しています。
 こう書いて来ると、常にバイトばかりしていたと誤解されそうですが、実際には、在学中は放課後や春期・夏期・冬期休暇中にバイトを入れ、大学卒業後は週に平均3日間位の仕事を入れ、残りの日や夜間に日本画制作をコツコツとしていたのです。大学卒業後から2008年頃まで、1~2年に一度の「個展」と、1年間に4~5回は「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)等のグループ展をコンスタントに開催していたのですから、20歳代後半~40歳頃の自分を、よく頑張っていたなと自ら回想します。最近はグループ展の回数は減っていますが、絵本出版後に「絵本原画展」を集中して開催しています。
 藝大・美大を卒業した友人・先輩は、すぐに美術予備校や小中学校で教えたり、大学の助手に残ったり、カルチャースクールで講師をする人がほとんどでした。絵を教える仕事をしながら絵を描くのが、一番、楽なのは当然分かっています。私も大学時代に1年間、美術予備校・河合塾美術研究所(東京校)で日本画科講師を体験しましたが、あまりに若くから人に指導する仕事をすると、自分に実力も無いのに勘違いして、口だけ達者な「天狗」になってしまう人を多く見て来た経験もあり、私はたとえ苦労をしても40歳近くまでは絵を教える仕事はせずに、自分が制作する立場に専念したい、という自戒の思考も持っていました。


 今までに私は、このような厳しい絵描きの茨の路を歩んで来たのです。多分、ほとんどの同世代の絵描きより苦労して来たと言って良いでしょうね。私は自らを低い地位に置く事で、徹底した茨の路を自分の人生に敷いて、「真の芸術家」を目指そうと願ったのです。 
 近年は40歳を越えて、さすがに私も少しは性格が落ち着いて来ました。もう少し自然体で生きて行っても良いのではないかと、最近は思うようにしています。

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 ここ10年弱は、日本画・絵本の収益と、カルチャースクールの講師料とで何とか食いつないでいますが、まれに大きな展覧会や絵本制作で少しまとまった臨時収入はあるものの、基本的には一般的なサラリーマンの収入の何分の1かのわずかな収入で、何とか生きています。まさに、絵に描いたような貧乏絵描きの生き様です。それは、今ではほとんど聞く事もなくなった美徳の一つである「清貧」と言い換えても良いでしょう。
 清貧生活の中でも、たまに絵本の収益等があると、すぐに日本や世界中の子供達に絵本寄贈をしてしまうので、ますます貧相な生活になるのですが、子供達に笑顔を広めたい性分なので仕方ありません。
 何故、こんなみっともない話をするのかと思われるでしょうが、実体験を赤裸々に示す事によって、私が出世権力志向で動いていない事を証明すると共に、世の人々のお金というものに対する価値観の再検証を試みてみたかったのです。(私は画家なので、「文章」は趣味みたいなものです。故に、原稿料をいただかなくても良いのです。しかし、今後機会があれば、仕事として文章も手掛けてみたいと考えています。)

 日本も世界もお金持ちが偉いという考えが一般的ですが、私の理論ではお金持ちは多くの貧乏人からお金をせしめて生きている分、実は多くの貧乏人に感謝せねばならぬ立場にあると考えています。ただ配分バランスが偏っているだけで、億万長者は何も威張れる根拠は持っていないのです。お金持ちの多くはそれを実力・能力と考えがちですが、時の運や強引な性格がもたらした一過性のものであるケースが大部分でしょう。 
 現在も過去も、人間はお金という幻想に執着して来ました。資本主義というシステムはその最たるものですが、ようやく今頃、その限界説がささやかれ始めました。私はお金のみに価値観を求める多くのビジネスマンの拝金主義的嗜好に、前々からあきれています。人は生きていければ良いのです。何が本当の幸せなのかを熟慮し、最も大切なものは何かを知るべきです。それこそ、無知の知です。
 私の極論では、生活に必要な資産以上の収益のある人は最大99%位まで、世界中のより貧しい人々の福祉や子供の教育等に配分していく位の、大胆な国際的大改革があって良いと考えています。何故なら、世の中に100倍、1000倍以上もの格差を生むほど、他者より能力の高い人や努力している人はありえないからです。わずかな能力や努力の差と大部分の運が、現在の異様なまでの格差をもたらしているのです。資本主義の最も間違っている点がそこにあります。動物の場合は、せいぜい多く食べれるか食べれないか、子孫を多く残せるか残せないかの差しか生じません。それが自然の摂理なのです。
 私は資本主義や機械文明・コンピュータ社会を信じてはいません。ただ当然ながら、それに代わる良いシステムを知っている訳ではないのですが、人類がここらで一度立ち止まって、たとえ不便であろうとも、自然と共に生き、完全なリサイクルが行われて来た、少し昔の永久的に継続可能な生き方を見直すべきではないかと考えています。

 私はブッダやガンジー等の「無所有」の思想に憧れます。また、「不殺生」「非暴力・不服従」の思想にも大いに共感します。ガンジーが亡くなった時に所有していたのは、着ている服と糸車と一冊の本だけだったという逸話を記憶しています。それでも、世界中の多くの人々はガンジーを侮蔑したりはしないはずです。その思想と行動こそが最も尊くて崇高だからです。
 私のような俗人は聖人のようには到底生きられませんし、絵を描くのには画材や資料が必要となります。しかし、絵描きの必要とする物以外への余計な物欲はなるべく控えねばならないと考えています。私は画材がそろえられ、取材旅行ができればそれでいいのです。しかし、そんな純粋な生き方ができれば、それこそ贅沢というものかも知れません。世界中の平均から比較すると、貧乏絵描きと言えど、日本人はほとんどの人が贅沢過ぎるのですから。(ただ、諸々の生活基本料金が高過ぎて、生きていくのは決して楽と言えないのが日本の実情ですが・・・。)
 しかしながら一つ懸念されるのは、本当に志があり実力もあるのに「絵」だけで食べて行けない作家がこんなにも多い日本の現状では、将来、優れた作家は全く育って行かないでしょうし、日本の文化は衰退して行く事でしょう。私の場合は、学生時代の意図的な2年間の留年により、日本画界において少なくとも30~50年分位(半生分)はマイナスのハンデを負ったとは言え(東京藝大・難関美大卒以外の作家より、日本画壇・藝大学閥の有力者に知られている分、余計に出世の妨げになる可能性が高いです)、小中高校時代に「天才絵描き少年・青年」とまで称賛された私でさえ、こんなに辛酸をなめる絵描き人生になるのです。私は人並み以上に極めてタフな精神・肉体なので、こうして今も絵を描けていますが、常人ならば、とっくの昔に絵の路を断念している事でしょう。世間一般の美術文化への関心の向上と、作家をサポートしていける社会体制の構築は不可欠です。私も、もう少し取材を増やせて、画材が豊富に使えるようになりたいものですね・・・。

