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2018-01-09

【日本画・美人画論】日本画・美人画の真髄とは 後藤 仁

絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』表紙・部分絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(表紙・部分) 後藤 仁

【日本画・美人画論】 日本画・美人画の真髄とはどこにあるのだろうか?

 江戸時代までの狩野派、琳派、大和絵各派、水墨画各派、浮世絵各派といった様々な流派をまとめて、「日本画」というカテゴリーが明治の初めに確立してから、およそ140年が経った。明治時代には、竹内栖鳳がライオンの絵を描いただけで、「これは日本画の花鳥画の画題にあらず、日本画とは言い難し」と師匠筋から厳しく批判・非難されたそうだ。
 現在では、日本画の画題・テーマに関しては何でもありの感であり、日本画の画材(岩絵の具、水干絵の具、膠 等)を用いさえしていれば「日本画」とされる。
 しかし、それでは日本画材を使用していれば、何もかもが本格的な日本画とされる事になり、日本画界がじょじょに勢いを失いつつある現在、イラストレーション・マンガ・アニメーションが全盛の昨今、日本画が存在する価値観を見出しにくい。私はやはり、他の絵画ジャンルにはない「日本画」ならではの独自性・優位性を意識して描いていきたいのだ・・・・。

日本画「トン族琵琶歌~チャンファメイ」日本画「トン族琵琶歌~チャンファメイ(中国 貴州省)」(P25号・部分) 後藤 仁
 
 絵画には「画品」という観念がある。古来より、日本画も美人画も、「画品」、つまり”絵の品格”というものが大切だと考えられてきた。あと、絵画作品は、「骨格」がしっかりしていないといけないとされる。骨格とは、ただ人や動物の骨をとらえる事をさすだけでななく、物体の構造を解明しようとする精神の働きであり、万物の”本質”に迫ろうとする意識の事で、人物画のみならず、花鳥画・風景画・静物画 等、全ての絵画ジャンルに必要な要素である。その辺りが、絵画と、イラスト・マンガ・アニメとを分ける重要なポイントなのではないか。
 本来、絵描きの私が他人の作品をとやかく言う立場ではないのだが、近年の日本画界の動向を見ていると思う事が多々あるので、どうせ私の絵画論など出版物(本)になる機会は少ないだろうから、ブログで述べておこうと思う。~~

 最近、私は、日本画家が「絵本」を描く場合の問題点を、度々ブログ等でも述べてきたが、逆に近年、他ジャンルから参入し、日本画家を名のる人も度々見かける。かつて、院展・日展・創画会の三大派閥一辺倒だった保守的・閉鎖的な日本画界に、近年、無所属作家の活躍が目立ち始め、業界の再編成が行われようとしている。そのような日本画壇・日本画団体の空洞化・弱体化の空気を察してか、他ジャンルから日本画界に新規参入する作家も度々見かけるようになってきた。様々な絵画ジャンルが垣根を越えて切磋琢磨し合うのは実に良い事で、絵画界全体の活性化につながる。ただ、それぞれのジャンルには、それぞれのこだわりもあり、人間関係もあるので、実力のない者の安易なる他ジャンル参入は好結果を招かないものである。
 近年になり墨彩画を描き出した有名芸能人が日本画家と名のっている例等は論外だが、ある著名な人物画イラストレーターも近年、日本画家を名のり出したし、独学で日本画を学んだとかいう、ある美人画家は最近、話題であるらしい。
 後者の二人は、上手いは確かに上手い人達であるが、いずれも本格的に日本画や絵画の基礎(デッサン・写生、着彩、模写 等)を学んでいないようで、絵画的な骨格感を感じない。また、その三者目の美人画家は、絵が顕著に写真的でもあり、画品に欠けるところがあり、私等が見ると、通俗性が目につき、ひきつけられないのである。
 また、幼少期や大学時代から日本画をおさめた本格的とされる日本画家でも、同様の問題を感じる作家は少なくない。近年、テレビにも頻出する、美人画・家ならぬ美人・画家ともてはやされる日本画家の絵は、上手いは上手いが、やはり画品に大きく欠け、どうしても良さが理解できない。まあ、いずれも今、とても人気の方々らしいので、少なくとも私よりは腕は確かなのだろう・・・。

日本画「クマリ-The Living Goddess-(ネパール)」日本画「クマリ -The Living Goddess-(ネパール)」(F50号) 後藤 仁

日本画「Beautiful village - 美しき村 -(ベトナム)」日本画「Beautiful village - 美しき村 -(ベトナム)」(F30号) 後藤 仁
 
 これまでの日本画史上でも、日本画の「画品」については個性・勢い等を阻害する要因とも考えられ、大正時代や昭和後期~平成時代には、品格にとらわれずに、下品だろうと通俗的だろうとエログロであろうと、インパクト・芸術性があれば良しとする考えが度々台頭してきた。たしかに私も若い時分(30歳代まで)にはそのように考えた。ただ、今日のように多くの絵画ジャンルが入り乱れる時代、日本画の独自性・優位性が見出せず、このまま行けば日本画界の衰退が必定の現代で、私が日本画ならではの本質的に重要な”真髄”とは何かを考察する時、改めて「画品」というものの重きに思い至るのである。
 大正から昭和初期に活躍した美人画家の鏑木清方、・・・さかのぼれば、長谷川等伯・円山応挙・伊藤若冲 等の崇高なまでの「画品」が私の目指したい境地であるが、容易には到達できない高みにある。
 私はこれからも高き審美眼・美意識を磨き、保守的・様式的ではない、清新で深遠な私ならではの「画品」を追求し、日々、制作にいそしみたい。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁
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テーマ : 絵画
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-12-16

「絵本」「日本画」の模倣者たち

絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』表紙・表絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)

 何度かこのブログでも触れた事ですが、ごく最近になって、私の知人でもある東京藝術大学等を卒業した日本画家達が、にわかに「絵本・絵本・・・」と言い出しました。私が把握しているだけで、院展系・無所属系日本画家6~7人はいますが、私の知らない作家を入れると、実数はその数倍~数十倍はいるでしょう。実際に児童書出版社から「絵本」を出版したり、「これから絵本を描きたい」等と公言しています。その中で、直接、私に相談してくれた人は一人だけで、私の予備校講師時代の教え子であり日本画界の後輩である、その日展所属 日本画家の画力・思考には素晴らしいものがあり、共に活動したいと思える人物です。それ以外の人は、他人に相談する義理は元々ないにしても、私に隠すかのように、こっそり絵本を出す始末です。
 私は約10年前に福音館書店から絵本制作の依頼を受け、5年近く前に初絵本を出版しました。「福音館書店こどものとも」は出版までにかなりの期間(作家・編集者にもよるでしょうが、およそ5~6年)がかかるので有名ですが、「福音館書店かがくのとも」や他の出版社からなら、半年~3年間程で出版に至るでしょう。つまり、彼らの出版時期から考察すると、どう考えても私が「絵本」の世界で活動し出して、私の評判をフェイスブックやブログ等のネットで知って、その活動を真似して、にわかに言い出したに違いありません。ちょっと位、「自分もやるよ!」と知らせてくれてもよいでしょうに・・・。日本画家には、従来から秘密主義の人が多いが、ここまで短絡的であからさまになると、人間的な道義心に欠ける行為と言えましょう。

絵本『犬になった王子(チベットの民話)』表紙 小絵本『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)