 今回、色々と思うところが多くて、いつもながらまとまらない文章になってしまいましたが、今の率直な気持ちを文章に書き記しておこうと思いました。かなりの長文になりましたが、偏屈な一絵描きの戯言とお聞き流し下さい。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁




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2016-12-25

東京藝大(東京芸大)という恐るべき所

 私はおよそ20年前の1996年に、東京藝術大学 美術学部絵画科 日本画専攻を卒業したのですが、競争率20倍以上(当時の日本画専攻)の日本屈指の難関大学といえど、所詮は学生・・・卒業してから”絵”を続ける方がはるかに困難な路なのです。とはいえ、ごく最近は東京藝大の優位性・存在価値もほんの少しずつながら低下気味のようですが、今もその重厚な存在感は美術・芸術界で抜きん出た地位を占めています。一つの評価指標でしかありませんが、美術系の文化功労者・文化勲章受章者の大半が東京藝術大学卒業生だそうです。
 しかしながら最近、絵本業界で活動していると、若いイラストレーター・絵本作家になるにつれ東京藝大の”すごみ”を知らないようですね。東京藝術大学の”すごみ”というのは、入学する難しさや描写技術の高さや「肩書」だけなのではなく、そこを出身とする芸術家の歴史的な層の厚さと人脈の強大さなのです。日本画家はいうまでもなく、横山大観、菱田春草から始まり、高山辰雄、東山魁夷、平山郁夫、加山又造、中島千波、千住 博 先生まで著名日本画家のほとんどが東京藝術大学卒業生です。絵本作家では、いわむらかずお さんや西巻茅子さん、最近では酒井駒子さん等が有名です(酒井さんは油画専攻ですが、私とほぼ同期です)。
 日本美術史をさかのぼると枚挙にいとまがないので、東京藝大の権威や作品レベルもやや落ちつつあると考えられる昨今ですが、私が在籍していた頃だけ、今すぐ思いつく分だけを見てみましょうか・・・。


 私が大学時代に最も仲良くしていた日本画専攻の同じクラスの3~4人のメンバーの中に、文部省か文化庁の役人(記憶が少々あいまいですが、その当時には省庁を辞められて大学教授をしていたらしく、平山郁夫 先生とも知り合いだったそうです)の娘さんがおりました。彼女は随分と個性的で面白い人でしたが、その後、有田焼の家元・酒井田柿右衛門の息子さんと結婚しました。そんなご縁で、柿右衛門邸を案内していただいた事もあります。お二人の結婚披露パーティーでは、千代田区の一等地にある彼女のマンションで、お二人らとともに垂れ幕等の制作をしました。酒井田 君が案外不器用だった印象もありますが、威張り気のないとても人のいい方です。その酒井田 浩 君も2年前位に15代 酒井田柿右衛門を襲名して、先日はNHK番組に出演しているのを見ましたが、彼も今では日本伝統工芸界の大物の風情です。
 日本画専攻の私の少し後輩には、千家十職(せんけじっそく/茶道に関わり三千家に出入りする十の職家を表す尊称)の一つで京焼の家元・永樂善五郎のお孫さんもいました。彼とは金唐革紙(きんからかわし/手製高級壁紙)の復元製作で一緒に仕事しましたが、「手が痛い痛いで・・・」と嘆きつつ、一か月程で彼は辞めていきました。彫刻科の後輩には、関西で有名な竹工芸作家家系の田邊竹雲斎の息子さんの田辺小竹 君もいました。彼は私と同じ大阪市立工芸高校 美術科の卒業生でもあります。最近は日本の百貨店や海外でも個展を開催して活躍しています。日本画専攻の少し先輩には、上村松園のひ孫さんもいました。このように東京藝術大学には、著名で歴史的な日本画家や職人家系のご子孫が多く在籍しているのも特徴です。

 当時の日本画専攻 博士課程には村上 隆さんが在籍していましたが、私は美術予備校・立川美術学院 日本画科でも彼にデッサン・水彩画(着彩)を学びました。彼は大学卒業後、現代アートの路を歩み、日本を代表する現代アートの奇才になったのはいうまでもありません。私が藝大に入学する少し前には千住 博 先生が在籍していました。先輩に聞くと、医者の息子の千住 先生は、当時スポーツカーで学校に通って来ていたらしく、教授から「苦学生もいるのだから止めてくれないか・・・。」と言われる位の羽振りだったらしいです。
 さらに、日本画専攻の少し先輩にはタミヤ模型の社長の娘さんもいましたし、私と同じクラスには神奈川県で1~2を競う富豪の家柄だとか噂される娘さんもいました。このように学内に、社長・会長や富裕階級のご子息・ご息女が多いのも東京藝術大学の特徴です。
 教授陣も当時は、平山郁夫 学長をはじめ、名誉教授に高山辰雄 先生、教授に加山又造、後藤純男、田淵俊夫、福井爽人 先生 等、当代の超一流日本画家が教えていました。現在の東京藝大 日本画専攻の教授陣は、当時と比べると見劣りする感は否めません。

 その他にも、美術大学で講師をしたリ各分野で大活躍する美術家・日本画家等が、先生・先輩・同輩・後輩に数えきれないほどいるというのが東京藝術大学の本当の恐ろしい所であり、”すごみ”なのです。東京藝術大学 日本画専攻のクラスの半分位は、著名な作家の家柄や裕福な家系の人々で、残りの半分が私のような中流階級から少し貧しい家庭の子供なのです。また、3分の2以上は首都圏出身者で、地方出身者は極めて少ないです。当然ながら前者の方が将来出世する可能性はぐんと増しますので、私のような地方出身の一般人は相当苦労する事になるのですが・・・。
 しかし、それらの全ての方々と今も交流が続いているという訳ではありませんが、若い頃から、いわゆる一流作家の人脈の中で勉学できた事は、今になって考えるととても良い環境であったかと思っております。学生時代には権威・権力に対する矛盾・反発を感じた事も度々ありましたが、年を経て今振り返ると、良い面悪い面があるにせよ、実に素晴らしい経験だったと思うのです。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁


立川美術学院 日本画科「美術予備校・立川美術学院 体育祭」(1989年10月) 村上 隆さん、中村寿生 君と私。現在は現代アートの第一人者として知られている村上 隆さんですが、当時は東京藝術大学 日本画専攻の博士課程に在籍し、立川美術学院 日本画科で講師をしていました。左は美術学院の同級生の中村寿生 君(現在、文星芸術大学 日本画専攻 准教授・講師)。

酒井田柿右衛門 邸「酒井田柿右衛門 邸 ─ 柿右衛門の名の由来になったという柿の木の前にて」(1999年8月) 酒井田 浩 君(14代柿右衛門 長男。現在、15代柿右衛門)と私。



佐賀新聞 (2014年3月29日): 十五代柿右衛門さん襲名 450人が祝福
 http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/57310

 お偉くなったからか、近年さっぱり連絡をくれなくなったが、私の同級生だった酒井田晶子さんもお元気そうですな。あれ、お子さんもいるのね~

 

 

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

2016-12-13

最近、「絵本」を語る日本画家に思う事


絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』表紙・表絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも) 表紙


『最近、「絵本」を語る日本画家に思う事』

 それにしても、ここ2~3年、やけに日本画家「絵本」を描いたり、「絵本原画展」を開く機会が多くなりましたね。それ以前はインターネットをほとんど見ていなかったので気が付かなかっただけかも知れませんが・・・。かく言う私も、2004年と2007年に開催した私の日本画個展に、福音館書店の編集者が来られてから、子供の頃(幼児期~中学校の頃)に憧れた「絵本」の魅力を思い出したわけですが・・・。
 ただ、それまでにも、卓上芸術である「物語絵」「絵巻物」を描きたいという強い思いがありましたので、それが「絵本」の世界観と自然に通じたわけです。現代の日本画は、写実的な風景画や写真的な現代女性の人物画が全盛で、会場芸術の大作主義が主流ですが、私の求める世界とは少し異なるのです。私は元々、物語性のある人物画(美人画)が得意なので、人物を描くケースが多い「絵本画」に合っていたという事実もあります。
 今の時代、「日本画」の売り絵だけで食べて行くのは至難の業です。日本画の世界はプロとセミプロ・アマチュアの区別がはっきりしていないですが、本格的に制作をしているプロの日本画家と言える人は500人足らずだと思います。その内、それなりに世間で名の知られた日本画家は100~150人位で、私もその一人に入るでしょう。更にその中で、一生を絵だけで食べて行ける日本画家は、多分、25~30人位しかいないと思います。それらのほとんどは団体展で高価値を付与されているか、商売の上手い人です。ただし、最上位の10数人は富豪と言われる豪奢な生活をしています。絵だけで食べて行けない、その他の95%位の日本画家は、絵画講師等の何らかの副業をしながら絵を描くか、裕福な家系のご子息・ご息女かです。日本画をプロとして10年以上継続できている人は東京藝術大学の日本画専攻卒業生(毎年26名)でも3分の1位の人(8~10名)だけで、美術大学卒業後5年以内に、絵の路を断念して絵筆を折る作家が大半です。
 当然、そんな苦しい環境下で、皆さん色々試行錯誤する事になります。その悪い方向性として、現代の日本画家はすぐに他人のマネ(模倣)をしたがる嫌いがあります。ある作風・やり方(展開方法)が売れると(評価されると)、同輩・後輩がすぐにそのマネをします。例えば、東京藝術大学の日本画専攻では、私の在学していた頃に流行していた作風(田淵俊夫先生や福井爽人先生辺りの作品を模倣)が、20年後の今でも描かれています。この悪癖が今の日本画界のマンネリ化・類型化と衰退の加速化を助長しているとも言えるのですが・・・。思い過ごしかも知れませんが、私が「絵本」の世界に本格的に歩み出した頃から、私の周囲の日本画家が、今まで興味がないように見えた人までも、突然「絵本」「挿絵」等と叫び出した気がします。
 ただ、「日本画」の世界と同様、絵本・挿絵といった「出版美術」の世界も、長引く出版不況やデジタル化の波もあって、相当厳しい世界である事には変わりありません。中途半端に活動するのなら、何をやっても同じ事でしょう。もし、日本画家で「絵本」を目指される方がいるなら、本気で本腰を入れて事に当たらないと、絵本作家やイラストレーターの方にとても失礼な事になるでしょうね・・・。

 「絵本」の歴史を振り返ると、昔(明治の頃)は絵本作家・絵本画家や挿絵画家という職業意識はなく、日本画家(浮世絵師を含む)や洋画家が依頼されて絵本や挿絵を描いていました。大正・昭和時代以降、印刷美術・出版美術を活動主体とするデザイナー・イラストレーターが登場し、戦後、絵本の隆盛につれ絵本作家・絵本画家という職業が確立されて行きました。近年では、日本画家の秋野不矩先生や堀 文子先生等が絵本の世界でもご活躍し、かつては東山魁夷先生や稗田一穂先生等も絵本を描いていました。ただ、それらの作家は日本画家として確立された先生方なので、絵本は片手間の感をぬぐえません。日本画を用いた絵本作家では、赤羽末吉さんが有名ですが、赤羽さんの場合は逆に日本画はほぼ独学に近いので、さほど本格的な日本画家とは言えません。
 かつてはこの様に、日本画家等の純粋美術作家が「絵本」の作画を依頼されるケースが多かったのですが、現代では「絵本作家・絵本画家」という職業意識も確立していますので、やはり、日本画家があまり安易な見識で「絵本」を描くのは、それを活動主体とする絵本作家・絵本画家・イラストレーターの方々に失礼というものでしょう。
 そんな理由もあって私は、初絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)を出版した3年前位に日本児童出版美術家連盟(童美連)に所属し、日本画界での約33年(プロとして約20年)という長い経歴と自負を抑えて、絵本作家・イラストレーターの皆様に首を垂れ、絵本とその業界を基礎から学びたいと考えたのです。