 日本画家で「絵本」を描いたので知られている作家は、秋野不矩先生(文化勲章受章者)、堀 文子先生等の日本画界でも特別に著名な作家ですが、それらは日本画制作の傍らで少しだけ手掛けたという感覚です。院展・日展は縛りがきついので、少し昔は、絵本を描けるのは、ほとんど無所属か比較的自由度が高い創画会の所属作家に限られました。日展の東山魁夷先生が若い頃に絵本も手掛けていた事が最近知られて来ましたが、生前、東山先生は絵本を描いていた事実をひた隠しにしていたそうです。
 かつて、純粋美術(日本画・洋画・彫刻 等)の世界からは、出版美術・イラストレーション等の商業美術を低俗なジャンルと見る傾向が伝統的にありました。その為、よほど著名なトップクラスの作家は例外として、通常の日本画家が絵本等を手掛けると、ドロップアウトした・邪道に走った等と陰口を叩かれ、画商やコレクターが手を引いたと言います。これ程、イラスト・マンガ・アニメが隆盛を極める今日でも、その傾向は根強く残っています。それは古過ぎる日本画壇の体質によるもので、時代に即した意識改革ができないと、将来、日本画界はいよいよ衰退の憂き目を見る事になる恐れもあるのです。
 私は、本当に質の高い「絵本」は、純粋で高尚な美術品になり得ると確信しています。その為にも、日本画家として活動しながら、本格的に絵本(出版美術)の世界にも身を投じたのです。今の日本の絵本界の現状を俯瞰して、もっともっと優れた絵本を子ども達に提供しなければならない危機感を感じました。かつてのアーサー・ラッカムやビアトリクス・ポターや いわさきちひろ や赤羽末吉、滝平二郎のような芸術的な絵本を・・・・。

挿絵本『おしゃかさま物語』表紙挿絵本『おしゃかさま物語』(佼成出版社)

 ”絵”の世界も熾烈な競争社会なので、もちろん活動自体はその人の自由・勝手ですが、今まで絵本等に全く関心がなさそうに見えた人や、全く口にすらした事がない人まで、ごく最近「絵本・絵本」と言い出しました。バブル崩壊後、「日本画」の売り絵だけで食べて行くのは至難の業なのですが、事実としては出版不況の昨今、「絵本」を一冊出せるだけでもましな方で、それで食べて行くのは、これまた至難の業です。つまりはどちらの道も、極めて厳しくて、「日本画でダメなら絵本で・・・」とはいかないシビアな世界なのです。
 近年の日本画家、特に東京藝術大学の院展系の日本画家は、皆、売れている先生や先輩の画風・活動形態をそっくり模倣するきらいがあり、私が現代日本画壇に少々の嫌気と大きな疑問を感じた一因にもなっています。私が学生だった30年以上前から、福井爽人先生の白緑(びゃくろく)もみ紙や、宮迫正明先生の縦のハッチング、田淵俊夫先生、手塚雄二先生、吉村誠司先生辺りの画風をそのままマネている日本画家が山のようにいます。悲しい現実だ・・・。なぜ、「人がその道を行くなら、俺はこの道を行く。」とならないのだろうか? 個性・独自性・・・それこそ絵描きの命脈なのではないのか。
 私は、現代版の新しい「物語絵」を長年模索する中、福音館書店からのお声がけをきっかけに、自ら腹をくくって、本格的に「絵本」の業界に飛び込みました。日本画の長い経歴を一旦打ち捨ててでも、絵本の初心者として絵本業界内で頭を下げながら一から積み上げようとしている所です。その努力・苦労も知らずに、安易に「絵本・絵本」とよく叫べるものだ。
 つまみ食いの感覚で、結構ギャラがもらえたからオイシイ等と言う安直な考えで、日本画家・洋画家が「絵本」を語ると、結局、絵画も絵本もどちらも中途半端な作家に終わるでしょう。また、絵本を生業としているイラストレーターや絵本作家達に申し訳ない事をしていると思わねばなりません。絵本をやるのなら、その業界の事をもっと平身低頭、丁寧に勉強して、業界内での人間関係を作らねばなりません。

絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版)絵本『わかがえりのみず』(鈴木出版こどものくに ひまわり版)

 私は今、日本画家を基調として、物語絵の表現手段として「絵本」を大切に考えて描いています。日本画・絵本、どちらの業界にも通じて、いずれも本腰を入れて頑張っています。それはかなりの労力・気力を必要とする事で、安易な日本画のエリートぬるま湯に浸かっていた人には酷すぎる事であり、誰にでもできる事ではないのですが・・・。
 「日本画」「絵本」のみならず、前に私が手掛けた手製高級壁紙「金唐革紙(きんからかわし)」でも同様の事が言えますが、世の中には”本物”と”偽物”があります。肩書や表面上の実績だけでは真実はとうてい知り得ません。何が”本物”で何が”偽物”なのか・・・、その識別は極めて難しいのですが、よくよく観察さえしていけば、その一生涯の行動や思考に必ず見え隠れするものです。
 今、私の模倣者が次々に現れて来ました。それは見方を変えれば、私が同世代・後輩作家達に影響を与え、彼らが私の活動を認め、真似せざるを得なくなったともとらえられ、私に脱帽したも同然である事を、彼ら自らが告白していると言っても過言ではないのです。

 日本画家・絵本画家 後藤 仁

絵本『金色の鹿』絵本『金色の鹿』(子供教育出版)


テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-12-10

私の受けた三つの差別・偏見経験談(TBS報道特集「色覚異常」放送を受けて)

 2017年12月9日(土)、テレビのTBS報道特集で「色覚異常」をテーマに放送をしており、色覚異常の子を持つ親が悲しんでいる様子を見て、「そんなに気にする必要はなく、誰もが一つや二つくらいは何らかの障害を持ちながらも立派に生きているよ・・・。」というエールの気持ちを込めて、軽く自分のフェイスブック・ツイッターでつぶやきました。
 そしたら、ツイッターでのつぶやきへの反応が予想以上に大きくて、前に外国で大地震があった時に「クマリ(ネパールの生き神)」の日本画作品画像をアップした時も反応がありましたが、それを超える大きな反響(私のツイートにしてはですが)があり驚きました。テレビネタという理由もあるのでしょうが、色覚異常等の身体的個性に根強く残る、差別や偏見に対する人々の意識の大きさを反映しているのではないかと思いました。

「クマリ -The Living Goddess-(ネパール)」F50号日本画作品「クマリ -The Living Goddess-(ネパール)」(F50号) 後藤 仁

 私はこれまでの50年間の人生で、大きいものでは、およそ3度の差別や偏見にさらされました。
 一つ目は、当時は色覚検査で引っ掛かるのものの、ほとんど意識すらしていなかった「色覚異常」(当時は「色盲」という差別的な名称で呼ばれました。「色覚”異常”」も差別的と言えますが・・・)です。
 色覚検査の時、最も簡単な字は読めるのですが、3つ目位以降は読めません。逆にこれが読める人が不思議でなりませんでしたが、小中高校の40人のクラスの内で私だけか、他に1~2人位しか引っ掛かっていないようでした。大学受験時の大学に提出する身体検査でも当然ながら「色覚異常(赤緑色弱)」と判断され、東京藝術大学 日本画専攻を受ける時に、これが理由ではねのけられないだろうなと、フッと不安に思った事はあります。その時の眼科医が「これは見えるかな」と出した灰色っぽい点々の字は簡単に読めました。すると医者は「これは通常の(色覚異常でない)人では識別できない、わずかな白黒の違いで書かれた字なのだよ。たまに色弱の人で読める人がいる。」と言います。つまり色の弱点を白黒の濃淡識別で補っているそうで、どうりで私は着彩が少し不得手でデッサンが得意な訳だと思いました。
 ただ、私の色覚異常は軽いものなので、日常生活で困った事もほとんどなく(今思えば、黒板の赤い字が読みにくかった事等があったのかも知れませんが・・・)、今までに私の色覚異常に気付いた他人は、多分、美術予備校(立川美術学院)時代に水彩着彩を描いている時に、当時の日本画科講師の村上 隆さんが「後藤、葉っぱが赤色になってんじゃねーか。お前、色感がおかしいんじゃねーか。」と指摘された時位だと思います。さすがに村上 隆さんの感覚は鋭いな~と感心しました。