 現在私は、日本画のオリジナル作品を描きながら、絵本の制作を並行しています。今、福音館書店「こどものとも」の新作絵本の制作が既に3年余り進んでいて、完成までには更に数年かかりそうです。また、来年出版予定の鈴木出版(すずき出版)「こどものくに」の新作絵本制作も進行中です。福音館書店「こどものとも」は1956年(昭和31年)創刊で、創刊号の絵は堀 文子先生によるものです。鈴木出版「こどものくに」は1967年(昭和42年)創刊なのでほぼ私と同じ年です。いずれも日本の月刊絵本を牽引してきた歴史ある有名な絵本シリーズです。
 私は、幼少期にはオリジナル漫画・紙芝居やイラストを描き、中学生の頃はアクリル空想画を描き、高校では大阪市立工芸高校美術科で本格的に日本画・油絵・彫刻・デザイン・製図・版画等を学びました。東京藝術大学日本画専攻で更に日本画を追求し、その頃から約12年間、金唐革紙(きんからかわし/金唐紙 きんからかみ、とも言う)という手製高級壁紙の復元製作を手掛けた経験もあります。私の伯父でもある、からくり人形師の後藤大秀さんの、からくり人形・能面制作から大きな影響も受けています。
 このように様々なジャンルが垣根を超えて交流し、折衷されては、また独立し、切磋琢磨していくのが本来の”ものづくり”の原点なのかも知れません。私も、もちろん路半ば、まだまだ修行の途上でしかありません。

 日本画家・絵本画家 後藤 仁

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

2016-09-14

日本画家 後藤純男先生との思い出

 今年、私の師である後藤純男先生が、「第72回 日本芸術院賞・恩賜賞」をご受賞され、授賞式は天皇・皇后の行幸啓を仰ぎ、2016年6月に挙行されました。
 また、2016年の4月からは東京藝術大学名誉教授にご就任され、9月には流山市名誉市民の第一号に選ばれたという事です。誠におめでとうございます。心より御礼申し上げます。

 後藤純男先生は、日本画団体・日本美術院(院展)の同人理事であり、東京藝術大学(日本画専攻)教授と中国の西安美術学院(大学)名誉教授を歴任され、2006年には日本国勲章「旭日小綬章」をご受章された、日本画界の重鎮です。一般の方には、ネスカフェゴールドブレンド「違いが分かる男」のコマーシャルに出演された事でも知られています。

・・・・私は、1990年の東京藝術大学 受験面接で、平山郁夫先生、加山又造先生、福井爽人先生らとともに後藤純男先生に初めてお目にかかり、1994年、東京藝術大学3年生の時に、後藤純男先生のご担当で日本画を教わったのが、先生との最初の出会いです。
 ここからしばらく、私の絵画勉強期間を振り返ります。私は大阪市立工芸高等学校 美術科日本画を始めましたが、周りの意識・技量は決して高いとは言えず、もっとハイレベルで創作に良い環境を求めていました。・・・高校1年生の時は、美術の実技はクラス中で群を抜いた高評価だったのですが、数学・英語を絵に必要ないと考えて全くやらなかったので、留年させられてしまいました。その後3年間は、一念発起して学業にも力を入れ、学科も平均点95点位となり傑出して一番を維持し、実技(日本画・油絵・彫塑・素描・製図等)も全教科一番、おまけに体育も一番でした。当時、私は工芸高校始まって以来の天才とか、宇宙人とか、変人とか、陰で言われていました。私は、ほどほどという事を知らない人間なので、これでは周囲に嫉妬されるのも当然ですね・・・。
 高校卒業後、単身上京し、新聞配達の奨学生をしながら美術予備校・立川美術学院 日本画科で学びました。そこで当時講師をしていたのが、今は現代アートの第一人者となった村上 隆さん(東京藝術大学 博士後期課程満期退学)と、日本画家の菅原健彦さん(多摩美術大学 卒業。現在、京都造形芸術大学 教授)達でした。日本画に対する考え方はこのご両人と私は大きく異なりましたが(お二人は前衛的・現代美術的な考えで、私は伝統・描写力・情感を重んじる考え)、お二人の”絵”に対する情熱やパワーは相当高いものがあり、私は今でも大きな影響を受けています。こんな人達がゴロゴロいる美術大学の最高学府・東京藝術大学とはいかなる所なのか・・・と期待は高まりました。ただ、予備校の1浪時は新聞配達・集金をしながらの予備校通いで時間がうまく調整できず、2浪時も試験に受かる事だけを考えた予備校教育に当時は反感を覚え、実質、授業の半分位しか行っていなかったと思います。それでも、最初こそ関西風の描き方を東京風の描法に変革するのに手間取りましたが、2浪の後半はグイグイと実力が伸びて、特に石膏デッサンでは私の右に出る者はいなくなっていました。
 しかし、せっかく2浪して20倍以上の狭き門を突破して入学した、東京藝術大学 日本画専攻は、私が想像していた所とは少し違っていました。私の空想では、26名全員が朝から晩まで絵に向かい、良きライバルとして切磋琢磨している姿でした。だが実際は、私以外のほとんどの人は欠席するは・遅刻するは・早退するは、部屋のあちこちで無駄なおしゃべりをしているは、絵について熱く語り描く風潮は微塵もありませんでした。常日頃、「どの先生に付いたら出世できるだろうか、誰の絵に似せて描いたら先生に評価されるだろうか・・・」といった話題ばかりが目立ちました。大学2年生になり、このような雰囲気に辟易としていた頃、「後藤はこのまま行けば出世しそうだ・・・」という噂が流れ始めました。こうなると案の定、日本画名物・足の引っ張り合いが私に集中しました。高校の時にも、あまりに成績が良過ぎた私を妬んだクラスメイトほぼ全員から、2年間近く完全無視されるという苦痛を経験している私は、今回は東京藝術大学 日本画専攻の雰囲気に完全に幻滅し、大学を離れようと決心しました。その後2年間余り、自主研究として、時々は日本画・水彩画・アクリル画を描いてみたり、詩を書いてみたり、カメラにこってみたり、旅をしたりしていました。この2年間余りが、現在までで私が最も日本画(絵)を描いていなかった期間です。この時は、日本画界が心底、嫌になっていたのです。
 ところがカッコいい事を言ってみても、所詮は親の仕送りで生活している青二才です(アルバイトは常々していましたが)。親からの心配・非難の声も大きくなり仕送りを止めるとも言われて、それ以上に親不孝な自分を恥じて、ようやく渋々大学に戻る決意を固めました。2年余りぶりに大学に戻る日、受験発表の日と並んで、いやそれ以上に今までで最も緊張した日かも知れません。私は2学年留年させられており(留年は2年間まで可能)、既に3年生の一学期に入っていたので本当なら退学処分のはずでした。
 教授室に呼ばれ、3年生の担当の後藤純男先生と手塚雄二先生が並んで座っておられました。後藤純男先生は名字が同じという事もあり、寺院を描かれるという事もあって、中学・高校時代から存じており、好きな現代日本画家のお一人だったのです。手塚先生が睥睨した目つきで、「本当ならもう退学の時期だが、何をしていたのかね・・・。日本画を続けたいかね。」とご質問されました。私は「絵を描くのは子供の頃から好きだったので、続けたいのです。」と言うと、「絵とは、日本画の事かね。」とおっしゃるので、「高校の時から日本画を描いているので、日本画を続けたいです。」と答えました。手塚先生は渋い顔をして、「最後は後藤純男先生のご判断次第だよ・・・。」と後藤純男先生にお答えを求めました。後藤先生は「そりゃあ、続けた方が良い!」と一言笑顔でお答えになられました。「後藤さん、あなたのお生まれはどこですか。」と後藤先生が質問され、私は「赤穂です。」と言うと、「ああ、四十七士の。いい所ですね~。」と笑顔でおっしゃられました。こうして私は、東京藝術大学始まって以来の問題児として藝大に戻る事になりました。その後は、2年生で取るべき実技単位を3年生で取って、元々の後輩に囲まれながらしっかりと勉学に励みました。私は1~2年生の間に、学科の卒業単位を全て秀と優で取っていたので、後は実技単位のみの取得なので楽でした。ただ、2年留年した人間は、どんなに良い絵を描いたとしても、当然ながら、大学院には進めませんね。
 今考えると、「たかが大学。世の中そんなものだ・・・。」と受け流すくらいの度量があったら良かったのにと思います。つまりは、若気の至り、堅真面目過ぎたのです。しかし、私はそんな不器用な人間なのです。いまだに、その性格の本質は変わらないので、世渡りは下手で失敗ばかりしています。ただ、この高校・大学での体験は、今大きな社会問題にもなっている、いじめ・差別・偏見を受ける側や引きこもりになる等の社会的弱者の気持ちを理解する心にもなっており、私の人間的な幅を広げる一因につながっているのではないかと良いように解釈しています。

 この時のご恩もあり、「武士は二君にまみえず」という故郷の志士・赤穂浪士の教えを守って、日本画の師と言える方は後藤純男先生ただお一人だと考えています。(絵本界には今の所、師と言える人はいません。良き先輩方はおります。)多くの日本画家は師が力を失ったり亡くなられると別の師に付いたり、師以外の人のご機嫌を伺って団体展に入選したリしていますが、私はそんな薄情なまねはしません。義理と人情に篤い、バカ正直な男なのです。(後藤純男先生は一匹狼の性格で派閥を作りたがらないお人です。そこで院展内でも力がある割には弟子が極めて少ないのです。藝大大学院の後藤純男教室出身者で院展に受かっているのは、ほぼ平山郁夫先生派閥に組み込まれた人のみです。)
 大学卒業の前後には後藤純男先生に同行し、沖縄本島、北海道、東北等に数日がかりの取材旅行に出かけました。先生のスケッチする姿から多くの事を学びました。卒業後1996年からは、後藤純男先生門下による「翔の会日本画展」が「オンワードギャラリー日本橋」で開催され、その後、場所を「銀座松坂屋」に移して15年間開催されました。毎回欠かさず出品したのは20名近くいるメンバー中で、私を含む10名足らずです。東京藝術大学大学院・第二研究室(後藤純男教室)出身の日本画家で構成された「翔の会」でしたので、私だけが唯一の学部卒でしたが、後藤純男先生の特別推薦で参加していました。メンバーの中には学部卒で加わっている私を批判する人もいましたが、最終的には「翔の会日本画展」の後半、最も熱心で行動力のある私が「翔の会」の代表幹事を務めるようになっていました。先生の飲み会・パーティーにもできる限り出席し、時には先生のご自宅・アトリエに泊まったり、そのまま夜を明かしたりしました。この頃、東京藝術大学出身の人の中で、多分、私が最も多く先生とお会いしていたと思います。先生のお話・行動の一挙手一投足からは、”絵”に対する真摯なお考えや人生観の多くを教わりました。

 しかし、いつまでも良い時期は続かないものです。10年程前、いつものように先生にお電話をおかけすると(この頃、私から先生にご用のお電話をしたり、先生から直接お誘いのお電話がかかって来たりしていました)、「後藤さん、今日の飲み会は中止です。今から眼底出血の手術をしなければいけなくなりました。また今度にしましょう~。」というお返事でした。先生は笑いながら淡々とお話しされたのですが、私は前々から、先生には糖尿の気があり医者から酒を止められていた事を知っていましたので、とても嫌な予感がし背筋に冷たいものが走りました。
 私の予感は的中しました。それ以降、先生は体調を崩されたようで、私達元学生はもとより、ほとんどの公の場所に顔を出されなくなりました。あの時のお電話が、先生とお話しした最後になってしまったのです・・・。現在では、車椅子でのお写真を美術誌等でまれに拝見するだけで、ほとんど北海道のアトリエに親族だけに囲まれて、引きこもられてしまいました。今回の「恩賜賞」の授賞式でさえ、奥様と娘さんのみが出席されていましたから・・・。誠に残念な事ですが、人は年齢には勝てませんので仕方がない事です。私はお元気な頃の先生のお言葉を胸に抱いて、今後も制作に励みたいと思っています。そして、私は27歳の時に父の事故死を経験した事もあり、人の”ご縁”とは誠に尊く大切にしないといけないものであると感じています。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁
 

後藤純男先生と私「後藤純男先生 退官記念展」(1996年10月7日、東京藝術大学資料館) 後藤純男先生と私

後藤純男先生と私「後藤純男 画伯を囲む会」(2004年1月4日、野田 東武ホテル) 後藤純男先生、井崎義治 流山市長と私。他にも、野田市長や関宿町長等も来られていました。

東北写生旅行 後藤純男先生「東北(田沢湖・角館)写生旅行」(1996年11月20日) 駒ヶ岳 後藤純男先生スケッチ中。先生は視点が変わるからと言う理由で、常に立ってスケッチをされます。先生の絵に対する真面目さは恐るべきものがあります。 