 二つ目は、高校時代、大阪市立工芸高等学校 美術科でクラスの大半から「無視」という差別(いじめ)を受けた事です。私は当時、美術実技・学科・体育ともにずば抜けた首席を保っており、それへの周囲の嫉妬・妬みも頂点に達していたようです。私は元来、変わり者ですし、あまり他人に気を使いもしないので、クラスで最も仲の良かった人と急に仲違いしたのをきっかけに(経済的理由で大学受験を断念したとかで、向こうが一方的に私を避けだしたのですが・・・)、高校2年の中期から、およそ1年半もの間、クラスの男5人程を中心にクラスのほとんどの男女から完全な無視と時に暴言を受けました。正直、かなりきつかったですが、大学に進学して”絵”を描き続ける事しか当時の私の頭になかったので、誰よりも早く学校に出て授業前にデッサンをして、放課後、誰よりも遅くまで水彩を描く毎日でした。他人との友好・交流はあきらめていました・・・。
 ただ、本心では極めて辛かったと見えて、卒業して東京の美術予備校に一人上京した後は、あまり本当の能力を出し過ぎずに、ほぼ年中バカ(ダメ人間)のふりをしてピエロを演じるといった、ひねくれた性格が助長されてしまいました。東京藝術大学 入学後もその傾向は続き、大学を2年間も通わずに半ば意図的に留年するという失態を繰り返しました。もし、私の最大の実力を出してしまうと、成績は首席近くになり~修士・博士課程進学、院展で平山郁夫先生門下としてエリート街道まっしぐら・・・等となり、また周囲からいらぬ差別や偏見・揶揄を受けるであろう事を、潜在的に避けたかったのだと思います。
 
 三つ目が、今までで飛び抜けて一番辛い経験なのですが、大学の卒業間近に父が急死した事です。中学・高校と反抗期の私のひねくれた性格で父と反目して、そのまま上京した私でしたが、本当は父は私の”絵の路”を心の底では最も理解して応援してくれていたのだと思います。
 東京藝術大学で卒業制作をしていた4年生の年末の事、突然、兄から電話があり、「父が死んだ、とにかく帰って来るように・・・」と言います。何が何だか分からずに、呆然と実家に帰りました。父が勤めていた大手企業(ここではどこかは言いませんが、誰もが知る大企業グループです)での退職間近の度重なる強制的な人事異動と退職勧告でうつ状態になった父は、突発的にビルの7階辺りから飛び降りて自殺したと言います。「うつ」は当時、労災には認定されませんでした。父の死に顔が穏やかだったのが、唯一の慰めでした・・・。真相は闇の中なので誰にも分かりませんが、その時、社宅の管理人をしていた父は、何らか間違ってビルから転落した、あるいは誰かに突き落とされた可能性もゼロではないと当時は思いましたが、状況からは自殺だと警察は確定しました。私も今では、うつ状態による自殺だったのだろうと考えています。遺書も何もなかったので誠に残念だったのですが、当時は私もひどく落ち込んで、大学の卒業謝恩会に出る気も全くなく欠席したら、事情を知らないクラスの皆から非難されました。当時はクラスの誰にも父の死は伝えませんでした。それ程、あまりにも辛過ぎたのです。
 父が死んで最初の1年間ほど、ほぼ毎夜、夜ごと父を思い出してはむせび泣きました。その後も折に触れて父の事を思い出しては涙しました。生き返った父に会う夢を、幾度となく見ました。人間はこんなにも涙が出るのだと知りました。中学・高校とわがままで父と反目し、親不孝のまま父を逝かせた事を、心から悔やみ、自分を責めました・・・。
 父の死後、8年目位に「インド写生旅行」をしました。その時、ガンジス川で夜に流し花を献花し、早朝に軽い沐浴をし、父を思い出して涙を流しました。その時の朝日が美しかった・・・。何か父もようやく私を許してくれた気がして、また、父は父なりに充実した人生を歩んだのではないかという気もして、心がさっぱりしました。それ以降も、父の事を思い出すと目頭が熱くはなりますが、父とのいい思い出だけが心にあるのです。
 「自殺遺児」という言葉があります。親を自殺で亡くした子は、ほぼ、自分を責めると言われています。周りの人々の好奇の目の偏見にもさらされ、口を閉ざし心を閉ざすと言います。私は27歳で父を亡くしたのでまだ幸いでした。それでも、一応の心の整理がつくまでに8年位、このように平気で他人に語れるまでには、20年近くもの年月を要しました。これが子供時代だったら、心の傷ははたして癒えたのでしょうか・・・。
 私は基本的に、精神的に尋常ならぬ強いものを持っているようなのですが、人はそれぞれ性格が異なります。もし、少しでも心が優しい人間だったら、今頃、私はこの世にいないかも知れません・・・。

絵本『犬になった王子(チベットの民話)』表紙 小絵本『犬になった王子 チベットの民話』 (君島久子 文、後藤 仁 絵/岩波書店)

絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』表紙画像絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』 (君島久子 文、後藤 仁 絵/福音館書店こどものとも)


 人は他人とは異なる、何らかの身体的・精神的個性を持って生きて行きます。それに対する偏見・差別というものは、多分、永久的に無くならないのでしょう。ただ、できる限り他者を理解し、個性は個性として尊重するといった心根・意識を最大限に心掛ける事が何よりも大切です。そうしていかないと、今の時代、個人・地域・国、それぞれのレベルでの軋轢というものは、とうてい永久に癒える事はないでしょう。

 日本画家・絵本画家 後藤 仁

テーマ : 差別について
ジャンル : 学問・文化・芸術

2017-01-11

清貧芸術家論・・・絵描きの「清貧」なる生き方

 私はあくまでも一絵描きであり、特定の宗教や思想に傾倒している人間ではないのですが、かつて、ゴータマ・ブッダやマハトマ・ガンジー等がとなえた「無所有」という思想にひかれるところがあります。しかし、俗人であり画家でもある私には、その実践は到底不可能です。

                     *

 私の率直過ぎる言動は、時に他者から大きな誤解を招く場合がありました。先日、大学時代の同級生から久しぶりに電話があったのですが、「仁は昔から権威志向があったから・・・。」という言葉を聞いて、「ああ、他人はそんな風にとらえるのだな・・・。」と思いました。(その電話相手は酒井田柿右衛門の奥さんなので、当人の方がよっぽど ブルジョア・権威者を志向しているじゃないか、と思いましたが・・・。ただ、学生時代の旧友は、歯に衣着せぬ発言で正直に言ってくれるので、その内容に一理ある可能性も考慮して、心に留めておきましょう。)確かに、年配者ほど肩書にこだわるので、本当は自分の価値観ではないのですが、あえて肩書や世間的評価を強調する場面が、近年の私にも度々あります。そうしないと周囲の人々から、特に年配者から低く見られる嫌な経験を何度もしているからなのです。大多数の世人は、純粋にその人の”絵”の実力や努力を見てくれないもので、その人の背景ばかりを見たがるものです。