【後藤純男先生 ご略歴】

1930年 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に生まれる。
1946年 粕壁中学校 卒業。日本画家・山本丘人に師事。
1949年 日本画家・田中青坪に師事。
1974年 日本美術院 同人に推挙。
1976年 再興第61回 日本美術院展覧会で文部大臣賞を受賞。
1981年 ネスカフェ・ゴールドブレンド「違いがわかる男」のコマーシャルに出演。
1982年 中国の西安美術学院(大学)名誉教授に就任。
1986年 再興第71回 日本美術院展覧会で内閣総理大臣賞を受賞。
1987年 北海道空知郡上富良野町にアトリエを構える。
1988年 東京藝術大学 美術学部絵画科日本画専攻 教授に就任。教授時代の門弟には、日本画家の後藤 仁がいる。
1995年 パリ・三越エトワールにて「後藤純男展」を開催。
1997年 東京藝術大学 教授を退官。北海道空知郡上富良野町に後藤純男美術館を開館。
1999年 千葉県銚子市に後藤純男美術館を開館(2004年1月30日閉館)。
2002年 埼玉県北葛飾郡松伏町 名誉町民となる。
2006年 旭日小綬章を受章。
2016年 日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。東京藝術大学 名誉教授に就任。流山市 名誉市民となる。



後藤純男美術館 公式ホームページ

http://www.gotosumiomuseum.com/info_pdf/geijyutuin.pdf (PDFデータ)

http://www.gotosumiomuseum.com/


〈北海道新聞 記事〉

画家・後藤純男さん、北海道・上富良野町に作品寄贈の意向 総額20億円規模か
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/dohoku/1-0247503.html

日本画の後藤純男さんに日本芸術院賞 坂東玉三郎さんら9人
http://dd.hokkaido-np.co.jp/entertainment/culture/culture/1-0249861.html


〈朝日新聞デジタル 記事〉

日本芸術院賞に坂東玉三郎さん・辻原登さんら9氏
http://www.asahi.com/articles/ASJ3K4T4ZJ3KUCVL014.html


〈流山市 公式ホームページ〉

第1号 流山市名誉市民を決定
http://www.city.nagareyama.chiba.jp/10838/10841/031587.html

「広報ながれやま」平成28年10月11日号(特集:流山市名誉市民の決定)
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/information/73/393/031821.html

「広報ながれやま」平成28年10月11日号(特集:流山市名誉市民の決定)〈PDFデータ〉
https://www.city.nagareyama.chiba.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/031/821/nagareyama20161011.pdf


〈東京新聞 記事〉

流山在住の画家・後藤さん 初の名誉市民 来年1月に作品展開催
http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/list/201609/CK2016090702000182.html


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tag : 後藤仁 後藤純男 日本芸術院賞 恩賜賞 旭日小綬章 東京藝術大学 東京芸術大学 流山市 日本画 村上隆

2016-09-06

日本文化・美術・絵画界(日本画・絵本など)の現状を憂える・・・

 私は15歳の時に大阪市立工芸高校 美術科で本格的に日本画を始め、東京藝術大学 日本画専攻を卒業した1996年から、プロの日本画家としておよそ20年間活動して来ました。勉強期間を入れると約33年の日本画歴です。師は、後藤純男 先生〔東京藝術大学名誉教授、日本芸術院賞・恩賜賞受賞者〕。
 絵本の世界では、2007年の個展に福音館書店編集者が来られて絵本制作のご依頼を受けた事がきっかけで、2013年2月に初絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)、11月に絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)を出版しました。制作期間を入れると10年弱の絵本歴になります。

絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』表紙・表絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』(福音館書店こどものとも)

絵本『犬になった王子(チベットの民話)』 表紙絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)


 前々から感じていた事でもあり、近年また痛感するようになった事ですが、日本における創作者・絵描きの地位のいかに低い事か、欧米や東洋各国に比較しても、文化に対する国や団体・個人レベルでの意識の薄さを嘆かわしく思います。
 ただ、日本画・洋画・彫刻・書道等は伝統的に社会的地位が高い傾向があり、特に美術団体のトップクラスの方々の社会的・経済的優位性は極めて高いものがあります。逆に、その地位・権威だけに頼ってしまう懸念さえあるのが現状です。一つの目安として挙げると、文化勲章受章者・文化功労者の大半が日本画・洋画の先生方で占められています。
 しかし、その他の美術ジャンルの社会的地位はまだまだ低過ぎる傾向が顕著です。2010年に水木しげるさんがマンガ家初、2012年に安野光雅さんが絵本作家初、宮崎 駿さんがアニメーション作家初の文化功労者になっただけです。
 日本を代表する絵本作家のお一人で東京藝術大学の先輩でもある、いわむらかずお さんが2014年にフランス芸術文化勲章シュヴァリエ章をご受章された時に、日本での報道の少なさに日本児童出版美術家連盟(童美連)監事の浜田桂子さんも疑問を呈しておられました。その童美連を創設された太田大八さんは先日、お亡くなりになられましたが、先生の多大なご功績を考えると文化功労者位になっていないとおかしいのではないかと感じます。日本を代表する絵本画家のお一人の黒井 健さんがおっしゃるには、太田大八さんは絵本作家の社会的地位の向上を常に模索されていたと言います。
 ほんの一部の「絵本読み聞かせ・朗読家・評論家」なのでしょうが(これは日本画においては「画商・絵画評論家」等に当たります)、自分達が絵本作家を宣伝してやって育ててやっていると言ったかのような錯覚をお持ちの方がおります。確かに「絵本読み聞かせ・朗読家」は作家にとっても有難い存在ですし、大切なご活動だと理解しています。ただその作家と朗読家の関係は常に対等な互恵関係であり、お互いを尊重せねばなりません。ただ、作品を最初に生み出すのは作家であり、それを後から活用するのが朗読家であるという順序や本質を忘れないでほしいと思います。

 私の伯父・後藤大秀「からくり人形師」ですが、現在、公に認められた「からくり人形師」は日本に3名しかいないと言います。伯父の手腕は私が見ても驚くほど高レベルで、創作出来る人が限られたとても重要な仕事ですが、その業界規模は小さいものなのです。伯父は1998年に大垣市の教育功労賞表彰を受け、ようやく現在、県の表彰が検討されている段階だと言います。からくり人形師が人間国宝(重要無形文化財保持者)や文化功労者等の国単位で認定される事はなかなか難しい話です。
 私は大学3年生から2006年ごろまでの約12年間、日本画の仕事のかたわらに「金唐革紙(きんからかわし)」という手作りの高級壁紙の復元製作を手掛けていました(旧岩崎邸、孫文記念館、入船山記念館 等の復元事業に参加)。日本画だけで食べて行くのは大多数の若手作家にとって、今の時代では至難の業なので、講師等の何らかの副業をしなければ生きて行けないのです。最初に金唐革紙製作所の出資・経営者がいたのですが、その人は外回りだけして滅多に製作をしないので、私達、美大出身者3~6名がほとんどの実質的な仕事をしていました。その中でも私は歴も長く、製作数もずば抜けて多かったので、常に中心的な役割を担って来ました。現在、復元された金唐革紙には、ほぼ私の手が入っており、実質的な第一人者と言えます。それにもかかわらず、世間的にはその経営者が全ての復元をしたように喧伝されており、現在、80歳位のその人だけが「国選定保存技術保持者」に認定され、旭日双光章なる国の勲章までもらっています。つまり本質的には、私が「保存技術保持者・旭日双光章」をいただいてもおかしくないという事になります。
 このように業界団体の社会的強弱や、メディア等での取り上げ頻度が、国や世間の評価にも如実に反映されているのです。


 私は日本画の世界で長年活動して来ましたが、そこではあまりに高過ぎる権威が近年になるほどマイナス効果を出している事に気が付きました。権威に頼るあまりに、さほど絵の良くもない人が人脈だけで出世していくさまを幾多見て来ました。その弊害によって現代日本画のレベルは落ちる方向にあり、愛好者・コレクターの高年齢化に伴って一般大衆からの人気は低迷の一途をたどっています。ただし私は、日本画の画材の持つ面白さや、古代(日本画という名のできる前)からの日本絵画の深い歴史に大いに憧れを持っており、未来への可能性を疑っていません。しかし、今のような日本画三大派閥(院展、日展、創画展)のみが優位性を保つような閉鎖的な風潮が続くと、かならず近い将来(15~30年後位)立ち行かなくなるでしょう。今、日本画界も大きな変革期・転換期を迎えているのです。作家が権威を欲した時から、実質的な制作力は落ちて行く・・・とも言いますので、名と実のバランスは難しいところですが、そうであってもあまりに不公平が多いのが今の世の中です。
 欧米や一部の東洋圏では「絵描き・画家」を社会が認め、ある程度の優遇措置もあり、重要で尊敬に値すべき存在として位置づけされています。私は何も、絵描きが いばりたい と言っている訳ではなく、今の絵描き仲間の現状を見る限り、一部の特別な売れっ子以外は、一般サラリーマンよりはるかに少ない収入に甘んじて、「仕事が無い、仕事が無い」を口癖のように発しているこの状態は、決して日本経済にとっても良い事ではないと思っているのです。仕事の出来る、腕の良い作家は、たくさん世の中に埋もれています。それを社会がもっと活用しない手はないのです。

 最近、国も「ものづくり日本」を掲げています。全ての物事は創作者から発せられ、それを一般の消費者・愛好者・活用者が用いて行くのです。最初の文化創作者が軽んじられるようでは、日本の文化は発展・成熟しませんし、将来、衰微していくものと考えられます。また、マンガ・アニメ・ゲームは現在最高潮に活気を呈していますが、そのようなサブカルチャー(現在では、メインカルチャーと言ってもいいほどですが)だけではなく、伝統的な絵画・芸術を含めて総合的に日本文化が向上し、一般に認識されるのが理想なのです。
 日本は(世界的にも同様の傾向でしょうが)創作者・作家・職人よりも、それを発注した資産家・経営者・団体等の中間卸的存在を重要視する傾向が強いのです。最初の創作者が・・・特に多くの若い作家が仕事だけで食べて行けない現状では、決して良い文化は華開かないでしょうし、そのような状態が続くと、ひいては日本経済全体の活力低下にもつながって行くと考えています。日本の国も公共団体も民間団体・企業も一般大衆も、もっと絵描き・創作者の重要性を知って下さい。それが一絵描きの率直なお願いです。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁

 

犬になった王子――チベットの民話/岩波書店

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2016-04-28

熊本地震に思う・・・絵描きとして

 熊本地震が起き、私も少なからず衝撃を受けています。私の義理の両親は福岡県南部(大牟田市)に住んでおり、義理の弟夫婦とその子は熊本市内に在住しているので、なおさら心配です。震災後3日間、義理の弟一家は車の中で一夜を過ごしたと聞きました。子供は学校にも通えない状態だと言います。
 私はそんなご縁もあり、九州には20代の頃より幾度となく写生旅行に訪れており、風景良し・食べ物良し・人良しという、日本で最も好きな地域の一つでもあります。かなり前ですが、義弟の結婚式は熊本城の麓のホテルで開催され、私も出席しました。
 そのような訳も重なり、いつかは来るとは予感しているとは言え、今回の地震には誠に悲しい思いがつのります。

 今までに、阿蘇山をテーマに何度も大作を描いていますが、熊本城もスケッチしたり小品に描いています。今思えば、ネパール大震災で被害を受けた人々と風景もそうでしたが、美しいものを美しい時に描いておく事の重要さが切に感じられます。

熊本城「熊本城 天守閣」(1997年3月30日) 私は、日本のお城の中では、故郷・兵庫の姫路城(白鷺城)の次に、この熊本城が好きです。

熊本城「熊本城 天守閣」(1997年3月30日) ピクニックをする親子の平穏な姿がほほえましいです。


熊本城スケッチ「熊本城のスケッチ ─ 櫓群(国重要文化財)」 後藤 仁(1997年3月30日)

熊本城スケッチ「熊本城のスケッチ ─ 天守閣」 後藤 仁(1997年3月30日) 後にこのスケッチを元に日本画小品を描いています。


 今年は「スリランカ写生旅行」を計画しています。2011年4月の「タイ北部・ラオス北部写生旅行」は、折しも2011年3月に起こった未曽有の大地震、東日本・東北大震災の直後でした。祈りの地を巡るその旅は、まさに震災被害者への追悼の旅ともなり、旅の先々では人知れず涙を流す事になりました。
 奇しくも、今回のスリランカの旅も、熊本地震の直後です。スリランカは、最も初期にインドから仏教が伝来した土地であり、タイ王国・東南アジア諸国に広まる上座部仏教(南伝仏教)の発祥の地です。今回のスリランカの旅も、熊本地震被害者への追悼の旅ともなりそうです。


 地震は天災なので人の力ではどうする事も出来ないものでもあり、それが自然の摂理でもあります。インドの古代ヒンズー教神話では、この世の中は「踊るシバ(シヴァ)神」そのものであり、シバが激しく踊る時に大地が震動すると考えられてきたそうです。シバは破壊の神であるが故に、インドでは最も信仰されていると言います。
 日本でも、地震は大ナマズが暴れて起こるなどという発想がありますが、自然の前では人は実に無力なものです。古来から日本人は、自然を征服するのではなく、自然と融合して生きていく道を選んで来ました。それが今日、西洋型合理主義の影響なのか、自然を征服しようとしています。このような生き方が進めば、決して良い結果を生みません。今まさに、人類の進むべき本当の道を、真剣に考える時に来ているのではないでしょうか・・・。