 たまたま私は、中学生・高校生の頃は、学校で1~2位を争う位に足が早かったのですが、高校の体育祭の徒競走で1位を取ったりしているのを見たクラスのある男は、「後藤は戦争があったら、いち早く駆け付けて戦うような性格であろう。」という意見を述べました。それを聞いて、「ああ、世人はそんな風にとらえるのか・・・。」と思いました。曲解もはなはだしいですが、私が大の厭戦家・非暴力主義である事を知らないのでしょうね・・・。大阪市立工芸高校 美術科では、私は美術の実技も学科も体育も全て群を抜いた首席だったので、周囲の妬みも頂点に達していたのでしょう。卒業直前に美術科で作った小冊子があるのですが、クラス40名の中で「最も出世しそうな人ランキング」第1位には、私が選ばれていました。他人は勝手な観測をして、勝手な警戒をするものです。
 東京藝術大学 日本画専攻では、さすがに私より絵の才能のありそうな人がクラスに2~3人はいましたが(手先の器用さでは、多分私に優る人はいなかったでしょう)、誰よりも真面目にコツコツと描き続ける私に出世の脅威を感じた人もいたようで、クラスの中心的な一部の人達から、言葉と態度での攻撃を受けた事も度々あります。多くは嫉妬・恐怖心からの言動なのかも知れませんが、いずれも私の本意を突いておらず、誠に残念な事です。
 私は子供の頃から、”絵”を描く事のみに心底からの幸せを感じて来ました。ただそれだけの価値観です。ある種の異常性なのかも知れませんが、それに関する事以外には何の魅力も感じないのです。社会的な出世欲や金銭欲・物欲は、一般人に比べて極めて低い方だと思います。

 大学の時、1年生より2年生が、学部生より大学院生の人達が偉そうにしている日本画界の縦構造を目の当たりにして、大いに疑問を感じました。大した事もせず、ただ、そこにいるだけでも、人は勝手に進級して行きます。それなのに上の学年だという理由のみで、偉そうにできるのだろうか・・・。それが、講師・教授、院展作家ともなれば、雲上人の様相です。大学2年生の頃には疑問は膨らむ一方で、「自分はこんな低い実力のまま安易に出世して、下の者に威張りちらすような人間になってはいけない・・・。」と思い悩むようになりました。大学1~2年時の私への先生や先輩・同輩からの評価は、そのまま行けば後藤は必ず出世して来るだろう、という雰囲気でしたが、私もそんな周囲の視線をひしひしと感じていました。
 当時の私が、夢を抱いて入学した東京藝術大学に幻滅を感じ、2年生の終盤から2年間余りも通学を止めた理由には、切磋琢磨しあえそうな真の絵描き仲間に出会えなかった失望感の他にも、出世を遅らせたいという奇妙な思考もあったのです。大学を2年間も留年する事で、私が落第生の烙印を押されたなら、誰も私が「出世を狙っている、権力を欲する」等という根も葉もない噂を流さぬだろうと・・・。また、そのような重い足かせを自分に着せる事で、私自身が「慢心」から遠ざかり、茨の路を歩めるだろうと。それでこそ、本当の芸術家になれるだろうと・・・・。
 私はやはり、かなりの変わり者なのでしょうが、当時は若気の至りも強く、今以上にバランスの悪い人間だったようです。

 実はそのような逆行行動は、高校・予備校・大学と度々取って来ています。美術予備校・立川美術学院 時代にも、あえてふざけたバカ生徒のふりをして授業にほとんど出ないという奇行を取っていました。そんな私の有様を見た予備校の時のほとんどの知人は、未だに私の事をバカな男だと思い込んでいるようですね。彼ら彼女らは、私の人生を通した演技に、まんまとだまされたのです。大学時代の知人にも、「後藤はいい加減な人間だ、何を考えているか分からない・・・」とか、だいたい評判が悪いようです。その反面、中学校・高校時代の先生や後輩の多くは、私の事を「天才」「超人」「宇宙人」等と言って、過大評価してくれていました(同輩からは大抵嫌われますがね)。ここに、私にも理解しがたい不思議な二律背反が起こっています。自分の事は案外よく分からないものですが、実際の私は、その評価のどちらでもなく、ただの「絵を描く事が好きな変わり者」なのではないかと考えています。
 確かに私は人並み外れてバランスの悪い変わり者である事は間違いないでしょう。自意識過剰の部分もあるのでしょう。そこが悟りを開けない一番の要因なのだと理解しています。ただ、懸命に制作に没頭する姿や自信過剰とも取られる言動からなのか、あらぬ疑い・・・「権力を志向している」「自分だけの利得を考えている」だのといった憶測が未だに生きている事に驚くのです。
 そのような憶測の要因があるとすれば、ひたすら自己の制作に打ち込む姿勢が自分本位ととらえられる可能性や、「権力への反抗心」が他人からは「権力への志向」としてとらえられる可能性が考えられます・・・。私は間違った権力者が世間に幅をきかす事に、大きな危惧を抱いています。元来、社会の歪みや矛盾には、かなり敏感な方で、特に弱き者が強き者に抑圧される事象が許せないという根っからの性質があるのです。間違った思想を持った人物が世間から評価され、権限を行使して、弱き者達を駆逐していく構造には許せない憤りを感じます。私は、偏った権威権力を毛嫌いしている人間なのです。それは、美術界もその他の一般社会においても同じです。もし世の中にそのような傾向が強まって来るのなら、私の小さな力ですが出来る範囲で一絵描きとして、作品表現上で抵抗していかなければならないとの信念は持っています。

                     *

 「茨の路を行く・・・」口で言うのは簡単ですが実践するのは至難の路です。私は日本画界での安直な出世から、あえて遠ざかり、無所属の不安定な路を歩みました。豊かな家柄でもなく地方出身の私が、絵の世界で生きていくのは、至難の業です。

 私は高校3年生で初めてアルバイトをしましたが、民芸品店の販売員で時給は確か560円位でした。その後、高校3年の終盤、実家を離れ大阪の鶴橋の ぼろアパートに住み込み、新聞配達とファストフード店員を掛け持ちしながら2か月間ほど高校に通いました。当時の私は親との折り合いも悪くて、早く家を出たかったのです。高校卒業後は上京して、新聞奨学生として新聞配達・集金をしながら1年間、美術予備校に通いました。私の独り立ちは、のっけから波乱含みの船出だったのです・・・。

 大学3年生から2005年末までの約12年間、強欲な経営者の元で「金唐革紙(きんからかわし)」という手製壁紙の復元製作を手掛けたりしました。このブログにも書いていますが、その金唐革紙製作の重労働と自身の日本画制作を両立させるのは、かなり過酷な路でした。ただその頃は、大学卒業後、金銭的には最も安定していた時期で、その点だけは経営者には感謝の念を忘れてはいません。(とは言っても、金唐革紙の賃金と日本画の収入は、合わせても高校卒の初任給程の微々たるものです。)
 大学卒業後、しばらく金唐革紙の仕事が無かったので、1年余り、取手市にある居酒屋のパントリー(飲み物担当)の仕事もやりました。私は誰よりも早く正確に飲み物を作れると評判になり、「パントリスト」という称号で呼ばれました。あまりうれしくはないですがね・・・。
 金唐革紙 製作研究所の経営者の脱税も発覚し、その独善的な振る舞いにも我慢の限界が来て、2005年末、製作研究所を完全に離れました。しかし、それからがまた大変でした。今の私の日本画作品評価額(号3~4万円)で売り絵だけで食べて行くには、1か月間に、F30号位の中品なら1枚、F6号位の小品なら4~5枚をコンスタントに売っていかないと不可能です。何故なら、日本では画商の権限が強くて、百貨店・デパートで画商を通して絵を販売すると、画料(下代)は売値(上代)の20%にも満たない場合がほとんどなのです。バブル期以降、若手作家が絵だけで食べて行くのは奇跡に近い事です。

 金唐革紙を辞めて1年半位は貯金を取り崩しながら、絵の制作だけに集中して生活していましたが、段々厳しくなって来たので、2007年の7月末、とりあえず日雇い派遣労働(時給は800~1100円位)をするしか方法がなくなりました。すぐにできる美術関係の仕事など無いのです。今は倒産した悪名高い グッドウィルという派遣会社に登録して、ソフトバンク・セブンイレブン等のピッキング(荷物仕分け)、クリーニング会社の作業、アウトレット家具店の清掃・販売、引っ越しの手伝い等、単調で過酷な労働ばかりをやりました。ピッキング作業では単調な荷物仕分けを一日中やらされ、松戸の大型クリーニング会社ではガラの悪い年下の社員に罵倒されながら悪臭のする服を大量に洗い、千葉の有名なアウトレット家具店 メガ・・・何とかでは短気な副店長や社員に怒られまくりながらこき使われ、有名な アート・・・何とかいう引っ越し屋では行った先で初めて制服を着させられ、年下の無愛想な社員に怒鳴り散らされながら、重たい荷物運びを延々とやりました。超有名な ヤマ・・・何とかいうパン屋の松戸工場は、焦げ落とし等の作業が過酷で、社員がガラが悪い事で派遣仲間では悪名高かったので、私もここだけは行くのを避けました。その他にも数か所の派遣先を体験しましたが、いずれも単調で過酷な作業が続くだけではなく、社員からは「そこの派遣!」と名前さえ呼んでもらえず、こき使われるさまは、まさに新しい形の「奴隷制度」だと感じました。
 まれに個人経営の社長さん等で良い人もいましたがね・・・。今は、多少改正されて日雇い派遣は廃止されたと言いますが、何らかの形でそれらは存続しているのは間違いないでしょう。そしてその頃、一緒に働いていた社会的弱者の人々・・・ほとんどの人は少しおとなしいが真面目ないい人ばかりでした・・・は、今もそのような実りの薄い仕事を続けているのでしょうか。悲しい格差社会の実態を体感しましたが、なかなか普通の絵描きが知りえない、様々な仕事の裏の部分を知れたという意味では、今後の絵本制作等にもプラスになる点があるのではないかと、今ではポジティブにとらえています。

 2007年末まで、そんな派遣労働生活をしていたのですが、その終盤の2007年12月から松戸市みのり台の、とある個別指導塾の講師をやり出しました。私も美術大学卒とはいえ小中学生になら多少は学科を教えられます。しかし、今必要とされるのは私の比較的苦手な数学や英語ばかりです。やる気のない生意気な生徒に好きでもない学科を教えるのは、全く性に合っていません。おまけに大学卒業したての20歳代前半の若い塾長まで世間知らずで生意気ときていますので、2009年8月でそこを辞めました。ただ、そこの塾生に、学科は全くできないが結構 絵の上手いオタク系の中学生が一人いて、「個性的な彼らの才能を伸ばせる世の中ならいいのだが、良い指導者に巡り合えず一歩間違えば、悪い方向に進んでしまうだろうな・・・」と心残りもありました。
 2007年10月以降、派遣労働、塾と並行して、カルチャースクール/読売・日本テレビ文化センター柏・金町の「日本画・水彩画・デッサン」絵画講師を始めました。その後、NHK文化センター柏やコープみらいカルチャー春日部と、少しずつ講座数を増やして行き、何とかギリギリ生活できる体制を整えて行きました。今は5つの講座を受け持っています。ただ、カルチャースクールの受講者は3か月単位で増減するので収入も安定しませんし、人数に応じて講師料が定まっているので、よほど大人数の教室でもない限り、収入は微々たるものです。

 ついでに今までに経験した、その他の主な仕事を挙げてみましょうか。大学時代には、福岡美術研究所 夏期・冬期講習 講師(数週間)、河合塾美術研究所(東京校)日本画科講師(1年間)、区立児童館 図工教室講師(1年間) 等の美術関係の仕事の他、美術館監視員(1週間)、会場設営・大工(3か月間)、花市場・仕分け(3か月間)、郵便局・仕分け(2週間)、明治神宮の正月のしるこ屋(数日)、百貨店警備員(2か月間)、大学卒業後に NHK大河ドラマ「元禄繚乱」障壁画制作(2か月間)、結婚式ビデオカメラマン(1か月間) 等、今までに30種類位の様々な職種のお仕事を経験しています。これほど多くの職業を体験している人は世の中にほとんどいないと思いますので、この知識を絵本制作等に活かせないかと思案しています。
 こう書いて来ると、常にバイトばかりしていたと誤解されそうですが、実際には、在学中は放課後や春期・夏期・冬期休暇中にバイトを入れ、大学卒業後は週に平均3日間位の仕事を入れ、残りの日や夜間に日本画制作をコツコツとしていたのです。大学卒業後から2008年頃まで、1~2年に一度の「個展」と、1年間に4~5回は「翔の会日本画展」(銀座松坂屋)等のグループ展をコンスタントに開催していたのですから、20歳代後半~40歳頃の自分を、よく頑張っていたなと自ら回想します。最近はグループ展の回数は減っていますが、絵本出版後に「絵本原画展」を集中して開催しています。
 藝大・美大を卒業した友人・先輩は、すぐに美術予備校や小中学校で教えたり、大学の助手に残ったり、カルチャースクールで講師をする人がほとんどでした。絵を教える仕事をしながら絵を描くのが、一番、楽なのは当然分かっています。私も大学時代に1年間、美術予備校・河合塾美術研究所(東京校)で日本画科講師を体験しましたが、あまりに若くから人に指導する仕事をすると、自分に実力も無いのに勘違いして、口だけ達者な「天狗」になってしまう人を多く見て来た経験もあり、私はたとえ苦労をしても40歳近くまでは絵を教える仕事はせずに、自分が制作する立場に専念したい、という自戒の思考も持っていました。


 今までに私は、このような厳しい絵描きの茨の路を歩んで来たのです。多分、ほとんどの同世代の絵描きより苦労して来たと言って良いでしょうね。私は自らを低い地位に置く事で、徹底した茨の路を自分の人生に敷いて、「真の芸術家」を目指そうと願ったのです。 
 近年は40歳を越えて、さすがに私も少しは性格が落ち着いて来ました。もう少し自然体で生きて行っても良いのではないかと、最近は思うようにしています。

                     *

 ここ10年弱は、日本画・絵本の収益と、カルチャースクールの講師料とで何とか食いつないでいますが、まれに大きな展覧会や絵本制作で少しまとまった臨時収入はあるものの、基本的には一般的なサラリーマンの収入の何分の1かのわずかな収入で、何とか生きています。まさに、絵に描いたような貧乏絵描きの生き様です。それは、今ではほとんど聞く事もなくなった美徳の一つである「清貧」と言い換えても良いでしょう。
 清貧生活の中でも、たまに絵本の収益等があると、すぐに日本や世界中の子供達に絵本寄贈をしてしまうので、ますます貧相な生活になるのですが、子供達に笑顔を広めたい性分なので仕方ありません。
 何故、こんなみっともない話をするのかと思われるでしょうが、実体験を赤裸々に示す事によって、私が出世権力志向で動いていない事を証明すると共に、世の人々のお金というものに対する価値観の再検証を試みてみたかったのです。(私は画家なので、「文章」は趣味みたいなものです。故に、原稿料をいただかなくても良いのです。しかし、今後機会があれば、仕事として文章も手掛けてみたいと考えています。)