  日本画家・絵本画家  後藤 仁

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2016-03-14

日本画・絵本界の著作権問題について考える

 最近、オリンピックのエンブレム問題や、理研のSTAP細胞問題など、著作権文章・画像コピーについて世間で話題となるケースが増えました。  
 私も、絵本の世界に入って「著作権」について考える機会が多くなりましたが、「日本画」の世界で長年描いてきて、避けて通れない一つの大きな著作権問題があります。日本画家で知らない人はいないくらい有名な話ですが、現在でも日本画界では(特に院展では)タブー視されていて、公で話すのをためらう話です。この事件は、作家が著作権侵害されたのではなく、作家が著作権侵害をおかしてしまった代表例です。

               *

 時は、私がまだ美術高校に通っていた頃です(30年くらい前)。当時、日本画壇は、日展の東山魁夷先生、院展(日本美術院展)の平山郁夫先生などの人気作家を輩出し、一般大衆の一定の支持もありました。しかし、時代の流れの中、じょじょに日本画界の勢いは弱まり、世間では日本画・油彩画などの純粋美術から、現代アートや、マンガ・アニメ・ゲームといったサブカルチャーに文化の中心が移りつつありました。
 そんな中、久しぶりに世間を賑わした日本画の話題が、その著作権問題でした。
 当時、平山郁夫先生の後継者として最も有力視され、実力・人気ともに絶頂にあったS先生が、テレビや新聞で一斉に報道されました。久々に世間の話題に上った日本画の話題は、事もあろうにマイナスの話題・・・「著名日本画家が、外国の写真家の作品をまるまるそのままコピーして、作品に描いていた」・・・という衝撃的なものでした。これが今のネット時代でなくて良かったと思います。もし今なら、どれくらいネット上でバッシングされた事でしょうか。
 これによってS先生は東京藝術大学の教授を辞し、平山郁夫先生が弟子の不始末をテレビや新聞でお詫びするという事態になり、周囲に様々な禍根を残しました。S先生自体は相当の売れっ子だったので、その後もご活躍されていますが、一時の勢いはそがれ、代わりに院展・東京藝術大学では、T・T先生、M先生、F先生、T・Y先生などが、最有力でご活躍されるきっかけになったと思います。

 私が思うには、その個人問題よりも深刻なのは、それ以降、「日本画はそんな世界なのか・・・」という認識が世間に浸透したという事実です。それでなくても、以前から日展・院展などの審査の不透明性(審査結果が前もって決まっているのではないか、など)が噂されてきましたから、この事件がとどめを刺したように思います。
 その後も日本画壇では売れっ子もいますし著名作家もいますが、世間の「日本画」の認知度・人気は低迷し、閉塞的に業界内だけで世界が完結してしまう感がぬぐえません。唯一、現代アート的に活動する千住 博先生が、傑出して目立っていますが・・・。
 時代の流れの必然もありますが、この事件が日本画界の今日の不振を助長した事は確かでしょう。

 その後も、平山郁夫先生ご自身のトンボを描いた絵は、岩橋英遠先生のまねではないか等の憶測が美術界で飛び交いました。私は、その作品より、平山先生の代表テーマのラクダの絵は、岩橋英遠先生のエジプト・ファラオの絵のラクダにそっくりだなと思っていました。しかし、これらの平山先生の絵は独自に十分アレンジされており、オマージュの範囲内だと思います。
 近年でも、院展のU先生が、有名な写真家の竹内敏信氏の作品をまるまるコピーして描いているのを私の友人が発見して、「これってまずいんじゃない・・・。」となった事があります。ただ、この件は公にはなっていません。

               *

 作家が著作権侵害されるケースも多々あり、私も最近、「絵本」を出すようになり、その対応に苦慮する事が多くなりましたが、逆に作家側が著作権侵害をする場合もあり、それをきっかけに業界全体にダメージを与える可能性もあるので、私達作り手も肝に銘じて、愚直に制作に望まなくてはいけないという事です。
 取材には自分の足を使い、制作の基本として自分がスケッチし写真に撮ったものを用い、もし他人の写真などを使う場合、あくまで参考の範囲内にとどめるという心がけが必須です。楽をして制作しようなどと考えていたら、決して良い作品は描けませんし、文化は退廃していくばかりなのです。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

後藤 仁(GOTO JIN)

Author:後藤 仁(GOTO JIN)
 ~後藤 仁 公式ブログ1~
日本画家・絵本画家 後藤 仁(GOTO JIN)の日本画制作、絵本原画制作、写生旅行、展覧会などのご案内を日誌につづります。

  〔後藤 仁 略歴〕
1968年兵庫県赤穂市生まれ。15歳、大阪市立工芸高校美術科で日本画を始める。東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男先生(恩賜賞受賞者)に師事。在学中より約12年間、旧岩崎邸、入船山記念館、孫文記念館(移情閣)等の金唐革紙(手製高級壁紙)の全復元を行う。卒業以降は日本画家として活動し、中国・インドをはじめ世界各地に取材した「アジアの美人画」をテーマとする作品を描き、国内外で展覧会を開催する。近年は絵本の原画制作に力を入れる。
○絵本作品に『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店)、『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)、『わかがえりのみず』(鈴木出版)、挿絵作品に『おしゃかさま物語』(佼成出版社)。『犬になった王子 チベットの民話』は、Internationale Jugendbibliothek München ミュンヘン国際児童図書館(ドイツ)の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。NHK日曜美術館の取材協力他、テレビ・新聞等への出演・掲載も多い。
○東京藝術大学・デザイン科非常勤講師。東京造形大学・絵本講師。金唐革紙保存会 主宰。日本児童出版美術家連盟(童美連)(太田大八先生、赤羽末吉先生、いわさきちひろ先生らが創設)会員・理事。絵本学会(太田大八先生らが創設、現会長:松本 猛先生)会員。日本中国文化交流協会(井上 靖先生らが創設)会員。この本だいすきの会(代表:小松崎 進先生)会員。千葉県松戸市在住。

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絵:後藤 仁 /文:君島 久子 /出版社:岩波書店絵本ナビ


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