 日本も世界もお金持ちが偉いという考えが一般的ですが、私の理論ではお金持ちは多くの貧乏人からお金をせしめて生きている分、実は多くの貧乏人に感謝せねばならぬ立場にあると考えています。ただ配分バランスが偏っているだけで、億万長者は何も威張れる根拠は持っていないのです。お金持ちの多くはそれを実力・能力と考えがちですが、時の運や強引な性格がもたらした一過性のものであるケースが大部分でしょう。 
 現在も過去も、人間はお金という幻想に執着して来ました。資本主義というシステムはその最たるものですが、ようやく今頃、その限界説がささやかれ始めました。私はお金のみに価値観を求める多くのビジネスマンの拝金主義的嗜好に、前々からあきれています。人は生きていければ良いのです。何が本当の幸せなのかを熟慮し、最も大切なものは何かを知るべきです。それこそ、無知の知です。
 私の極論では、生活に必要な資産以上の収益のある人は最大99%位まで、世界中のより貧しい人々の福祉や子供の教育等に配分していく位の、大胆な国際的大改革があって良いと考えています。何故なら、世の中に100倍、1000倍以上もの格差を生むほど、他者より能力の高い人や努力している人はありえないからです。わずかな能力や努力の差と大部分の運が、現在の異様なまでの格差をもたらしているのです。資本主義の最も間違っている点がそこにあります。動物の場合は、せいぜい多く食べれるか食べれないか、子孫を多く残せるか残せないかの差しか生じません。それが自然の摂理なのです。
 私は資本主義や機械文明・コンピュータ社会を信じてはいません。ただ当然ながら、それに代わる良いシステムを知っている訳ではないのですが、人類がここらで一度立ち止まって、たとえ不便であろうとも、自然と共に生き、完全なリサイクルが行われて来た、少し昔の永久的に継続可能な生き方を見直すべきではないかと考えています。

 私はブッダやガンジー等の「無所有」の思想に憧れます。また、「不殺生」「非暴力・不服従」の思想にも大いに共感します。ガンジーが亡くなった時に所有していたのは、着ている服と糸車と一冊の本だけだったという逸話を記憶しています。それでも、世界中の多くの人々はガンジーを侮蔑したりはしないはずです。その思想と行動こそが最も尊くて崇高だからです。
 私のような俗人は聖人のようには到底生きられませんし、絵を描くのには画材や資料が必要となります。しかし、絵描きの必要とする物以外への余計な物欲はなるべく控えねばならないと考えています。私は画材がそろえられ、取材旅行ができればそれでいいのです。しかし、そんな純粋な生き方ができれば、それこそ贅沢というものかも知れません。世界中の平均から比較すると、貧乏絵描きと言えど、日本人はほとんどの人が贅沢過ぎるのですから。(ただ、諸々の生活基本料金が高過ぎて、生きていくのは決して楽と言えないのが日本の実情ですが・・・。)
 しかしながら一つ懸念されるのは、本当に志があり実力もあるのに「絵」だけで食べて行けない作家がこんなにも多い日本の現状では、将来、優れた作家は全く育って行かないでしょうし、日本の文化は衰退して行く事でしょう。私の場合は、学生時代の意図的な2年間の留年により、日本画界において少なくとも30~50年分位(半生分)はマイナスのハンデを負ったとは言え(東京藝大・難関美大卒以外の作家より、日本画壇・藝大学閥の有力者に知られている分、余計に出世の妨げになる可能性が高いです)、小中高校時代に「天才絵描き少年・青年」とまで称賛された私でさえ、こんなに辛酸をなめる絵描き人生になるのです。私は人並み以上に極めてタフな精神・肉体なので、こうして今も絵を描けていますが、常人ならば、とっくの昔に絵の路を断念している事でしょう。世間一般の美術文化への関心の向上と、作家をサポートしていける社会体制の構築は不可欠です。私も、もう少し取材を増やせて、画材が豊富に使えるようになりたいものですね・・・。

 今回、色々と思うところが多くて、いつもながらまとまらない文章になってしまいましたが、今の率直な気持ちを文章に書き記しておこうと思いました。かなりの長文になりましたが、偏屈な一絵描きの戯言とお聞き流し下さい。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁




テーマ : 文明・文化&思想
ジャンル : 学問・文化・芸術

2016-12-25

東京藝大(東京芸大)という恐るべき所

 私はおよそ20年前の1996年に、東京藝術大学 美術学部絵画科 日本画専攻を卒業したのですが、競争率20倍以上(当時の日本画専攻)の日本屈指の難関大学といえど、所詮は学生・・・卒業してから”絵”を続ける方がはるかに困難な路なのです。とはいえ、ごく最近は東京藝大の優位性・存在価値もほんの少しずつながら低下気味のようですが、今もその重厚な存在感は美術・芸術界で抜きん出た地位を占めています。一つの評価指標でしかありませんが、美術系の文化功労者・文化勲章受章者の大半が東京藝術大学卒業生だそうです。
 しかしながら最近、絵本業界で活動していると、若いイラストレーター・絵本作家になるにつれ東京藝大の”すごみ”を知らないようですね。東京藝術大学の”すごみ”というのは、入学する難しさや描写技術の高さや「肩書」だけなのではなく、そこを出身とする芸術家の歴史的な層の厚さと人脈の強大さなのです。日本画家はいうまでもなく、横山大観、菱田春草から始まり、高山辰雄、東山魁夷、平山郁夫、加山又造、中島千波、千住 博 先生まで著名日本画家のほとんどが東京藝術大学卒業生です。絵本作家では、いわむらかずお さんや西巻茅子さん、最近では酒井駒子さん等が有名です(酒井さんは油画専攻ですが、私とほぼ同期です)。
 日本美術史をさかのぼると枚挙にいとまがないので、東京藝大の権威や作品レベルもやや落ちつつあると考えられる昨今ですが、私が在籍していた頃だけ、今すぐ思いつく分だけを見てみましょうか・・・。


 私が大学時代に最も仲良くしていた日本画専攻の同じクラスの3~4人のメンバーの中に、文部省か文化庁の役人(記憶が少々あいまいですが、その当時には省庁を辞められて大学教授をしていたらしく、平山郁夫 先生とも知り合いだったそうです)の娘さんがおりました。彼女は随分と個性的で面白い人でしたが、その後、有田焼の家元・酒井田柿右衛門の息子さんと結婚しました。そんなご縁で、柿右衛門邸を案内していただいた事もあります。お二人の結婚披露パーティーでは、千代田区の一等地にある彼女のマンションで、お二人らとともに垂れ幕等の制作をしました。酒井田 君が案外不器用だった印象もありますが、威張り気のないとても人のいい方です。その酒井田 浩 君も2年前位に15代 酒井田柿右衛門を襲名して、先日はNHK番組に出演しているのを見ましたが、彼も今では日本伝統工芸界の大物の風情です。
 日本画専攻の私の少し後輩には、千家十職(せんけじっそく/茶道に関わり三千家に出入りする十の職家を表す尊称)の一つで京焼の家元・永樂善五郎のお孫さんもいました。彼とは金唐革紙(きんからかわし/手製高級壁紙)の復元製作で一緒に仕事しましたが、「手が痛い痛いで・・・」と嘆きつつ、一か月程で彼は辞めていきました。彫刻科の後輩には、関西で有名な竹工芸作家家系の田邊竹雲斎の息子さんの田辺小竹 君もいました。彼は私と同じ大阪市立工芸高校 美術科の卒業生でもあります。最近は日本の百貨店や海外でも個展を開催して活躍しています。日本画専攻の少し先輩には、上村松園のひ孫さんもいました。このように東京藝術大学には、著名で歴史的な日本画家や職人家系のご子孫が多く在籍しているのも特徴です。

 当時の日本画専攻 博士課程には村上 隆さんが在籍していましたが、私は美術予備校・立川美術学院 日本画科でも彼にデッサン・水彩画(着彩)を学びました。彼は大学卒業後、現代アートの路を歩み、日本を代表する現代アートの奇才になったのはいうまでもありません。私が藝大に入学する少し前には千住 博 先生が在籍していました。先輩に聞くと、医者の息子の千住 先生は、当時スポーツカーで学校に通って来ていたらしく、教授から「苦学生もいるのだから止めてくれないか・・・。」と言われる位の羽振りだったらしいです。
 さらに、日本画専攻の少し先輩にはタミヤ模型の社長の娘さんもいましたし、私と同じクラスには神奈川県で1~2を競う富豪の家柄だとか噂される娘さんもいました。このように学内に、社長・会長や富裕階級のご子息・ご息女が多いのも東京藝術大学の特徴です。
 教授陣も当時は、平山郁夫 学長をはじめ、名誉教授に高山辰雄 先生、教授に加山又造、後藤純男、田淵俊夫、福井爽人 先生 等、当代の超一流日本画家が教えていました。現在の東京藝大 日本画専攻の教授陣は、当時と比べると見劣りする感は否めません。

 その他にも、美術大学で講師をしたリ各分野で大活躍する美術家・日本画家等が、先生・先輩・同輩・後輩に数えきれないほどいるというのが東京藝術大学の本当の恐ろしい所であり、”すごみ”なのです。東京藝術大学 日本画専攻のクラスの半分位は、著名な作家の家柄や裕福な家系の人々で、残りの半分が私のような中流階級から少し貧しい家庭の子供なのです。また、3分の2以上は首都圏出身者で、地方出身者は極めて少ないです。当然ながら前者の方が将来出世する可能性はぐんと増しますので、私のような地方出身の一般人は相当苦労する事になるのですが・・・。
 しかし、それらの全ての方々と今も交流が続いているという訳ではありませんが、若い頃から、いわゆる一流作家の人脈の中で勉学できた事は、今になって考えるととても良い環境であったかと思っております。学生時代には権威・権力に対する矛盾・反発を感じた事も度々ありましたが、年を経て今振り返ると、良い面悪い面があるにせよ、実に素晴らしい経験だったと思うのです。

  日本画家・絵本画家 後藤 仁


立川美術学院 日本画科「美術予備校・立川美術学院 体育祭」(1989年10月) 村上 隆さん、中村寿生 君と私。現在は現代アートの第一人者として知られている村上 隆さんですが、当時は東京藝術大学 日本画専攻の博士課程に在籍し、立川美術学院 日本画科で講師をしていました。左は美術学院の同級生の中村寿生 君(現在、文星芸術大学 日本画専攻 准教授・講師)。

酒井田柿右衛門 邸「酒井田柿右衛門 邸 ─ 柿右衛門の名の由来になったという柿の木の前にて」(1999年8月) 酒井田 浩 君(14代柿右衛門 長男。現在、15代柿右衛門)と私。



佐賀新聞 (2014年3月29日): 十五代柿右衛門さん襲名 450人が祝福
 http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/57310

 お偉くなったからか、近年さっぱり連絡をくれなくなったが、私の同級生だった酒井田晶子さんもお元気そうですな。あれ、お子さんもいるのね~

 

 

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

2016-12-13

最近、「絵本」を語る日本画家に思う事


絵本『ながいかみのむすめ チャンファメイ』表紙・表絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも) 表紙


『最近、「絵本」を語る日本画家に思う事』

 それにしても、ここ2~3年、やけに日本画家「絵本」を描いたり、「絵本原画展」を開く機会が多くなりましたね。それ以前はインターネットをほとんど見ていなかったので気が付かなかっただけかも知れませんが・・・。かく言う私も、2004年と2007年に開催した私の日本画個展に、福音館書店の編集者が来られてから、子供の頃(幼児期~中学校の頃)に憧れた「絵本」の魅力を思い出したわけですが・・・。
 ただ、それまでにも、卓上芸術である「物語絵」「絵巻物」を描きたいという強い思いがありましたので、それが「絵本」の世界観と自然に通じたわけです。現代の日本画は、写実的な風景画や写真的な現代女性の人物画が全盛で、会場芸術の大作主義が主流ですが、私の求める世界とは少し異なるのです。私は元々、物語性のある人物画(美人画)が得意なので、人物を描くケースが多い「絵本画」に合っていたという事実もあります。
 今の時代、「日本画」の売り絵だけで食べて行くのは至難の業です。日本画の世界はプロとセミプロ・アマチュアの区別がはっきりしていないですが、本格的に制作をしているプロの日本画家と言える人は500人足らずだと思います。その内、それなりに世間で名の知られた日本画家は100~150人位で、私もその一人に入るでしょう。更にその中で、一生を絵だけで食べて行ける日本画家は、多分、25~30人位しかいないと思います。それらのほとんどは団体展で高価値を付与されているか、商売の上手い人です。ただし、最上位の10数人は富豪と言われる豪奢な生活をしています。絵だけで食べて行けない、その他の95%位の日本画家は、絵画講師等の何らかの副業をしながら絵を描くか、裕福な家系のご子息・ご息女かです。日本画をプロとして10年以上継続できている人は東京藝術大学の日本画専攻卒業生(毎年26名)でも3分の1位の人(8~10名)だけで、美術大学卒業後5年以内に、絵の路を断念して絵筆を折る作家が大半です。
 当然、そんな苦しい環境下で、皆さん色々試行錯誤する事になります。その悪い方向性として、現代の日本画家はすぐに他人のマネ(模倣)をしたがる嫌いがあります。ある作風・やり方(展開方法)が売れると(評価されると)、同輩・後輩がすぐにそのマネをします。例えば、東京藝術大学の日本画専攻では、私の在学していた頃に流行していた作風(田淵俊夫先生や福井爽人先生辺りの作品を模倣)が、20年後の今でも描かれています。この悪癖が今の日本画界のマンネリ化・類型化と衰退の加速化を助長しているとも言えるのですが・・・。思い過ごしかも知れませんが、私が「絵本」の世界に本格的に歩み出した頃から、私の周囲の日本画家が、今まで興味がないように見えた人までも、突然「絵本」「挿絵」等と叫び出した気がします。
 ただ、「日本画」の世界と同様、絵本・挿絵といった「出版美術」の世界も、長引く出版不況やデジタル化の波もあって、相当厳しい世界である事には変わりありません。中途半端に活動するのなら、何をやっても同じ事でしょう。もし、日本画家で「絵本」を目指される方がいるなら、本気で本腰を入れて事に当たらないと、絵本作家やイラストレーターの方にとても失礼な事になるでしょうね・・・。

 「絵本」の歴史を振り返ると、昔(明治の頃)は絵本作家・絵本画家や挿絵画家という職業意識はなく、日本画家(浮世絵師を含む)や洋画家が依頼されて絵本や挿絵を描いていました。大正・昭和時代以降、印刷美術・出版美術を活動主体とするデザイナー・イラストレーターが登場し、戦後、絵本の隆盛につれ絵本作家・絵本画家という職業が確立されて行きました。近年では、日本画家の秋野不矩先生や堀 文子先生等が絵本の世界でもご活躍し、かつては東山魁夷先生や稗田一穂先生等も絵本を描いていました。ただ、それらの作家は日本画家として確立された先生方なので、絵本は片手間の感をぬぐえません。日本画を用いた絵本作家では、赤羽末吉さんが有名ですが、赤羽さんの場合は逆に日本画はほぼ独学に近いので、さほど本格的な日本画家とは言えません。
 かつてはこの様に、日本画家等の純粋美術作家が「絵本」の作画を依頼されるケースが多かったのですが、現代では「絵本作家・絵本画家」という職業意識も確立していますので、やはり、日本画家があまり安易な見識で「絵本」を描くのは、それを活動主体とする絵本作家・絵本画家・イラストレーターの方々に失礼というものでしょう。
 そんな理由もあって私は、初絵本『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店こどものとも)を出版した3年前位に日本児童出版美術家連盟(童美連)に所属し、日本画界での約33年(プロとして約20年)という長い経歴と自負を抑えて、絵本作家・イラストレーターの皆様に首を垂れ、絵本とその業界を基礎から学びたいと考えたのです。

 現在私は、日本画のオリジナル作品を描きながら、絵本の制作を並行しています。今、福音館書店「こどものとも」の新作絵本の制作が既に3年余り進んでいて、完成までには更に数年かかりそうです。また、来年出版予定の鈴木出版(すずき出版)「こどものくに」の新作絵本制作も進行中です。福音館書店「こどものとも」は1956年(昭和31年)創刊で、創刊号の絵は堀 文子先生によるものです。鈴木出版「こどものくに」は1967年(昭和42年)創刊なのでほぼ私と同じ年です。いずれも日本の月刊絵本を牽引してきた歴史ある有名な絵本シリーズです。
 私は、幼少期にはオリジナル漫画・紙芝居やイラストを描き、中学生の頃はアクリル空想画を描き、高校では大阪市立工芸高校美術科で本格的に日本画・油絵・彫刻・デザイン・製図・版画等を学びました。東京藝術大学日本画専攻で更に日本画を追求し、その頃から約12年間、金唐革紙(きんからかわし/金唐紙 きんからかみ、とも言う)という手製高級壁紙の復元製作を手掛けた経験もあります。私の伯父でもある、からくり人形師の後藤大秀さんの、からくり人形・能面制作から大きな影響も受けています。
 このように様々なジャンルが垣根を超えて交流し、折衷されては、また独立し、切磋琢磨していくのが本来の”ものづくり”の原点なのかも知れません。私も、もちろん路半ば、まだまだ修行の途上でしかありません。

 日本画家・絵本画家 後藤 仁

テーマ : 絵画・美術
ジャンル : 学問・文化・芸術

2016-11-20

絵本『犬になった王子 チベットの民話』掲載、The White Ravens 国際推薦児童図書2014カタログが届く

 私の作画絵本『犬になった王子 チベットの民話』 (君島久子 文、後藤 仁 絵/岩波書店)が、Internationale Jugendbibliothek München/International Youth Library Munich/ミュンヘン国際児童図書館「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定されていた事が分かったので、私が一番信頼をおいている福音館書店の担当者に頼んで、カタログの現物をドイツのミュンヘン国際児童図書館から取り寄せていただきました。2年前のカタログなので無理かと思いましたが、本当に届いたのでうれしいですね。岩波書店の絵本担当者によると、推薦図書になった事を私に伝えたつもりでいたと言うのですが、ネット上で自ら発見するまで全く知りませんでした。やはり作者は自作の動向をきちんと知りたいものなのです。

 先日の日本児童出版美術家連盟(童美連)「太田大八さんをしのぶ会」で、黒井 健さんがおっしゃるには、『ハナミズキのみち』 (淺沼ミキ子 文、黒井 健 絵/金の星社)が同じく2014年度のThe White Ravensに選ばれていた事を、私のHPかブログで知られたとかで、黒井さんも出版社もその事実を知らなかったと言います。
 岩波書店では毎年、ミュンヘン国際児童図書館に「絵本」の寄贈をしているそうですが、それでは金の星社の「絵本」は誰が寄贈したのか・・・、不思議な話でした。黒井さんも「後藤君の記事で初めて知ったよ。ありがとう・・・。」とうれしそうにされていました。やはり、どんなにベテランになっても、自作の動向は知りたいものなのだと思います。今後とも、出版社の担当の方々には、お手数でも、作家へのまめなご連絡をお願いしたいものですね。

 画像は、送られて来た「ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」カタログの現物と、私の作画絵本『犬になった王子 チベットの民話』の紹介ページです。

 日本画家・絵本画家 後藤 仁



●ミュンヘン国際児童図書館 公式ホームページ 「国際推薦児童図書目録2014」 ─ 犬になった王子 チベットの民話
http://www.ijb.de/spezialbibliothek/white-ravens-2014/single/article/japanese-japan-11/163.html?noMobile=%2Fproc%2Fself%2Fenviron&cHash=98a8a98b5a015c6dc1188647b2d9a2f1


The White Ravens2014カタログザ・ホワイト・レイブンス2014 カタログ

The White Ravens2014カタログザ・ホワイト・レイブンス2014 カタログ─ 絵本『犬になった王子 チベットの民話』ページ




犬になった王子――チベットの民話犬になった王子――チベットの民話
(2013/11/16)
君島 久子

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テーマ : お知らせ
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

後藤 仁(GOTO JIN)

Author:後藤 仁(GOTO JIN)
 ~後藤 仁 公式ブログ1~
日本画家・絵本画家 後藤 仁(GOTO JIN)の日本画制作、絵本原画制作、写生旅行、展覧会などのご案内を日誌につづります。

  〔後藤 仁 略歴〕
1968年兵庫県赤穂市生まれ。15歳、大阪市立工芸高校美術科で日本画を始める。東京藝術大学絵画科日本画専攻卒業、後藤純男先生(恩賜賞受賞者)に師事。在学中より約12年間、旧岩崎邸、入船山記念館、孫文記念館(移情閣)等の金唐革紙(手製高級壁紙)の全復元を行う。卒業以降は日本画家として活動し、中国・インドをはじめ世界各地に取材した「アジアの美人画」をテーマとする作品を描き、国内外で展覧会を開催する。近年は絵本の原画制作に力を入れる。
○絵本作品に『ながいかみのむすめチャンファメイ』(福音館書店)、『犬になった王子 チベットの民話』(岩波書店)、『わかがえりのみず』(鈴木出版)、『金色の鹿』(子供教育出版)、挿絵作品に『おしゃかさま物語』(佼成出版社)。『犬になった王子 チベットの民話』は、Internationale Jugendbibliothek München ミュンヘン国際児童図書館(ドイツ)の「The White Ravens 2014/ザ・ホワイト・レイブンス 国際推薦児童図書目録2014」に選定される。NHK日曜美術館の取材協力他、テレビ・新聞等への出演・掲載も多い。
○東京藝術大学・デザイン科非常勤講師。東京造形大学・絵本講師。金唐革紙保存会 主宰。日本美術家連盟(常任理事:中島千波先生 他)会員。日本児童出版美術家連盟(童美連)(太田大八先生、赤羽末吉先生、いわさきちひろ先生らが創設)会員・理事。絵本学会(太田大八先生らが創設、現会長:松本 猛先生)会員。日本中国文化交流協会(井上 靖先生らが創設)会員。この本だいすきの会(代表:小松崎 進先生)会員。千葉県松戸市在住。

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絵本ナビ「犬になった王子  チベットの民話」絵本ナビ「犬になった王子 チベットの民話」
絵:後藤 仁 /文:君島 久子 /出版社:岩波書店絵本ナビ


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